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短編集(令嬢とかざまぁとか…)

毒の森に住んでますけど、それが何か?

作者: 雪月火

三年前、公爵令嬢モニカ・フォン・アウステルは、婚約者であったエドガー王子とその傍らにいた伯爵令嬢セシリアの策略により、「王族毒殺未遂」という濡れ衣を着せられた。

彼女の薬草学への深い造詣が悪用され、全ての証拠が彼女に不利なように仕立て上げられたのだ。

死罪は免れたものの、王国の誰もが恐れる「毒の森」への追放という、生きては戻れぬと噂される過酷な罰が下された。


しかし三年後の現在、モニカは悲嘆にくれるどころか、その知識と類まれなるサバイバル能力を存分に発揮していた。

森の入り口から数キロ入った場所に、毒を持つが故に虫や獣を寄せ付けない「夜泣き樹」を加工して建てた頑丈なログハウスがあった。

屋根には防水効果のある巨大な「油葉」を敷き詰め、壁の隙間は粘着性の高い「沼ホオズキ」の蔓で埋めてある。

家の周りには、嗅覚の鋭い肉食獣が嫌う匂いを放つ「忌避草」を植え、天然の防衛ラインを構築していた。


「ふんふふーん」


モニカは鼻歌交じりに、手製の籠を片手に森を歩く。

今日の収穫は、根に猛毒を持つが茎は栄養価の高い「一本泣かせ」の若芽と、傘の裏の胞子に幻覚作用があるものの、茹でこぼせば絶品の出汁が出る「笑いダケ」だ。


「これでスープを作って、残りは干して保存食にしようっと」


彼女にとって、人々が死の森と呼ぶこの場所は、知識さえあれば無限の恵みを与えてくれる宝の山だった。

追放された当初は絶望もしたが、今では貴族社会のしがらみから解放されたこの自由な暮らしを心から気に入っていた。




その日、彼女の静寂なテリトリーに、けたたましい人の叫び声が響き渡った。


「うわっ!なんだこの蔦は!痒い、痒すぎる!」

「こっちの花から粉が!目が、目が開けられない!」


モニカは音のした方へ眉をひそめながら近づいていく。

そこには、立派な鎧を身につけた騎士たちが、見るも無惨な姿で倒れていた。

ある者は全身を真っ赤に腫らし、ある者は地面を転げ回って涙と鼻水を垂れ流している。

明らかに毒の森の洗礼を受けた初心者たちだった。


「やれやれ、無知というのは罪ね」


モニカはため息をつきながら、彼らの前に姿を現すことを決めた。




騎士団を率いていたのは、堅物の騎士団長と名高いバレン・エデルガルト辺境伯だった。

彼は、部下たちが次々と森の植物の毒牙にかかっていく中、ただ一人、涼しい顔で佇んでいた。

彼の体質が、植物由来の接触毒や吸引毒を完全に無効化していたからだ。

しかし、彼は自身の体質を自覚しているわけではなく、「気合が足りん!」と部下たちの惨状に内心で舌打ちをしていた。


「団長!ダメです、これ以上は進めません!」


「情けない!王国の騎士が草花ごときに屈するとは!」


バレンが部下を叱咤していると、茂みの奥から一人の女性が姿を現した。

質素だが機能的な革の服を身にまとい、腰には手製のナイフを差している。

その手には、見るからに毒々しい紫色の斑点を持つ巨大な蜘蛛が握られていた。


「あら、お客様?こんな森の奥まで何の御用かしら」


彼女――モニカは、まるで裏庭に散歩にでも来たかのような気軽さで言った。

そして、騎士の一人の足元に鎌首をもたげていた猛毒の「黒斑蛇」を見つけると、面倒くさそうに足で追い払った。


「こら、人を噛んだらダメでしょ」


そのあまりに常識外れな光景に、バレンと騎士たちは言葉を失う。

モニカは倒れている騎士たちを一瞥すると、呆れたように言った。


「ああ、これは『涙腺カズラ』の蔓に触れて、ついでに『目潰し花』の花粉を吸ったのね。案内がないと少し歩きにくいでしょう、この森は」


彼女はそう言うと、腰のポーチから小さな塗り薬の壺を取り出し、騎士たちの顔や腕に手際よく塗っていく。

ひんやりとした軟膏が塗られると、あれほど酷かった痒みや痛みが嘘のように引いていった。


「これは…?」


意識を取り戻した騎士が尋ねると、モニカはこともなげに答えた。


「『鎮静苔』と『清涼草』をすり潰しただけの簡単な塗り薬よ。そこの岩の裏にでも生えてるわ」


その言葉に、騎士たちは自分たちが苦しめられた毒のすぐそばに薬があったという事実に愕然とする。


バレンは、目の前の女性から目が離せなかった。

危険な毒蜘蛛を平然と手づかみにし、猛毒の蛇を叱りつける。

そして、騎士団が総出で苦しめられた毒を、まるで子供のいたずらを諭すかのように簡単に処理してしまった。


およそ貴族令嬢どころか、普通の人間とは思えないそのたくましさ。

しかし、その瞳の奥には、凛とした気高さが宿っていた。


(一体、何者なんだ?この危険な森で、たった一人で生きているというのか?)


彼はモニカの姿に、畏敬と当惑、そして今まで感じたことのない強烈な興味を抱いた。

これが、運命の出会いだと、彼はまだ知らない。


モニカは騎士たち全員の治療を終えると、さっさと立ち去ろうとした。


「じゃあ、私はこれで。気をつけてお帰りなさい。次はもう少し森の勉強をしてから来ることね」


その背中に、バレンが慌てて声をかけた。


「待ってくれ!我々は王命により、この毒の森の生態調査に来た騎士団だ。私は団長のバレン・エデルガルト。君は何者だ?なぜこのような場所に?」


バレンの問いに、モニカは肩をすくめて振り返った。


「私はモニカ。ただの追放された元公爵家の娘よ。あなたたちが国からどんな命令を受けていようと、私には関係ないわ」


その素っ気ない態度に、バレンはさらに興味を掻き立てられた。

彼は、彼女が何らかの事情で社会から弾き出され、こんな過酷な場所で生きることを余儀なくされた悲劇の女性なのだと解釈した。

その凛とした態度は、きっと悲しい過去を隠すための虚勢なのだと。


「モニカ、と言ったか。我々は調査のため、しばらくこの森に滞在する。君の力を貸してほしい。もちろん、相応の礼はする」


バレンの申し出に、モニカは少し考える素振りを見せた。

正直、これ以上厄介事に関わりたくはない。

しかし、このまま彼らを放置すれば、また別の毒にかかって騒ぎを起こすかもしれない。

それはそれで面倒だった。


「…いいわ。ただし、私のルールに従ってもらう。勝手な行動はしない、見たことのない植物や生き物には絶対に触れない、食べない。これが条件よ」


「承知した」


バレンは力強く頷いた。

彼は、この野蛮だが魅力的な女性をもっと知りたい、そして可能ならば、この過酷な環境から救い出してやりたいと、強く心に誓っていた。

その瞳に宿る使命感と憐憫の情に、モニカは気づかない。


こうして、毒の森の主モニカと、氷の騎士団長バレンの奇妙な共同生活が始まった。

バレンはモニカの案内で森の奥へと進む。

モニカが「これは食べられるキノコ」「こっちは猛毒の根」と指し示すたび、バレンは「なんと過酷な環境だ……生きるためにこれほどの知識を身につけねばならなかったとは……」と胸を痛めた。

モニカが巨大な肉食植物の捕食を避けながら軽々と崖を登る姿を見ては、「ああ、彼女は生きるために、こんな危険な真似まで……!」と拳を握りしめる。


一方のモニカは、バレンの生真面目さに呆れていた。


「だから、その石は『擬態ムカデ』の卵だから触るなと言ったでしょう!」


「す、すまない。ただの石かと……」


「見た目で判断しない!この森の常識よ!」


モニカは、この都会育ちで融通の利かない堅物騎士を面倒な客人としか認識していなかった。

二人の間には、勘違いと認識のズレから生じる、奇妙な緊張感が漂っていた。


調査初日の夜、モニカは騎士団のキャンプ地から少し離れた自分のログハウスに戻った。

バレンは部下たちにキャンプの設営を命じると、一人モニカの後を追った。

彼は、彼女がどんな劣悪な環境で寝泊まりしているのか、その目で確かめなければならないと思ったのだ。

木の蔓で編まれた扉を開けると、そこにはバレンの想像を絶する光景が広がっていた。


(こ、これは!)


外見こそ無骨なログハウスだったが、中は驚くほど快適な空間だった。

磨かれた床、頑丈な木のテーブルと椅子。

壁には乾燥させた薬草やキノコが機能的に吊るされ、棚には手製の保存食の瓶が整然と並んでいた。

悲惨な暮らしとは程遠い、むしろ豊かささえ感じる生活空間。


「何か用?」


夕食の準備をしていたモニカが、訝しげにバレンを見る。

バレンは衝撃を受けていた。

しかし、彼の勘違いフィルターは、この光景すらも悲劇的に変換してしまう。


(そうか……彼女は、この殺伐とした森の中で、必死に人間らしい暮らしを維持しようと努力しているのだな!この一つ一つの家具が、彼女の血の滲むような努力の結晶なのだ!なんという健気さ、なんという不憫さだ!)


彼は感動に打ち震え、モニカに向かって深く頭を下げた。


「モニカ嬢!君のこの気高い精神に、私は深く感銘を受けた!私が必ず、君をこの過酷な運命から救い出してみせる!」


突然の宣言に、モニカは手に持っていた調理用の毒トカゲの尻尾を落としそうになった。


「は……?何を言っているの……?」


モニカの困惑を、バレンは救いを求めるか弱い女性の戸惑いだと解釈する。


「何も心配はいらない。このバレン・エデルガルト、君の力になると誓おう!」


燃えるような瞳で宣言するバレン。

ポカンと口を開けるモニカだった。




* * *




モニカとの衝撃的な出会いと、彼女の「健気で不憫な」暮らしを目の当たりにしたバレンは、すっかり彼女の虜になっていた。

王命である「毒の森の生態調査」は、彼にとって「モニカを救うための口実」へと完全にすり替わっていた。

彼は使命感に燃え、足繁くモニカのログハウスへと通うようになった。


「モニカ嬢、今日も来たぞ!これを君に」


バレンが意気揚々と差し出したのは、王都の高級店から取り寄せた最高級の干し肉、長期保存が可能な硬いパン、そして貴族御用達の焼き菓子の詰め合わせだった。

彼の目には、モニカが日々口にしているキノコやトカゲが悪食に映り、「彼女にまともな食事をさせてやりたい」という一心からの行動だった。


「まあ、どうも…」


モニカは連日運び込まれる大量の食料に困惑していた。

彼女の食生活は、森の恵みのおかげで都会の貴族よりもよほど豊かでバリエーションに富んでいる。

バレンが持ってくる保存食は、彼女にとっては味気なく、栄養価も低いものだった。

しかし、彼の真剣な眼差しを前に「いりません」と断ることもできず、礼儀として受け取り、ログハウスの隅に積み上げていた。


(この騎士様、もしかして味覚がおかしいのかしら?それとも、森の食べ物は全部毒だとでも思っているの?)


モニカは彼の過剰な親切の意図を測りかねていた。


一方、騎士団のキャンプでは、部下たちが団長の奇行を噂していた。


「おい、見たか?団長がまた食料を運んでるぞ」

「ああ。騎士団長が、まるで恋する若者のように…」

「しかし、あの森の女性は一体何者なんだ?団長は彼女を『か弱く不憫な女性』だと言っているが、俺には巨大なムカデを素手で捕まえる女傑にしか見えんのだが…」


彼らは、自分たちの尊敬する上官が壮大な勘違いをしていることに薄々気づいていたが、それを指摘する勇気は誰にもなかった。


そんなある日、モニカは一つの決心をする。


(こうなったら、私の手料理を食べさせて、この森の食材が安全で美味しいことを分からせるしかないわね)


善意からの行動とはいえ、これ以上不要な食料を押し付けられるのは迷惑だ。

彼女はバレンの誤解を解くため、そして日頃の差し入れへのお返しとして、腕によりをかけて夕食を振る舞うことにしたのだった。


モニカがその日のディナーのメインディッシュに選んだのは、「紫斑キノコのクリームシチュー」だった。

このキノコは、猛烈な神経毒を含んでおり、一口食べれば屈強な騎士でも一瞬で呼吸困難に陥る代物だ。


しかし、特殊な薬草と一緒に弱火で煮込み続けることで、毒素が分解され、他に類を見ない濃厚な旨味と芳醇な香りに変わる。

下処理に手間がかかるため、モニカも特別な時にしか作らないとっておきの料理だった。


サイドメニューには、これまた強力な麻痺毒を持つ「大毒トカゲ」の尻尾の肉を用意した。

毒腺を丁寧に取り除き、臭み消しのハーブを揉み込んで、表面がカリカリになるまで香ばしく焼き上げる。


「よし、こんなものかしら」


モニカは完成した料理を木の皿に盛り付けながら、少し不安になった。


(都会育ちの騎士様の口に合うかしら…。というか、見た目で引かれてしまうかも)


紫斑キノコのせいで、シチューは食欲をそそるとは言い難い、どす黒い紫色をしていた。

大毒トカゲのグリルも、野性味あふれる見た目だ。

そこへ、タイミングよくバレンがやってきた。


「モニカ嬢、今日も来たぞ。今日は王都で評判の…」


「バレン様、ちょうど良かった。夕食の準備ができたところです。いつも差し入れをいただいてばかりなので、今夜は私がおもてなしを」


モニカはバレンをテーブルに促し、少し気まずそうに料理を差し出した。


「その…森の食材ばかりで、お口に合うか分かりませんが…」


バレンはテーブルに置かれた二皿の料理を見て、目を輝かせた。

彼の目には、その独特の色合いとワイルドな見た目が、「生きるために工夫を凝らした、素朴で力強い料理」と映った。


(なんと…!彼女が自ら獲り、調理した料理…!これが、彼女が日々を生き抜くための糧なのだな…!)


彼は感動で胸をいっぱいにしながら、木のスプーンを手に取った。

そして、紫色のシチューを一口、口に運んだ。

モニカは固唾を飲んで彼の反応を見守る。


バレンの反応は彼女の予想を遥かに超えていた。

彼は目を見開き、スプーンを持ったまま硬直した。

そして、次の瞬間、彼の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。


「う…美味い…!なんという味わいだ!こんなにスパイシーで、奥深く、複雑な旨味のある料理は生まれて初めて食べたぞ!」


バレンは感極まった様子で叫ぶと、一心不乱にシチューをかきこみ始めた。

モニカは唖然として、その様子を見つめるしかない。


(え…?嘘でしょ…?)


常人なら微量に残った毒素で感じるはずのピリピリとした刺激を、バレンは「スパイシーな風味」と認識していた。

バレンはあっという間にシチューの皿を空にすると、次に大毒トカゲのグリルに手を伸ばした。


「こちらの肉も素晴らしい!噛めば噛むほど肉汁が溢れ出し、ハーブの香りが鼻に抜けていく!王宮で食べるどんな高級な肉料理よりも、生命力に満ちている!」


彼は涙ながらに絶賛し、骨の周りの肉まで綺麗にしゃぶり尽くした。

そして、空になった二つの皿をモニカの前に差し出し、真剣な顔で言った。


「モニカ嬢、不躾なお願いとは思うが…おかわりをいただけないだろうか」


「え、あ、はい…どうぞ…」


モニカは完全に混乱していた。


(この人、味覚が壊れているの…?それとも、私に気を使って無理に美味しいと言っている…?いや、あの涙は本物だわ…)


彼女はバレンの健康状態を本気で心配し始めた。

しかし、彼の顔色は良く、むしろ美味しい食事に満たされた幸福感で輝いているようにさえ見える。

モニカは首を傾げながら、鍋に残っていたシチューを彼の皿によそった。


バレンは、モニカの料理を心から堪能していた。

そして、彼の勘違いはさらに加速していく。


(ああ、彼女はなんて素晴らしい女性なのだ…!こんなにも危険な食材を、これほど美味しく調理する知恵と技術を持っている。それは全て、この過酷な森で生き抜くために彼女が身につけた、悲しい知恵なのだ…!)


彼は、モニカへの同情と尊敬と感動で胸がいっぱいになり、彼女を守りたい、彼女をこんな生活から解放してやりたいという思いをますます強くした。

食事を終えたバレンは、満足げなため息をつくと、モニカの手を両手でそっと握った。


「モニカ嬢、素晴らしい食事をありがとう。君の料理は、君の魂そのものだ。力強く、気高く、そしてどこか儚い…」


「は、はあ…」


モニカは、詩人のようなことを言い出すバレンにどう返事をしていいか分からず、曖昧に頷くことしかできない。


その夜、バレンは自分のテントに戻ると、騎士たちを集めて熱っぽく語った。


「諸君、聞いたまえ!私は今日、モニカ嬢の手料理をご馳走になった!それは、我々が王都で口にするような惰弱な料理とは全く違う、生命そのものを味わうような、魂を揺さぶる食事だった!」


騎士たちは、団長のあまりの興奮ぶりに若干引きながらも、神妙な顔で耳を傾ける。


「彼女は、生きるために、我々には想像もつかないような努力を重ねているのだ!我々は騎士として、いや、一人の人間として、彼女を支えなければならない!分かったか!」


「「「はっ!!」」」


騎士たちは、何が何だかよく分からないまま、力強く返事をした。


一方、モニカは一人、ログハウスで後片付けをしながら、今日の出来事を振り返っていた。


(あの騎士様、本当に大丈夫かしら…。明日、お腹を壊してないといいけど)


彼女はバレンの味覚と体調を本気で心配していた。

しかし同時に、自分の料理をあれほどまでに喜んでくれたことに、少しだけ心が温かくなるのを感じていた。


貴族社会にいた頃、彼女の料理は「令嬢らしくない」「変わっている」と敬遠されるばかりだった。

心の底から「美味しい」と言って、おかわりまでしてくれたのは、バレンが初めてだった。


(変わった人だけど…悪い人では、ないのかも)


モニカは、バレンに対して抱いていた警戒心をほんの少しだけ解いていた。

猛毒料理という名の、奇妙なコミュニケーションを通じて、二人の距離は少しずつ確実に縮まっていくのだった。




* * *




王都を未曾有の恐怖が襲った。

原因不明の流行病が、貴族層を中心に爆発的に蔓延したのだ。

発症するとまず高熱に見舞われ、やがて全身に紫色の痛々しい発疹が浮かび上がる。

体力のない者や高齢者は数日で衰弱し、命を落とす者も出始めていた。


王宮の医師たちはあらゆる治療法を試したが効果はなく、特効薬の開発も進まない。

王都は封鎖され、街は死の恐怖と絶望に包まれた。


王宮の図書館の奥深く。


一人の年老いた宮廷薬師が、埃をかぶった古文書の中に一条の光を見出していた。

その文献には、今回の流行病と酷似した症状を持つ古代の病に関する記述があった。


そして、その特効薬として「雨切草)」という薬草の名が記されていたのだ。


文献によれば、雨切草は湿度の高い日陰を好み、強力な瘴気を放つ土地にのみ自生するという。

その条件に合致する場所は、王国広しといえど一つしかなかった。


――「毒の森」。


しかし、その事実が希望とはならなかった。

毒の森は、王国の人間にとって死地そのものだ。

騎士団ですら調査に難航しているその場所に、薬草を採りに行ける者などいるはずがなかった。

王宮は、万策尽きたかのように重い沈黙に包まれた。


時を同じくして、この流行病はモニカを陥れた張本人たちにも牙を剥いていた。

エドガー王子と、彼の婚約者セシリアも病に倒れたのだ。


高熱にうなされ、日に日に増えていく発疹におびえるセシリア。

そして、自らの体にも同じ症状が現れ始めたことに気づいたエドガーは、死の恐怖に震えた。

王子という地位も権力も、この病の前では何の意味もなさない。


「雨切草…毒の森にしかないだと…?」


医師からの報告を受けたエドガーは、絶望の淵で一つの名前を思い出す。


「モニカ…そうだ、モニカ・アウステルなら…あの女なら、あの森で薬草を見つけられるかもしれない…!」


かつて自分が罪を着せ、死地へと追いやった令嬢。

しかし、死の恐怖は、彼のちっぽけなプライドをいとも簡単に打ち砕いた。


「行くぞ…毒の森へ…!」


エドガーは、残った数名の騎士を引き連れ、最後の望みを託してふらつく足で王都を後にした。




数日後、モニカのログハウスの前に、泥と汗にまみれた一行がたどり着いた。

その中心にいたのは、高熱で顔を赤くし、息も絶え絶えのエドガー王子だった。

彼は、ログハウスの前にいたモニカの姿を認めると、崩れ落ちるようにその場に膝をついた。


「モ、モニカ嬢…!」


エドガーは、かつて見下していた女性の前で、地面に額をこすりつけた。


「頼む…!国を、そして私とセシリアを救ってくれ…!君を追放したことは…謝る!どんな罰でも受けよう!だから、どうか雨切草を…!」


必死に命乞いをする元婚約者の姿を、モニカは冷え切った瞳で見下ろしていた。

彼女の脳裏に、三年前の断罪裁判の光景が蘇る。

エドガーとセシリアが、偽りの涙を浮かべながら自分を糾弾していたあの日のことを。

彼女の心は、何の感情も動かなかった。


「お断りします」


モニカは静かに、しかしはっきりと告げた。


「私がなぜ、あなたたちを助けなければならないのですか?あなたたちが私にしたことをお忘れで?」


「そ、それを言われると…ぐっ…しかし、このままでは国が滅ぶのだぞ!」


「私の知ったことではありません。私はもう、この国の人間ではありませんから」


モニカの冷たい拒絶に、エドガーは絶望の表情を浮かべる。

その時、二人の間に割って入る者がいた。

調査のためにモニカの元を訪れていたバレンだった。


「モニカ」


バレンはモニカの前に立つと、彼女の肩にそっと手を置いた。


「君の気持ちは分かる。彼らが君にした仕打ちは、決して許されることではない。しかし、この病は彼らだけではなく、王都の多くの民の命を脅かしている。罪のない人々まで見殺しにはできないはずだ」


そして、バレンはエドガーの方を振り返ることなく、モニカに向かって深く頭を下げた。


「これは国を救うためだ。一人の騎士として、君に頼む。どうか、その力を貸してほしい」


バレンの真摯な言葉と態度に、モニカの固く閉ざされた心がわずかに揺れた。

この男は、ただ国と民を想い、頭を下げている。

その誠実さが、モニカの心を動かした。


「……分かりました」


モニカは小さくため息をつくと、エドガーに向き直った。


「協力しましょう。ただし、一つだけ条件があります」


彼女は冷たい声で言い放った。


「薬草の場所まで、あなた自身の足でついてくること。騎士の助けは借りずにね」


モニカの条件を飲んだエドガーの地獄の行軍が始まった。

モニカは、わざと最も険しく過酷なルートを選んで森の奥へと進んでいく。

ぬかるみに足を取られ、棘のある蔓に服を引き裂かれ、吸血昆虫の群れに襲われながら、エドガーは必死にモニカの後を追った。


「ま、待ってくれ…!少し、休憩を…!」


体力の限界と高熱で、エドガーの意識は朦朧としていた。

しかし、モニカは一切足を止めない。


「王子ともあろう方が、情けないですね。体力がないのは昔からですものね」


「くっ…!」


モニカは時折、わざと彼がかつて自分に言った嫌味を織り交ぜながら、精神的にも彼を追い詰めていく。

バレンは、そんなモニカの姿を黙って見守っていた。

彼は、これが彼女なりの過去との決着のつけ方なのだと理解していた。

そして、彼女のやり方がどんなものであれ、全面的に彼女を支持するつもりだった。


半日かけて森の中を歩き回った。

エドガーはもはや満身創痍で、いつ倒れてもおかしくない状態だった。

そしてついに、彼は木の根に足をもつれさせ、派手に転倒した。


「も、もう…だめだ…一歩も…歩けん…」


泥だらけの地面に突っ伏し、エドガーは力なく呟いた。

これ以上は無理だ。

ここで死ぬのかもしれない。

彼が諦めかけたその時、頭上からモニカの冷静な声が降ってきた。


「あら、もうギブアップですか?情けない」


モニカは、疲労困憊のエドガーを見下ろすと、何の気なしに自分の足元を指さした。


「ああ、ちなみに。あなたが血眼になって探している雨切草、ここに生えてますね」


「……え?」


エドガーが虚ろな目でそちらを見ると、見慣れた雑草に混じって、青紫色の小さな花をつけた植物が群生していた。

文献で見た雨切草と寸分違わぬ姿だった。


「そ…そんな…こんなところに…」


「ええ。というか、森の至る所に生えてますよ。希少でもなんでもなく、ただこの森の土壌に適応した、ありふれた植物です」


エドガーは愕然とした。

自分たちが探し求めていた救いの薬草は、出発地点であるログハウスのすぐ隣にも、当たり前のように生えていたのだ。

モニカは、ただ彼を心身ともに疲弊させるためだけに、半日も森の中を引きずり回したのだった。


「あなたたちが無知なだけです。かつての私に罪を着せた時のように」


モニカの言葉が、エドガーの胸に突き刺さる。


エドガーは、言葉もなくその場に崩れ落ちた。


自分の愚かさ。

過去の過ち。

そして、自分が追放した女性が持つ、計り知れない知識の偉大さ。


その全てを、彼は同時に突きつけられたのだ。


彼は、自分が犯した罪の重さと失ったものの大きさを、今更ながらに理解した。

もはや、彼にモニカを罵る気力もプライドも残ってはいなかった。

モニカは、そんなエドガーを一瞥すると、手際よく雨切草を必要なだけ摘み取り始めた。


「バレン様、これを王都に。根をすり潰して水で煎じれば解毒薬になります。詳しい調合法は紙に書いておきましたので」


彼女は薬草の束と処方箋をバレンに手渡した。

バレンはそれを受け取ると、力強く頷いた。


「感謝する、モニカ」


「別に。私は、あなたに協力しただけです」


モニカはそっけなく言うと、ログハウスの方へ歩き去っていく。

その背中は、以前よりもずっと力強く、そして誇りに満ちているようにバレンの目には映った。

エドガーは、泥だらけのまま、遠ざかっていくモニカの背中をただ呆然と見送ることしかできなかった。




* * *




モニカが提供した雨切草は即座に王都へ届けられた。

彼女の処方箋通りに作られた特効薬は驚くべき効果を発揮し、あれほど猛威を振るった流行病はまるで嘘のように急速に終息へと向かった。

王都は歓喜に包まれ、特効薬の発見者であり提供者であるモニカ・アウステルの名は、国を救った英雄として瞬く間に王国中に広まった。


人々の称賛の声は当然ながら王の耳にも届いた。

国王は、かつて自らが追放した公爵令嬢が国を救ったという事実に衝撃を受け、同時に、彼女を陥れた「王族毒殺未遂事件」そのものに疑問を抱く。


「真実を明らかにせよ!徹底的に再調査を行うのだ!」


国王直々の厳命が下り、事件の再調査が開始された。

病から回復したエドガーとセシリアが申し開きをする間もなく、彼らの侍従や侍女たちから次々と証言が引き出される。

権力の傘を失った彼らに忠誠を誓う者など、もはやどこにもいなかった。


結果は明白だった。


エドガーが自らの婚約者であるモニカの聡明さと、自分を凌ぐ知識を持つことに嫉妬し、彼女を疎ましく思っていたこと。

セシリアがエドガーに言い寄り、モニカを追い落とすために策略を巡らせたこと。

毒殺未遂事件が、全て二人によって仕組まれた狂言であったことが白日の下に晒された。




数日後、王城の大広間で裁きの時が訪れた。

玉座の前に引き据えられたエドガーとセシリアは顔面蒼白で震えている。


「エドガー、セシリア。両名に申し渡す」


国王の厳かな声が響く。


「両名は、王族の名を騙り、無実の者を陥れた大罪人である。よって、全ての爵位と財産を剥奪の上、国境の辺鄙な監視所付きの土地へ永久追放とする!」


全てを失い、二度と王都の土を踏むことすら許されない。

二人は声にならない悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。


そして、国王は宣言した。


「モニカ・フォン・アウステル嬢の潔白は、ここに証明された!彼女の名誉は完全に回復され、アウステル公爵家の名誉もまた、ここに復権するものとする!」


その言葉に、広間にいた貴族たちから大きな拍手が沸き起こった。

モニカの追放はこうして正式に取り消された。

彼女はもはや罪人ではなく、国を救った英雄としてその名誉を取り戻したのだった。




この一件は、王国における「毒の森」の価値観を180度転換させた。


かつては死地と恐れられた森は、今や「雨切草」のような未知の薬効を持つ植物が眠る貴重な薬草の宝庫として認識されるようになった。

国王は、この貴重な資源を管理・研究するため、森の入り口に王立の薬草研究所を設立することを決定した。

そして、その初代所長として白羽の矢が立ったのは、言うまでもなくモニカだった。


王の使者がログハウスを訪れ、モニカに所長就任を要請した。


「所長、ですか。私が?」


モニカは驚いたが、すぐに冷静さを取り戻した。

王都の貴族社会に戻る気は毛頭ない。


しかし、森の研究は彼女自身が望むところでもあった。


「お受けします。ただし、条件があります」


彼女はきっぱりと告げた。


「この森での生活は、今後も続けさせていただきます。私は所長として、王都とこの森を行き来する。それでよろしければ」


王はそれを快諾した。

こうしてモニカは、王都の最先端の研究施設と、愛する毒の森の静かな生活、その両方を手に入れるという最高のデュアルライフの権利を確立した。


研究所の設立準備が着々と進む中、モニカはバレンと共に森の植物の分布図を作成していた。


「バレン様、そこの『眠りゴケ』は踏まないで。数時間は起きられなくなりますよ」


「なっ…!承知した。なんと恐ろしい苔だ…」


バレンは相変わらず森の脅威にいちいち驚き、モニカの知識に感心し、彼女への想いを募らせていた。

彼女が名誉を回復し、輝かしい地位を得たことを、彼は誰よりも喜んでいた。


しかし同時に、彼女が手の届かない存在になってしまうのではないかという一抹の不安も感じていた。


(いや、何を迷うことがある。私は彼女を幸せにすると誓ったのだ)


バレンは決意を固め、その夜、モニカをある場所へと誘うことにした。




その夜、バレンはモニカを連れて森の奥深くにある泉へとやってきた。

月光が水面に反射し、周囲に生い茂る発光性のキノコが幻想的な光を放っている。

それは、モニカが森で最も気に入っている場所の一つだった。


「綺麗…」


モニカが景色に見とれていると、バレンは彼女の前に進み出て跪いた。

そして、背中に隠し持っていた花束を彼女に差し出した。

それは、彼が日中、モニカに教わりながら森で摘んだ花々で作った、不格好だが心のこもった花束だった。


色とりどりの美しい花々の中に、一際目を引く鮮やかな青い花が混じっている。


「モニカ」


バレンは、緊張で少し上ずった声で、まっすぐに彼女の目を見て言った。


「君と出会って、私の世界は変わった。君の強さ、優しさ、そしてその知性に、私は完全に心を奪われた。かつてはただの任務の地だったこの森が、今では君のいる、私の帰るべき場所になった」


彼は一呼吸置いて、言葉を続けた。


「モニカ・フォン・アウステル嬢。私と、結婚してほしい」


真剣な眼差し、誠実な言葉。

それは、どんな女性でも心を打たれるであろう完璧なプロポーズだった。


しかし、モニカは目が点になっていた。


彼女の視線は、バレンの顔ではなく、彼が持つ花束の中のあの青い花に釘付けになっていた。

やがて、彼女の肩がぷるぷると震えだし、次の瞬間、こらえきれずに吹き出した。


「あ、あはははは!ご、ごめんなさい、バレン様!あはははは!」


「モ、モニカ嬢…?なぜ笑うんだ…?」


突然の大爆笑に、バレンは呆然とする。

モニカは涙を浮かべながら、花束の青い花を指さした。


「だ、だって、その青い花…即死効果のある劇薬の原料ですよ?」


「なっ!?」


バレンは血の気が引くのを感じ、慌てて花束を放り投げた。


「す、すまない!ただ、美しい花だと思ったから…!」


「そんな花を差し出してプロポーズなんて、最高に面白いですわ!あははは!」


モニカは腹を抱えて笑い転げた。

バレンは、人生をかけたプロポーズが台無しになり、顔を真っ赤にしてうろたえている。


ひとしきり笑った後、モニカは涙を拭いながら立ち上がると、しどろもどろになっているバレンの前に立った。


「…本当に、あなたは面白い方ですね」


彼女は、くすくすと笑いながら言った。

その表情は、これまでにバレンが見たどんな彼女よりも柔らかく、幸せに満ちていた。


「私の手料理を、『美味い』と泣いてくれたのも」


「……」


「私が元婚約者をこらしめているのを、黙って見守ってくれたのも」


「……」


「そして、即死効果のある花で、私にプロポーズしてくれたのも」


モニカは、バレンの胸にそっと手を当てた。


「全部、あなただけです」


彼女は満面の笑みを浮かべ、少しだけ背伸びをして、彼の頬に優しくキスをした。


「はい、喜んで。あなたの奥さんにして下さい、バレン様」


「モニカ…!」


バレンは感極まった様子で、モニカを力強く抱きしめた。

勘違いから始まった二人の関係は、今、確かな愛となって結ばれた。


かつて彼女が追放された絶望の地、毒の森。

しかし、今やそこは、彼女の知識が認められ、そして愛する人と共に生きる、世界で一番幸せな我が家となったのだった。



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― 新着の感想 ―
イタイ勘違い男子で終わるかと思いきや勘違いしつつも想う気持ちは本物でしっかり意中の相手のハートにブッ刺さった訳ですわね。 吉報ですわあ、きっとハラハラしながら見守っていらっしゃった部下の方々にとっても…
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