だから僕は、好きな人のために殺人犯を逃がした
雨の匂いは、いつも決断の匂いだ。
あの日もそうだった。
コンビニのガラスに叩きつけるような雨粒を見ながら、僕はレジの奥でぼんやりと立っていた。深夜二時。客なんてほとんど来ない時間帯だ。
「……ねえ、悠真くん」
振り向くと、彼女がいた。
白いシャツが濡れて肌に貼りつき、肩で息をしている。髪から滴る水が床に小さな水たまりを作っていた。
高瀬由衣。
僕が、どうしようもなく好きな人。
「どうしたの、その格好……」
言い終わる前に、彼女は言った。
「人を殺したの」
時間が止まった。
レジの電子音も、外の雨音も、全部が遠くなる。
「……冗談、だよね?」
「本当」
彼女の目は、冗談を言うときのそれじゃなかった。
震えているのに、どこか覚悟を決めたような硬さがある。
「お願い。助けて」
その一言で、僕の中の何かは決まってしまった。
正しいかどうかなんて、どうでもよかった。
ただ、彼女を失いたくなかった。
「死んだのは……誰?」
「元カレ」
短く、彼女は答えた。
よくある話だと思った。暴力、執着、別れ話のもつれ。
でも、現実はそんな簡単じゃない。
「突き飛ばしたら……頭打って……」
「事故、ってことにできるかも」
自分でも驚くほど冷静な声が出た。
「場所は?」
「アパート。今、まだ……そのまま」
「じゃあまず戻ろう」
「え?」
「現場、確認しないと」
彼女は僕を見た。信じられないものを見るような目で。
普通なら、警察に行けって言う場面だ。
でも僕は違った。
「大丈夫。僕がなんとかする」
その言葉は、彼女を救うための嘘だったのか。
それとも、自分を正当化するための言い訳だったのか。
今でも分からない。
部屋は、ひどく静かだった。
男は床に倒れていた。頭の横に黒ずんだ血の塊。
動かない。
本当に、死んでいる。
現実感がなかった。
「……戻れないね、もう」
僕は呟いた。
彼女は何も言わなかった。
ただ、震えていた。
「いい?ここからは僕の言う通りにして」
自分でも信じられないくらい、頭は回っていた。
スマホ、指紋、監視カメラ、時間。
消せるものと、消せないもの。
僕は、証拠を消し始めた。
夜明け前、僕たちは街を出た。
彼女の車で、高速道路に乗る。
ラジオはつけなかった。
何も聞きたくなかった。
「……どうして、そこまでしてくれるの?」
彼女がぽつりと言った。
僕は少し笑った。
「好きだから」
それ以上の理由なんて、なかった。
彼女は黙った。
しばらくして、小さく言った。
「ごめんね」
その謝罪が、何に対するものだったのか。
その時の僕は、深く考えなかった。
ニュースが出たのは、二日後だった。
「男性死亡 事件の可能性」
画面に映るアパート。
僕たちがいた場所。
彼女の顔色が変わる。
「大丈夫。まだ特定されてない」
そう言いながら、僕の中には確実に不安が広がっていた。
完璧な犯罪なんて、存在しない。
どこかに必ず、ほころびはある。
そして、そのほころびは——
思ったより早く見つかる。
「ねえ、悠真くん」
ある夜、彼女が言った。
「本当のこと、聞きたい?」
嫌な予感がした。
でも、僕は頷いた。
「……事故じゃないの」
彼女は言った。
「最初から、殺すつもりだった」
頭の中が真っ白になる。
「ずっと、計画してた」
「なんで……」
「だって、あの人、私を壊そうとしたから」
その言葉には、確かな憎しみがあった。
そして——
どこか、冷たさも。
「でも、一人じゃ無理だった」
彼女は僕を見た。
「だから、あなたが必要だったの」
その瞬間、すべてが繋がった。
彼女は、最初から僕を利用するつもりだった。
コンビニに来たのも、偶然じゃない。
全部、仕組まれていた。
「……じゃあ僕は、何だったの?」
「優しい人」
彼女は微笑んだ。
「だから選んだの」
胸が締めつけられる。
裏切られたはずなのに、怒りより先に来たのは——
それでも彼女を好きだという感情だった。
どうしようもない。
「これから、どうするの?」
僕は聞いた。
「逃げ続ける」
彼女は言った。
「一緒に来る?」
その問いは、最後の選択だった。
正しい道は分かっている。
警察に行くべきだ。
彼女を止めるべきだ。
でも——
「……行くよ」
僕は答えた。
結局、僕は。
最後まで、彼女を選んだ。
数年後。
ニュースの片隅に、小さな記事が載った。
「連続殺人事件の容疑者、国外逃亡か」
名前は出ていない。
でも、分かる人には分かる。
僕たちは、まだ逃げている。
「ねえ、悠真くん」
彼女が笑う。
「後悔してる?」
僕は少し考えてから答えた。
「してないよ」
それは、本当のことだった。
正しいかどうかなんて、もうどうでもいい。
僕は選んだのだ。
彼女と一緒に生きる道を。
たとえそれが、間違いだったとしても。
雨は、もう降っていなかった。
けれど、僕の中ではずっと降り続けている。
あの夜から、ずっと。




