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シナリオ通りに救わないで――誇り高き「悪」令嬢は、転生者の善意を叩き斬る

作者: 月影の書記
掲載日:2025/12/30

本作を手に取っていただき、ありがとうございます。 「もし、用意された幸福が自分のプライドを傷つけるものだったら?」 そんな問いから生まれた物語です。 誰かに書かれたシナリオを拒み、泥にまみれても自分の足で歩こうとするヒロイン、ロゼッタの生き様を、どうぞ最後まで見守ってください。

 シャンデリアの光が、精巧にカットされたクリスタルに反射して、ダンスホールの床に無数の星を撒き散らしている。 卒業記念パーティー。それは学び舎を去る若者たちにとっての門出であり、同時に、この国の貴族社会という名の、より冷酷で、より洗練された戦場への入り口でもあった。


 私、ロゼッタ・フォン・アルバートは、手にした扇を静かに閉じ、騒がしい喧騒の端でその時を待っていた。 燃えるような紅蓮の髪を高く結い上げ、背筋を真っ直ぐに伸ばす。アルバート公爵家の長女として、一分の隙もない礼法を身に纏い、私は今日まで「完璧」であり続けた。 例え、背後で囁かれる言葉が私を「苛烈な悪女」と蔑むものであったとしても。


「……そろそろ、ですね」


 小さく零した言葉は、周囲の笑い声に掻き消された。 ホールの中心。人だかりが割れ、そこから一人の男が進み出てくる。 この国の第一王子であり、私の婚約者でもあるエドワード・ド・ラ・ヴァリエール。 その傍らには、守護欲をそそるような、儚げで愛らしい令嬢が寄り添っている。平民出身の特待生、ミサキ・サトウ。 彼女がこの学園に現れてから、世界の歯車は奇妙な音を立てて狂い始めた。


 エドワード王子の瞳には、かつて私に向けられていた形式的な敬意すら残っていない。そこにあるのは、正義という名の剣を振るう者に特有の、陶酔と独善だ。 彼は私の正面で足を止めると、朗々と声を張り上げた。


「ロゼッタ・フォン・アルバート! 貴様の悪行はすべて、私の耳に届いている。ミサキに対する執拗な嫌がらせ、教科書の破棄、果ては階段からの突き落とし……。王太子の婚約者として、いや、人間としてあるまじき卑劣な所業。もはや、看過することはできん!」


 周囲の視線が、刃となって私に突き刺さる。嘲笑、蔑み、そして僅かばかりの同情。 私はただ、静かにその言葉を受け止めた。 実際には、私が彼女に嫌がらせをした事実などない。教科書を破ったのは彼女を慕う取り巻きたちの暴走であり、階段から落ちたのは彼女の自作自演だ。 だが、そんなことはどうでもよかった。 私は「悪役」として、この場で彼の断罪を受け入れ、誇り高く去ることを決めていた。 それが、古き伝統を守る公爵家としての私の責任であり、愛なき政略結婚に終止符を打つための、最高に美しい「幕引き」になるはずだったのだ。


 私は、計算し尽くされた角度で優雅に一歩前へ出た。 否定も、弁解もしない。ただ、冷徹なまでの美しさを保ったまま、この滑稽な茶番劇を終わらせるために。 唇を開き、彼を突き放すような決別の言葉を紡ごうとした。その瞬間。


「待って! そんなの酷すぎるわ、エドワード様!」


 静寂を切り裂いたのは、エドワードの腕にしがみついていたはずのミサキの声だった。 彼女は弾かれたように前に飛び出し、あろうことか、私の前に立ちはだかった。 まるで、私を守る盾にでもなったかのように。


「ロゼッタ様は悪くないの! 全部、私が、私が不器用だったから。ロゼッタ様はただ、王妃になるための厳しさを教えてくれようとしていただけで……。ねえ、お願い、婚約破棄なんて言わないで! 私は、ロゼッタ様と友達になりたいだけなの!」


 ……頭の芯が、冷えるような感覚を覚えた。 周囲からは「なんて慈悲深い聖女様だ」という感嘆の溜息が漏れる。エドワード王子もまた、毒気を抜かれたような顔をして彼女を見つめている。 だが、私には分かっていた。 彼女の瞳の奥にあるのは、純粋な善意ではない。 それは、獲物を観察するコレクターのような、あるいは物語の結末を書き換えることを愉しむ全能者のような、薄気味悪い「期待」だった。


 彼女は時折、誰もいない場所で奇妙な言葉を口にしていた。 『フラグ』『ハッピーエンド』『救済ルート』。 何を言っているのか理解できなかったが、彼女がこの世界を、私たちの人生を、何か別の「作り物」のように扱っていることだけは肌で感じていた。 そして今、彼女は私の人生における最も重要な決断……誇りを持って破滅を受け入れるという私の「意志」を、土足で踏みにじったのだ。


「ロゼッタ様、大丈夫ですよ。私、ちゃんとエドワード様に話しましたから。貴女が本当は優しい人だって。これからは仲良くしましょう? 私たちが力を合わせれば、この国をもっと素敵な場所にできると思うんです!」


 ミサキが私の手を取ろうと、無防備な笑みを浮かべて近づいてくる。 その手が私の肌に触れようとした瞬間、私は反射的にその手を叩き払っていた。 乾いた音が、静まり返ったホールに響き渡る。


「……触れないで頂戴」


 私の声は、自分でも驚くほど低く、冷たかった。 ミサキは驚いたように目を見開き、その大きな瞳にみるみるうちに涙を溜めていく。 エドワードが怒りに燃えた表情で私を怒鳴りつけようとするが、私はそれを視線だけで制した。


 貴女は何を言っているの? 私は、貴女に救われることなど望んでいない。 私は、アルバート公爵家の誇りにかけて、自分の犯していない罪を背負い、誰にも屈することなくこの場を去る準備を整えていた。 没収されるはずの資産は既に信頼できる部下を通じて国外へ移し、領民たちの生活を守るための手筈も、私の居ない後の領地経営の指針も、全て完璧に書き記してきた。 「悪役令嬢」として追放されるその瞬間、私は誰よりも自由になれるはずだった。


 それなのに、貴女のその「善意」という名の暴力が、私の積み上げてきた全てを無価値なガラクタに変えてしまった。 貴女は私を救ったつもりでいるのでしょう。 不当な断罪から可哀想な令嬢を救い出し、自分を慕う友人に書き換える……そんな自分に酔い痴れているのでしょう。 だが、それは救済ではない。 私の人生を、貴女の望む「幸福なシナリオ」へと強制的に矯正しただけだ。


「……ミサキ様。貴女は、私がこの日のためにどれほどの覚悟を重ねてきたか、ご存知かしら?」


 私は一歩、彼女へ歩み寄った。 彼女は怯えたように肩を震わせるが、その瞳はどこか輝いている。まるで、この想定外の展開すらも、新しい「イベント」として楽しんでいるかのように。


「貴女が振り撒くその毒のような善意。私は、それを決して許さない」


 エドワード王子が割って入り、ミサキを抱き寄せる。 「ロゼッタ、まだそんな態度を! ミサキの慈悲を無下にするというのなら、私にも考えがある! 貴様を修道院へ送ることは中止だ。ミサキの温情を受け入れ、彼女の侍女として一生、己の罪を償い続けるがいい!」


 王子の宣言に、会場からは安堵の声が上がった。 死罪や追放よりも「慈悲深い」判決。 だが、それは私にとって、死よりも屈辱的な宣告だった。 私の人生は、今日この瞬間から、この異質な少女の「ペット」としての物語に書き換えられてしまったのだ。


 私は、拳をきつく握りしめた。 爪が手のひらに食い込み、鋭い痛みが走る。 いいでしょう。 もし、この世界に「運命」という名のシナリオが存在し、貴女がその書き手であると言うのなら。 私は、その完璧な物語を、根底から叩き斬って差し上げましょう。


 アルバート公爵令嬢ロゼッタ・フォン・アルバートは、屈辱にまみれた「救済」など選ばない。 たとえ、どれほど漆黒の闇に堕ちようとも、私は私の意志で、私の地獄を歩んでいく。 冷たい月の光が差し込む窓の外を見やり、私は心の中で静かに、宣戦布告を唱えた。


 ◇


 卒業パーティーから一週間が過ぎた。 窓の外には、アルバート公爵邸の誇る広大な庭園が広がっている。丹精込めて手入れされた薔薇のアーチ、幾何学模様を描く生垣、そして清らかな水を湛える噴水。それらはすべて、我が家系が数百年をかけて築き上げてきた伝統と、美意識の結晶だった。 しかし、その景色は今、無残な変貌を遂げようとしていた。


「ねえ、ロゼッタ様! 見て見て、これ。私が提案した『効率的な庭園管理術』だよ。あんなにたくさんの使用人が時間をかけて手入れするなんて無駄だもん。この魔石を使った自動散水機があれば、半分以下の人数で済むの。余った人たちは、もっと新しい事業……例えば、私が教えるレシピで『タピオカ』を作る工場に回せば、領地はもっと潤うわ!」


 私の背後で、無邪気な声が弾ける。 そこには、王太子の婚約者という仮初めの地位を維持しつつ、公爵邸を自分の遊び場のように作り変え始めたミサキ・サトウの姿があった。 私は彼女に命じられた通り、今は公爵令嬢としてのドレスではなく、動きやすさを重視した簡素な、それでいて屈辱的なまでに地味な侍女服に身を包んでいる。


「……ミサキ様。この庭園は、ただの娯楽施設ではございません。領地の庭師たちが代々技術を磨き、その対価として我が家が彼らの生活を保障してきた、契約と信頼の場なのです。機械で置き換えることは、彼らの誇りと職を奪うことに他なりません」


 私は感情を押し殺し、静かに告げた。 だが、ミサキは首を傾げ、困ったような笑みを浮かべるだけだった。


「もう、ロゼッタ様は頭が固いんだから。これは『近代化』っていうの。古いやり方に固執して、貧しいままなのはかわいそうでしょ? 大丈夫、私の知識は絶対に正しいんだから。だって、この世界の『設定』にはそう書いてあったもの」


 彼女が口にする『設定』。 その言葉を聞くたびに、私の肌には粟立つような寒気が走る。 彼女にとって、この空の色も、風の匂いも、人々の営みも、すべてはどこかの誰かが書き記した文字情報に過ぎないのだ。 彼女の持つ「聖女の力」――彼女が「チート」と呼ぶその異能は、確かに凄まじかった。 彼女が願えば、季節外れの作物が実り、未知の技術が瞬時に形を成す。それは魔導の法則を無視した、理外の奇跡。 だが、その奇跡が起きるたびに、この世界が長年培ってきた均衡が、薄氷を踏むように脆く崩れていくのを私は感じていた。


「さあ、次はこれ! 公爵領の特産品の絹織物、あれ、デザインが古臭いから私が全部書き直しておいたわ。これからはこの『ゆるキャラ』っていうのを刺繍して売り出すの。絶対に流行るから、職人の人たちに言っておいてね」


 ミサキが差し出した紙には、奇妙にデフォルメされた、魂の抜けたような生き物の絵が描かれていた。 アルバート公爵領の絹織物は、その繊細な刺繍と気品ある色彩で、王室御用達の逸品として知られている。職人たちは一生をかけてその技術を磨き、一つの布に歴史を刻んできた。 それを「古臭い」の一言で切り捨て、このようなふざけた絵に置き換えろという。


「……承知いたしました」


 私は拳を握り締め、深く頭を下げた。 今は反論しても無駄だ。彼女の背後には、彼女に心酔し、まるで操り人形のように彼女の言葉を全肯定するエドワード王子がいる。そして、彼女の「奇跡」を目の当たりにした民衆もまた、新しい時代の到来に熱狂し始めていた。


 私は自室に戻ることを許されると、重い扉を閉め、背中を預けて崩れ落ちた。 鏡に映る自分を見る。 紅蓮の髪は艶を失い、鋭かったはずの紫の瞳は疲弊に濁っている。 「悪役令嬢」としての誇り高く、気高く散る権利すら奪われ、私は今や、異世界から来た少女の気まぐれに翻弄される道化師に成り下がっていた。


 だが、私は諦めてはいなかった。 彼女がこの世界を「ゲーム」と呼び、私たちを「キャラクター」として扱うなら、私はそのバグになってやる。 私は机の引き出しの奥から、一通の古びた羊皮紙を取り出した。 それは、アルバート家に代々伝わる、魔力の本質を記した禁忌の魔導書の一節。 彼女の「奇跡」が、代償なき「システム」によるものなら、私の「魔術」は、己の血と精神を削り、理を理解し、再構築する「技術」だ。 私は毎晩、彼女が眠りについた後、屋敷の地下で魔力の練成を繰り返していた。 指先が震え、鼻血が滴り、意識が遠のくほどの過酷な鍛錬。 それでも、私はこの手で、自分の人生を取り戻さなければならない。


 そんな折、私の元に一人の男が訪ねてきた。 カシアン・ド・マルセル。 我が公爵家に仕える騎士団の若き副団長であり、そして……私が密かに想いを寄せていた、唯一の理解者。 彼は、ミサキが言うところの「物語に不要な脇役」の一人だった。


「ロゼッタ様。お加減はいかがですか」


 夜のバルコニー。カシアンは私の背後で、静かに跪いた。 その声を聞くだけで、張り詰めていた心が僅かに緩むのを感じる。


「カシアン……。貴方まで、あの娘の『改革』に付き合わされているのかしら」


「はい。騎士団の装備をすべて、あの『プラスチック』とかいう未知の素材に替えるよう命じられました。軽くて丈夫ですが……剣としての重みがなく、魂が宿っているとは思えません」


 彼の言葉に、私は苦い笑みを浮かべた。 カシアンの剣は、彼自身の正義と、私を守るという誓いによって磨かれてきた。 それを、安価で大量生産可能な代用品に替える。それは彼のアイデンティティを否定することと同じだ。


「カシアン、逃げなさい。今のうちに、この国から、いいえ、この運命から」


 私は彼を見ずに告げた。 ミサキが昼間、楽しそうに話していたことが頭を離れない。 『カシアンって、隠れキャラにしてはイケメンだよね。でも、この後のシナリオだと、魔物の大軍から聖女(私)を庇って死ぬことになってるんだ。可哀想だから、イベントが発生する前に、適当な理由をつけて魔物の巣窟へ遠征に行かせちゃおうかな。死なない程度にボロボロになれば、もっと感動的な再会シーンが作れるでしょ?』


 彼女にとって、カシアンの命も、彼が受ける痛みも、すべては「感動的なシーン」を作るためのスパイスに過ぎない。 「イベント」が発生する前に彼を遠ざける。一見すれば救済のように聞こえるが、それは彼を死よりも過酷な戦場へと、本人の意志を無視して放り込むということだ。


「ロゼッタ様、私は……」


 カシアンが何かを言おうとしたその時、背後の扉が乱暴に開かれた。


「あーっ! 見つけた! こんなところで『密会』してたの? もう、ロゼッタ様、まだカシアンさんに執着してたんだ」


 ミサキだった。 彼女の隣には、不機嫌そうな顔をしたエドワード王子も立っている。 ミサキは、まるで恋愛ドラマのワンシーンを眺めるような、キラキラとした瞳で私たちを見ていた。


「ダメだよ、ロゼッタ様。カシアンさんは、この後の『試練イベント』をクリアして、もっと強くならなきゃいけないんだから。貴女が甘やかしてちゃ、成長のフラグが折れちゃうでしょ?」


「……ミサキ様、フラグとは何のことでしょうか。彼は一人の人間であり、鍛錬を積んだ騎士です。貴女の玩具ではありません」


 私の冷徹な言葉に、ミサキはふくれっ面をした。


「もう、可愛くないなあ。せっかく私が、カシアンさんがもっと目立つように考えてあげてるのに。エドワード様、聞いてください。ロゼッタ様が、私の親切を邪魔するんです」


 エドワード王子が、冷たい視線を私に投げかける。 「ロゼッタ。お前の嫉妬心には呆れるばかりだ。カシアン副団長には、北の最果てにある『嘆きの谷』への調査を命じた。これは王命だ。明日、出発せよ」


「嘆きの谷」……そこは、一度足を踏み入れれば生きては戻れぬと言われる、魔物の巣窟。 調査という名の、体裁の良い処刑だ。 カシアンの顔から血の気が引く。だが、彼は騎士として、王命に背くことはできない。


「……謹んで、お受けいたします」


 カシアンは拳を胸に当て、深く一礼した。 その横顔を、ミサキは満足げに眺めている。 「大丈夫だよ、カシアンさん。貴方は『死なないキャラ』なんだから。頑張ってね!」


 彼女は笑いながら、エドワードの腕を引いて去っていった。 夜の静寂が戻り、そこには私と、死地へ送られることが決まった恋人だけが残された。


「……申し訳ありません、ロゼッタ様。私は、貴女をお守りすることもできず」


「謝らないで、カシアン。謝るのは私の方よ」


 私は彼の手に触れた。 ミサキに叩き払われた時とは違う、本物の人間の体温。 彼女の作る「聖女の物語」は、無慈悲に、そして着実に、私の大切なものを奪い去っていく。 彼女の善意という名の暴力が、この世界の理を上書きし、私たちの意志を削ぎ落としていく。


 私は決意した。 もう、待つのは終わりだ。 彼女の「シナリオ」が、私の大切な人を殺し、私の誇りを踏みにじるというのなら。 私はその物語を、物理的に、そして根源的に、粉砕してやる。


「カシアン。約束して。必ず、生きて戻ってくると。私が貴方を、必ずあの檻から救い出すから」


「ロゼッタ様……?」


 私は彼の問いに答えず、夜空を見上げた。 月は冷たく、だが確かにそこにある。 私の胸の奥で、長年鍛え上げてきた魔力が、かつてないほどの激しさで渦巻き始めていた。 計算式は完成している。 精神の焦点は合っている。 あとは、その時を待つだけだ。


 ミサキ・サトウ。貴女は、この世界を「ゲーム」だと言ったわね。 なら、教えて差し上げるわ。 ゲームオーバーの瞬間は、貴女が望むタイミングで訪れるとは限らないということを。


 ◇


 カシアンが「嘆きの谷」へと発ってから、三日が過ぎた。 王都の賑わいは、ミサキがもたらした「娯楽」と「奇跡」によって、狂乱に近い活気を呈している。 街の至る所に、彼女が考案したという極彩色の看板が立ち並び、人々は彼女が「現代知識」と称して再現した、刺激の強い料理や安価な娯楽に酔い痴れていた。 誰もが口々に聖女を讃え、彼女の傍らに侍るエドワード王子の賢明さを称賛する。 その熱狂の陰で、古くからこの国を支えてきた伝統や、血の滲むような努力を続けてきた職人、騎士たちが、音もなく隅へと追いやられていることなど、誰も気づいていない。


 私は、公爵邸の私室で、静かに一振りの細剣を磨き上げていた。 侍女服を脱ぎ捨て、動きやすい革製の騎士服を身に纏う。 髪は短くまとめ、その上から深い藍色のフードを被った。 手元にあるのは、ミサキが「時代遅れ」と切り捨てた、最高級の鋼で作られた剣。 そして、私の脳内には、膨大な魔力計算式が、幾重にも重なる幾何学模様となって展開されていた。


「……計算、完了。魔力回路、接続」


 私は窓を開け、夜の闇へと飛び出した。 目標は、北の果て。カシアンが送られた、あの死の谷だ。 ミサキは言っていた。カシアンがボロボロになって、絶体絶命の危機に陥った時、彼女が颯爽と現れて彼を「救済」するのだと。 それが、彼女の筋書き(シナリオ)における「好感度上昇イベント」なのだという。 ふざけないで。 彼が流す血も、死の恐怖も、貴女にとっては単なる演出エフェクトに過ぎないというの? 私は、彼女の完璧な舞台装置を、文字通り叩き壊すために馬を走らせた。


「嘆きの谷」は、その名の通り、絶望に満ちた場所だった。 立ち込める濃霧。腐敗した土の匂い。そして、岩陰から漏れ聞こえる、魔物たちの生理的な不快感を煽る鳴き声。 谷の深部へと進むにつれ、無残に折れた剣や、引き裂かれた騎士団の旗が散乱しているのが見えた。 ミサキの「改革」によって支給された、あの軽薄なプラスチック製の防具。 それらは、魔物の鋭い爪の前では、紙切れ同然の無力さだったに違いない。


「……あ……ああ……」


 低く、苦悶に満ちた声が聞こえた。 岩壁の影。そこには、数人の部下を庇うようにして立ち、深手を負いながらも剣を構え続けるカシアンの姿があった。 彼の右腕は力なく垂れ下がり、全身から流れる血が地面を黒く染めている。 対峙しているのは、この谷のぬし――「古の双頭龍ダブルヘッド・ドラゴン」。 伝説に謳われる高位の魔物だ。


「おいおい、嘘だろ……。攻略本データには、ここはランクCの魔物しか出ないって書いてあったのに!」


 突然、頭上から場違いに高い声が響いた。 見上げれば、谷の崖の上に、エドワード王子を連れたミサキが立っていた。 彼女の手には、光り輝く杖が握られている。 だが、その表情には、いつもの余裕がない。


「ミサキ、どうした! 早くその『聖女の力』で、あの化け物を消し去ってくれ!」


 エドワードが焦燥を露わにして叫ぶ。 ミサキは震える手で杖を振りかざし、何らかの呪文を唱えようとしていた。


「わ、分かってるわよ! エディ、落ち着いて! これ、多分隠しボスか何かよ。私のレベルなら、一撃で倒せるはずなんだから……! 消えなさい、このバグ野郎!」


 彼女の杖から、目も眩むような黄金の光が放たれた。 それは「システム」そのものが放つ、因果を無視した破壊の光。 本来であれば、この世界のいかなる存在も耐えられぬはずの、絶対的な力。 光は龍の眉間に直撃し、轟音を立てて爆発した。


 しかし。 爆煙が晴れた後、そこには無傷のまま、黄金の瞳を怒りに燃え上がらせた双頭龍が君臨していた。 龍は天を仰いで咆哮し、その圧倒的な威圧感プレッシャーだけで、ミサキとエドワードを地に這わせた。


「な……なんで……!? 私の攻撃が効かないなんて、そんなのありえない! だって、私はこの世界のヒロインなのよ!? 全てのフラグを回収して、最強のステータスを手に入れたはずなのに!」


 ミサキの悲鳴が谷にこだまする。 私は、木々の影からその様子を冷徹に見つめていた。 当然だ。 貴女が依存しているその「力」は、この世界の法則を借りただけの借り物に過ぎない。 だが、この双頭龍は、数千年の時をこの地で生き、世界の理そのものと同化した超越種。 薄っぺらな「設定」だけで構築された貴女の攻撃など、彼にとっては風に舞う埃も同然。


「あ……ああ……ミサキ……逃げろ……」


 カシアンが、掠れた声で彼女を促す。 自分をこのような窮地へ追い込んだ元凶である彼女を、それでも彼は守ろうとしている。 その高潔さが、今の私には酷く誇らしく、そして、あまりにも切なかった。


 龍の一つの頭が、絶望に震えるミサキへと向けられた。 大きな口が開かれ、その奥でどす黒い炎が練り上げられていく。 「嫌……嫌ぁぁぁ! 助けて! 誰か助けて! こんなのシナリオ(予定)にないわよ!」


「……シナリオ通りにいかないからこそ、人生は美しいのですよ。ミサキ様」


 私は、影から静かに躍り出た。 右手で細剣を抜き放ち、左手で空中に複雑な魔方陣を描く。 ミサキが呆然と私を見る。 「ロ、ロゼッタ……様……? なんで貴女がここに……。それにその服……まさか、助けに来てくれたの!? そうよね、やっぱり貴女は私の親友で……」


「勘違いしないで頂戴。私は、貴女を助けに来たわけではないわ」


 私は彼女を無視し、カシアンの前に立った。 龍が放った極大の火炎が、私たちを呑み込もうと迫る。 私は左手を突き出し、完成させていた多層展開の防御魔術を起動させた。


虚空こくうより集え、ことわりの欠片。幾何学の檻、因果の盾――『絶対零度の防壁アイシクル・ディメンション』!」


 炎と氷が衝突し、谷全体を白い蒸気が包み込む。 私の魔術は、ミサキのような「願えば叶う」類のものではない。 大気中の水分密度、熱伝導率、龍の吐息に含まれる魔力粒子の波長……それら全てを瞬時に計算し、相殺するための最適な数式を物理現象として具現化したものだ。


「……計算通り。これ以上、この方の血を流させるわけにはいきません」


 私はカシアンを背負い、一気に後方へと跳んだ。 驚愕に目を見開くエドワードと、腰を抜かして震え続けるミサキ。 二人の前で、私は剣を青白く輝かせた。


「ロゼッタ……貴女、そんな魔法をどこで……。それにその魔力、聖女でもない貴女がどうして……」


 エドワードが掠れた声で問う。 私は、彼を一瞥することさえしなかった。


「私は貴族アルバートです。民を守り、家を護り、そして己の矜持を貫くために、一生をかけて研鑽を積んできました。貴女が『設定』という言葉で片付けた私たちの努力は、そんなに軽いものかしら?」


 私は、再び襲いかかってきた龍の爪を、最小限の動きで受け流した。 計算された重心移動と、魔力による筋力強化。 ミサキの「チート」とは違う、積み重ねてきた技術の証明。


「ミサキ様。貴女はこの世界をゲームだと言いましたね。なら、教えて差し上げます。この世界の住人は、貴女の好感度を稼ぐための道具でも、物語を盛り上げるための駒でもない。私たちは、血を流し、痛みを感じ、自らの意志で明日を選ぶ……生きている人間なのです」


 私は、龍の懐へと深く踏み込んだ。 二つの頭が同時に私を噛み砕こうと迫る。 だが、私の視界には、龍の魔力の流れが、血管のように浮き上がって見えていた。


「この一撃は、貴女に人生を狂わされた全ての者たちの怒りよ」


 私は剣を逆手に持ち替え、龍の心臓部……魔力が最も密に集まる「核」へと、全魔力を込めて突き立てた。


「砕け散りなさい、偽りの救済と共に!」


 龍の絶叫が、谷を揺るがした。 光が溢れ出し、全てを白く塗りつぶしていく。 背後で、ミサキが「ありえない、ありえない!」と狂ったように叫ぶ声が聞こえる。 彼女の持つ「攻略本」が、バラバラに裂けて風に舞うのが見えた。 システムが書き換わっていく。 彼女が作り上げた歪な「幸福」が、私の意志という名の刃によって、根底から切り裂かれていく。


 光が収まった時、谷には静寂が戻っていた。 双頭龍は消え、そこにはただ、冷たい夜風だけが吹き抜けている。 私は、血を吐いて倒れ伏しているカシアンを、静かに抱き寄せた。


「……カシアン。終わりましたよ」


「ロゼッタ……様……。ああ、貴女は……やはり……」


 カシアンが、震える手で私の頬に触れる。 その手は冷たかったが、確かに彼は生きていた。 ミサキの「死のイベント」を、私は自らの手で書き換えたのだ。


 私は、遠くで呆然と立ち尽くすミサキとエドワードに、氷のような視線を向けた。 ミサキの杖は折れ、彼女を包んでいたあの神聖なオーラは、見る影もなく霧散している。 「……さて。次は、貴女たちの番ですわ」


 私は、静かに立ち上がった。 「悪役令嬢」が、本当の意味で牙を剥くのは、ここからだ。


 ◇


 谷底を支配していた咆哮の余韻が、湿った空気の中に溶けて消えていく。 静寂。 それは、これまでこの世界を覆っていた、騒がしくも空虚な「物語」という名の喧騒が止んだ瞬間でもあった。 私は、腕の中で荒い呼吸を繰り返すカシアンの背中を、そっと撫でた。 その温もりは、ミサキの奇跡がもたらす無機質な光とは違い、泥臭く、不格好で、けれど何よりも愛おしい、生きた証だった。


「……ありえない。こんなの、ありえないわよ!」


 絶望に満ちた叫びが、背後から突き刺さる。 振り返れば、ミサキが泥まみれの地面に膝をつき、狂ったように空を掻いていた。 彼女の目の前には、私には見えない「何か」が存在しているらしい。 彼女は宙に浮く虚空を指先で必死に叩き、縋るような声を上げている。


「消えちゃダメ! 戻ってきてよ、私のステータス画面! ログアウトは? リセットはどこなの!? こんなのバッドエンドですらないわ、ただの……ただの、理不尽な現実じゃない!」


 彼女が守り、愛用していた「世界との繋がり」――攻略本も、ウィンドウも、聖女としての称号も。 私が龍の核を貫いた瞬間、それらはすべて、この世界の本来の理に弾き出され、消滅した。 この場所にあるのは、今やシステムに保護された「ゲーム会場」ではない。 刃が当たれば血が流れ、癒えぬ傷は一生残り、そして一度失われた命は二度と戻らない、剥き出しの現実だ。


「……ミサキ様。貴女は、ここではないどこかへ帰る方法を探しているのですね」


 私はカシアンをゆっくりと地面に横たえ、彼女へと歩み寄った。 傍らで震えていたエドワード王子は、もはや私と目を合わせることもできない。 彼を操っていた「聖女の魅了」もまた、ミサキの魔力喪失と共に霧散していた。 彼はただ、己の愚かさに打ちのめされ、抜け殻のように項垂れている。


「ロゼッタ……! 貴女、貴女のせいよ! 貴女が私のシナリオを壊したから! 私がどれだけ、この世界をみんなにとって『幸せな場所』にしようと頑張ったか分かってるの!? みんなに愛されて、悪い人がいなくなって、誰も死なない、完璧な世界を創ってあげようとしたのに!」


 ミサキは涙と泥で顔をぐちゃぐちゃにしながら、私を睨みつけた。 その瞳に宿るのは、いまだに自分を正義だと信じて疑わない、無垢な傲慢さだった。


「……幸せ、ですか。貴女の言う幸せとは、他者の人生を、貴女の好む形に塗り潰すことでしたの?」


 私は彼女の前に立ち、静かに見下ろした。


「貴女が『効率的』だと笑った庭師は、自分の仕事がなくなった後、絶望して領地を去りました。貴女が『古臭い』と切り捨てた職人は、誇りを失い、二度と針を持たなくなりました。そして、貴女が『感動的な再会』のために死地に送ったこの男は、今、本物の死の淵を彷徨ったのです」


 私は一歩、さらに踏み込む。


「貴女は、彼ら一人ひとりに、名もなき人生があることを一度でも考えましたか? 彼らが流した涙を、貴女の『ハッピーエンド』を彩るための単なる文字情報として片付けたのではないですか?」


「それは……だって、これはそういう物語ゲームなんだもの! 私が主役で、みんなは私を助けるためにいるキャラクターなんだから……!」


「いいえ。ここは、貴女の遊び場ではありません」


 私は、彼女がかつて私に触れようとしたように、今度は私が彼女の頬に手を触れた。 その肌は冷たく、どこにでもいる、ただの少女のものだった。 もう、そこには世界を歪めるような強大な力は宿っていない。


「貴女がどれほど拒もうと、ここは現実です。そして、現実に生きる私たちは、誰かの書いた台本通りに救われることを、何よりも嫌悪するのです。……私たちは、不完全で、残酷で、けれど自分の足で歩くこの地獄を、誇り高く愛しているのですから」


 ミサキの瞳から、光が消えた。 彼女は力なく項垂れ、嗚咽を漏らした。 その姿には、かつての聖女の面影も、世界を統べる全能感もなかった。 ただ、異郷の地で迷子になった、孤独な少女がそこにいた。


 数ヶ月後。 王都を騒がせた「聖女」の騒動は、一夜の夢であったかのように沈静化していった。 エドワード王子は王位継承権を剥奪され、北方の塔で謹慎を命じられた。 彼を唆した「聖女」の正体は、古の魔物に魅入られた哀れな娘として処理されたが、私は知っている。 彼女……ミサキが、今は王都の片隅にある孤児院で、一人の平民として働いていることを。 魔力を失い、何の恩恵も持たない彼女が、かつて見下していた「NPC」たちに助けられながら、泥にまみれて生きている。 それが彼女にとっての最大の罰であり、同時に、この世界が彼女に与えた唯一の「本物の人生」なのかもしれなかった。


 そして、私は。


「ロゼッタ様。あまり無理をなさらないでください。まだ傷が完治したわけでは……」


 アルバート公爵邸の裏庭。 かつての喧騒を取り戻した緑豊かな庭園で、私は一人の男に支えられていた。 カシアン・ド・マルセル。 彼はあの日、奇跡的に命を取り留め、今は私の私設騎士として、常に傍にいてくれている。 公爵家は、ミサキの「改革」による混乱の責任を取り、父は隠居した。 私が家督を継ぎ、今は領地の再建に明け暮れる日々だ。


「……ふふ、カシアン。貴方は少し過保護すぎますわ。私はもう、あの侍女服を着せられていた頃の弱々しい令嬢ではありませんのよ」


「それは分かっております。ですが、私の『人生』を救ってくださった方を、二度と危険な目に遭わせたくないのです」


 カシアンが、私の手を優しく包み込む。 その手の温かさに、私は目を細めた。 ミサキが望んだ「騎士とのロマンチックな結末」とは違う。 そこにあるのは、共に血を流し、共に運命に抗い、ようやく手に入れた、静かな信頼だった。


 空を見上げれば、燃えるような夕焼けが、世界を茜色に染め上げている。 この景色は、誰かが描いた背景画ではない。 明日には雨が降るかもしれないし、再び困難が訪れるかもしれない。 けれど、私はもう、何も恐れてはいなかった。


「……さあ、行きましょうか、カシアン。夕食の準備をさせなくては。今日は、あの娘が教えた変な料理ではなく、我が家の伝統的なスープを作らせますわ」


「はい、ロゼッタ様。貴女の望むままに」


 私は彼の手を強く握り返し、歩き出した。 シナリオのない、台本のない、私だけの明日へと。 悪役令嬢と呼ばれようと、聖女と崇められようと、そんなことはどうでもいい。 私は私として、この美しくも残酷な世界を、最期まで愛し抜いてみせる。


 風が吹き抜け、私の紅蓮の髪が、自由を謳歌するように夕闇の中で踊った。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。 「悪役令嬢」という枠組みを使いながら、システムや運命といった抗えない力に、人間の積み重ねた「研鑽」と「意志」が挑む姿を描きたかった作品です。 ロゼッタとカシアンの歩む道が、これからも光に満ちたものであることを願っています。

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