第六章 鏡
二〇二九年五月十七日。東京時間、午前三時二十二分。
深夜の実験室で、すべての計測器がアラートを発した。量子コヒーレンスが過去最大の異常値。
ハーヴェイから即座に返信。「MITでも同じ異常。同時刻。CERNからも。中国からも。世界中で同時だ」
同日、世界各地でUAP目撃報告が通常の数十倍に急増していた。
量子異常とUAP目撃の同時発生。これまでの「時期が重なる」程度の相関ではなく、分単位での完全な同期。
守屋は実験室を出て、夜空を見上げた。何も見えなかった。
翌日。守屋はデータの前に座り、動けなくなった。
量子異常とUFOの同期。一方が他方を引き起こしたのか。UFOが量子異常を起こしたのか。量子異常がUFOを呼んだのか。
違う、と守屋は思った。
黒川の言葉が蘇った。「異なるスケール相は量子もつれと同じ原理で結ばれている。もともと一つの構造の異なる面だ」
もつれた粒子の片方を測定すると、他方も同時に確定する。しかしそれは信号が飛んだからではない。もともと一つの量子状態だったからだ。
量子異常とUFOの同期も同じではないか。一方が他方を引き起こしたのではなく、同じ出来事が異なるスケール相に同時に在ったのだ。
そしてここで——モーガンの薬理学の講義が、守屋の頭の中で突然、別の意味を持ち始めた。
人類は何をしているか。体内の細胞にカプセルで薬を送り込んでいる。ミクロの世界に介入している。原子を割り、量子を操作し、核分裂を引き起こしている。
では——黒川が人類のスケールをNと呼んだ、あの表記法を借りるなら——N+1相の存在は何をしているか。地球にUFOというカプセルで何かを送り込んでいる。
これは——同じことではないか。
人類が自分より小さいスケールの世界に介入するという出来事と、N+1相の存在が人類のスケールの世界に介入するという出来事。これは一方が他方を引き起こしたのではない。同じパターンが異なるスケール相に同時に在るのだ。鏡に像が映るように。もつれた粒子の片方が確定するともう片方も確定するように。
人類がミクロに手を出し始めた時期と、UFOが出現し始めた時期が重なるのは、偶然でも因果でもない。同じ出来事が、異なるスケール相に、同時に在ったのだ。
一九四五年、人類は原子核を分裂させた。ミクロの世界への最も暴力的な介入。
一九四七年、UFOが出現し始めた。
これは片方が片方を引き起こしたのではない。「上の相が下の相に介入する」という一つの出来事が、人類のスケールとN+1のスケールに同時に現れた。
そしてUFOがカプセルであるなら——中に入っているのは薬だ。
ロズウェル事件で回収されたとされる存在。小さな体、大きな頭、巨大な黒い目。いわゆるグレイタイプと呼ばれるもの。
あのグレイが薬だとしたら。
モーガンが言っていた。「薬剤の表面をターゲットに似せる。受容体を騙す」
グレイはカプセルから出てきた薬だ。人間に接触するために人間の形に似せてある。しかし似せ方が粗い——。
ここで守屋は立ち止まった。
なぜ粗いのか。それはまだ分からなかった。しかし構造は見えた。
UFOはカプセル。グレイは薬。人類は治療されている。
守屋は震える手でハーヴェイに電話をかけた。
「少し落ち着け」とハーヴェイは言った。
「私もこの仮説に近いところまで来ていた。しかし確証バイアスの罠がある。仮説を反証するデータを探せ」
「分かっています」
「まだ欠けているピースがある。薬の作用機序だ。グレイが人類に何をしているのか。それが分からなければ仮説は完成しない」
守屋は同意した。しかし、一つの構造が見えたという確信は揺るがなかった。




