社高ミス研の叙述
【読者への挑戦】しかるべき情報は全て示された。真相を指摘せよ。
世間ではすっかり新紙幣が浸透しましたね。最近ではお釣りで北里柴三郎先生がこんにちはしても、大した驚きはありません……。
さてこの作品は昨年、新紙幣発行が始まるとか始まらないとか世間が騒いでいた頃に、トリックを考案したミステリーです。
新紙幣と云うのが、なかなかどうして重要な意味を持ちますので、お楽しみください。
作品の形式に言及すると、この物語はとある私学の高校にある、ミス研での一幕です。主人公の男の子が、後輩の部員に読ませるためにミステリ短編を作ります。さて、後輩のミステリヲタクはこのトリックを見破れるのか……という、まあ端的に云えば作中作の形式です。
作中作の形式を採った理由は特にありませんが、一年ぶりに当時の文章を読み返してみるに、どうも、綾辻行人先生の短編集、『どんどん橋落ちた』とかが意識下にあったんじゃないか、という気がします。新本格ミステリの短編なら作中作だろう、と。
楽しんでいただければ幸甚です。
「はい、これ」
部室に入るとその後輩は既に来ていたので、手に持っていた紙の束を、僕は机に放り投げた。柔らかい音を立てて天板に広がる十数枚の紙。しかし後輩は訝しげな声を返した。
「なんですかこれ」
僕はずっこけた。
「今週は僕がミステリ作家役だから、原稿作ってきたんだよ。なんで忘れてるのさ。昨日、君が必ず明日もってこいと脅したんだろ、借金取りみたいに」
昨日彼女が部室で見せた般若の如き様相は恐ろしく、死を連想させられるほどだったせいで、僕はエナジードリンク片手にパソコンに向かうはめになったというのに。僕の涙の結晶とも言える原稿が書き上がったのは今日の昼休み。生徒会室のコピー機を無断使用して刷った。締め切りギリギリを根性で間に合わせたのだ。
「ああそういえばそんな話もしましたね。忘れていました」
「忘れてたって、君ね……」
あまりの適当さに絶句して、僕はその場に座り込む。どっと疲れがこみ上げてきた。
社高校推理小説研究会は、もともと推理小説好きの生徒が集まって、ミステリ談義をするためだけに結成されたらしい。その歴史は以外に古く、1980年代まで遡れる。80年代と言えば、ミステリ史的には新本格ムーブメントのあたりだから、大方、それに影響を受けた生徒たちが始めたのだろう。まあ、あまり人気のある部ではないんだけれど。
実体も伴わないくせに臆面もなくミス研を掲げる稚気は痛々しく、でもどこか微笑ましい。純粋な論理ゲームへの青臭い憧憬。そんな思いに共感する人が絶えなかったからこそ、決して部活動が盛んではないこの高校で今なお、ミス研は細々と続いているのだ。
現在の部員は三人。一人は幽霊だから、実質二人。
僕と、後輩の小倉山。それだけだ。
去年、僕が入学したときには部員はゼロで廃部寸前だった。そこで、名前だけ在籍する形にして僕は部室で一人、推理小説を読み耽っていた。他に部員がいないことをいいことに、ホラー小説とか幻想小説、純文なんかにも浮気したけれど。総じて、なかなか快適な一年だった。望むと望まざるとに関わらず人の目を気にしなければいけない学校において、どんな形であれ、自分一人の領域を持てることは幸せなことだった。快適だったのだ。本当に。
そう、去年は。
一年が過ぎ、後輩たちが入学してきた。それでも僕は高をくくっていた。まさかミス研に入るような奇特な奴はいまい、と。もしいたらそいつの脳みそは危篤だ、奇特で危篤だ、と。安心しきっていたのだ。ところがどっこい、入部届を持ってきた後輩が一人いて、そいつは小倉山と名乗った。
……。
なんということか。これでは僕の牙城が見知らぬ後輩とのシェアハウス状態じゃないか。パーソナルスペースの確保は、僕の精神の安定に欠かせない要素だったというのに。しかも女子となると、ややこしい。変に気を使わなくてはいけないし面倒だ。人間関係の構築は常に煩わしいものでしかなく、可及的速やかにその入部届を握りつぶしてしまわなければ、残り二年の僕の高校生活が酷く憂鬱なものになってしまう。なんとしても入部を断らなければならないが、しかし具体的な方法は一向に浮かばない。さて、どうしたものか……。
なんて。
つらつらと文句をたれてみたものの、白状すると、僕は嬉しかったのだ。ミステリ談義をする相手に当時の僕は飢えていたから、ついに理解者が現れたと、二つ返事で入部を認めてしまった。
愚かだった。
これが全ての問題の始まりだった。
小倉山はミステリ狂だった。入部初日に私物の推理小説をことごとく部室にぶちまけ、そのせいで床板が見えなくなり、足の踏み場もなくなった。ゴールデンウイークが明ける頃には、彼女は自身の独断で部室をカスタマイズし始め、気づけば四方の壁には天井まで届く大型の本棚で埋め尽くされ、もちろんそこには一切の空白地帯なく書物が収められた。ミス研の部室がいつの間にか防音室的役割を果たすようになるほどの書物の波に、僕はすっかり及び腰。震え声で後輩の機嫌を取りながら、これ以上のイカれたまねをさせないように画策し始めたのだけれど、もちろんそんなものは無力だった。
「犯人当てをしましょう」
彼女が僕にそういったのは一学期の中間試験が終わった日のことだった。
「犯人当て? 江戸川乱歩とかがやってたっていうあれのことかい」
「はい。私と先輩が毎週交代制で、ミステリ作家役と探偵役をするのです」
昔の推理作家たちが集まって毎年していたという遊びを、彼女は部活として行わないかと提案した。
「問題篇と解答篇、そんなに長くなくていいですからミステリ作家役がそれらを作る。探偵役は問題篇で提示される謎を制限時間内に解く。解答篇で書かれた真相を見事言い当てられたら探偵役の勝ち、解かせなかったらミステリ作家役の勝ち。作家役は当然、フェアに書く義務を負う。いかがですか」
「あいにくと僕は忙しくて……」
「やりましょう」
「でもね」
「やりましょう」
「はあ……」
「やりましょう」
「はい」
押しの強い後輩。押しに弱い僕。圧倒的な立場の差が僕に首肯させた。
半ば強引に提案を押し通され、はなはだ不本意ではありながらも犯人当てをすることになった。やれ、小倉山のバイタリティはどこから来るのか。ミステリは読むものであって書くものじゃないだろうに。
「でも小倉山。毎週というのはきついよ。交代制ということは作家役は二週間に一回回ってくるわけだけれど、二週間でトリックを考えて物語形式で書き起こすのは時間的にきついだろう」
「そうですか? 私はできますよ」
「違うちがう。今のは、君の筆力の心配をしているわけでは決してなくて、僕ができないって話をしてるの。殺人事件を起こして複数名の容疑者を書き分けながら、犯人を示唆する伏線を張る……。プロ作家ならともかく僕はただの一般人なわけで、そうするとそれだけの情報量を物語として書くにはかなり文字数が必要になってしまう」
その後輩は面白くなさそうにため息を一つ吐くと、「わかりました」といった。
「譲歩しましょう。犯人当てでなくとも結構です。ガチガチの犯人当てがカロリー高すぎてしんどいというのなら、もっと作りやすいもので構いません。しっかりと真相を解く伏線がフェアにはられるのであれば、日常の謎とかでもいいです。それならワンアイデアで書けますし、文字数もかさばりません。二週間に一回でも書けるんじゃないですか」
少し考えて、僕は頷いた。それくらいならできるだろう。そう思った。で、話し合いの結果記念すべき一週目は部長であるところの僕が作家役を務めるのが妥当だろうという結論に至る。その日は、来週の火曜日に持ってくるようにという厳命が下されて解散した。
が、すっかりその約束を失念していた僕は、月曜日に原稿の進捗を聞かれたとき、まだ書き始めてもいないことを打ち明ける。一に唖然、二に呆然、三四とばして五に憤然。小倉山の顔が綺麗な三段跳びを決めて爆発し、忘れていたことに関しては僕の落ち度であるから、土下座に三跪九叩頭、果ては五体投地までして慈悲を請う。すると、優しい後輩は明日の時点で完成していたら不問に付すという言葉を与えてくれたのだけれど、しかしどうだろう、プロットすら立っていない短編推理小説を一晩で完成させろという条件は果たして本当に優しかったのだろうか……。ともかく、明日を命日にするのは嫌なので死にものぐるいでパソコンに向かった。火葬も土葬もまっぴらだ。キーボードを叩く手が休まることはなく、夜を徹してパソコンを打楽器の如く打ち鳴らした果てに、ようやく原稿は完成した。
「苦労自慢はいいです。計画的に書いていたらエナジードリンクに頼る必要もなかったのですから」
手厳しい指摘にたじろぐ。まるで一夜漬けのテスト勉強をたしなめる親のようだ。
「なにはともあれ締め切りには間に合ったさ。『日常の謎』だ」
「完成度の自信はどれくらいあるのですか」
「自信がどれくらいあるかを言語化するのは難しいけれど、一日で書いたにしてはなかなかいいと思う」
「斬新なトリックですか」
「あまり言うと、推理の材料を与えちゃうことになるから避けたいんだけれど……うんにゃ、別にトリック自体に新規性があるわけではないよ」
原稿の解答篇を小倉山に見えないようにつまみ上げながら続ける。
「今更言うのも野暮だけれどね、ミステリのトリックは出尽くしたと言われだしてから久しい。それでも毎年推理小説は世に発表され続けているわけで」
床に散らばる小倉山の蔵書に目をやる。その中には、今年発表された新作ミステリも何冊かある。
「ほら、よく、重要なのは組み合わせって言うじゃないか。複数のトリックの組み合わせ。舞台設定とトリックの組み合わせ。文体とトリックの組み合わせ。組み合わせの新規性が現在のミステリにフレッシュさを与え、作品としての人気に繋がる。別に僕はミステリ作家じゃあないけれどね、小倉山。書くからには面白いものを作りたいとは思うよ」
「随分と自作を持ち上げるんですね先輩」
「手前味噌で恐縮だけれど」
小倉山はソファから起き上がると机に手を伸ばす。
「いいでしょう。先輩の力作を探偵であるところの私が解き明かしてあげます」
「今回のは、小倉山にはちょっと難しすぎたかもしれないけどね」
「それは文体が、と言うことですか? 私が普段ライトノベルも読んでいることを当てつけているんですか」
小倉山が憮然として尋ねてきた。
「先輩はどっちかっていうと純文学かぶれですからね。典型的なインテリ系中二病の……」
「今の一言は重いぞ。日本中の文学青年を敵に回したな」
まあ、たしかにそういうキライはあるけどさ。
「どうせ、シチュエーションや世界観を度外視した、文学気取りの重厚な文体で書いてるんでしょう?」
「違うよ。ちゃんと書いたから」
「本当ですか」
「うん。なんてったって、この作品の登場人物は高校生だからね。ほら、あんまり古臭い書き方なんてできないし」
「あやしいですね」
信用ならないと言わんばかりに、語尾を間延びさせてくる。不愉快なやつだ。ひとしきり茶々を入れると、小倉山は、「さて」と言って、僕の原稿を手に取った。
タイトルは、ない。問題篇と解答篇とがそれぞれ紙の一番上に示されているだけだ。
眼鏡越しにスッと目を細め、それから、探偵役は、手に取った問題篇の一枚目に目を落とした――。
************
【問題篇】
自室でジョージ・オーウェルのとあるディストピアSFを読んでいると、控えめなノックが三度あった。アメリカで発表された有名な小説だが、これが今読んでも面白い。そのため、古い物語に没頭している僕の耳には件のノックが聞こえなかった。その後しばらく沈黙があって――もちろん僕自身には、その無音が扉越しの沈黙を意味する事になんて、気づけるわけが無かったのだが――やがて来訪者は心を決めたらしい。
「兄貴。」
つ、と細く扉が開かれ、遠慮がちな声があった。僕はその段になってようやく本から眼を上げ、扉の方に意識を向けた。そこに立っていたのは、妹の裕子だった。
「なんだよ。」
ぶっきらぼうに云う。読書を邪魔された不快感が先行した。
「少し頼み事があるの。」
裕子の方もそれを聞いて、硬い声で応じた。僕達兄妹の仲は端的に云って、あまり良くない。しかし……ふむ、頼み事ね……。部屋を訪ねてくることさえほとんどない裕子が、頼み事なんて、変な感じだ。
「ふん。ならさっさと云えよ。引き受けるつもりはないけれど。」
話を聞きながらでは本に集中出来ない。といって裕子のために本を閉じ、目を合わせるのは癪である。そういう理由で、僕は引き出しからルービックキューブを取り出した。裕子が僕の部屋のベッドに腰を下ろすまでの少しの間に、素早く完成された六面を崩す。それを横目に見て不肖の妹は、ふんと鼻で笑ったが、取り繕うためにあわてて、咳とくしゃみの子供のようなどっちつかずの声でごまかした。察するに、その頼み事とやらは、かなり真剣なものらしい。交渉の直前に、付け焼き刃の友好関係を築こうとしているのが感じられた。
「頼みと云うのは、兄貴の同級生についてなんだけど。」
裕子が云った。
「誰のこと。」
かたくなに目線をルービックキューブに落とし、全面を揃えようと試みる。
「名前は九条千春と云って――ねえ、それ、そんなに楽しいの? 最近学校でも流行っているけど、あまり面白さが解らない。」
「僕の手遊びのことは気にしないでくれ。お前には関係のない話だろ。そんなことよりもその九条千春――気障な名前だな――がどうした。」
「実は以前、初めて姿を見かけて、とても印象的で……」
「一目惚れでもした、恋のお相手か? ばかばかしい。惚れた腫れたの話を僕にしてくるなよな」
「違っ、違う! 九条先輩はただ、私の憧れの先輩で……。」
あわてて裕子は否定する。その挙動と言動とを見て、『恋のお相手』と『憧れの先輩』にいったいどんな違いがあるのか、と訝しむ。
僕の頭の中では、九条千春という男の容姿が、既にはっきりと想像出来た。裕子は酷く面食いだから、好きになるのは決まって気障な爽やかさをまとった男たちである。例外はない。
が、そのとき、僕の記憶と裕子の発言との間には一つの食い違いが起きていた。
「けれど妙だな、裕子。あいにくと僕はそんな奴を知らない。」
僕は正直にそう云った。きりと裕子の眉が釣り上がる。
「兄貴の交友関係の狭さを恨むね。」
「きっといないと思うぞ。」
「そんなはずはない。」
口を尖らせてかたくなに言い張られると、こちらもそんな気がしてくるから不思議だ。
「まあいいや。明日にでも名簿を確認すれば片付く議論だし。話を進めてくれよ。僕にただ恋愛相談をしに来たわけじゃあないだろう。いや、それでもいいんだけどね別に。むしろその方が面白いか。うん。赤裸々に話せよ。聞き終わるまで馬鹿にするのは我慢してやろうじゃないか。」
ちょうど、六面全てが完成したルービックキューブを机に放り、嫌味を云う。
「私はその先輩と仲良くなりたいの。で、クラスを教えて欲しい。」
その程度の嫌味はみじんも効かないわ、と云わんばかりの尊大な口調で裕子は応じた。しかしどうだろう、これは明白な頼み事であり、であるならふさわしい口ぶりと云うものがあって然るべきじゃないのか。僕は、さてどうしたものかと指を組み、机の上のルービックキューブとジョージ・オーウェルのディストピアSFとを交互に見、二三度首を捻って思案する。
もちろん、無条件に引き受けるつもりは毛頭ない。が、ではどのような条件がふさしいかとなると、これは塩梅が難しい。立場としては上にあるわけだから、強引に交渉することもできる。一方で今回は寛大な対応を見せ、貸しをつくるという案もある。
「憧れの先輩のクラスを知らないとは、おかしな話だけれど。」
「二週間前の球技大会で見かけただけで、その時はクラスを確認する余裕がなかったから……。」
そんなことも、あるか。裕子の交流内では、九条千春という名前と学年までは分かれど、クラスは誰も知らなかったらしい。
同級生であるはずの僕がその存在を知らず、しかし球技大会では妹の目に留まるほどの美少年として現れた。
奇妙な話だ。
どうも、話ができすぎている風にも思える。僕自身の交際関係におらずとも、同級生で、まして男子の名前を、知らないなんてことがあるだろうか。普段の生活ではごく影の薄い人物で、しかし妹の眼鏡にかなうほどの美少年。
それは――。
それは――さながら幽霊みたいじゃないか。
翌朝、普段よりも少し早く家を出た。制服のポケットに手を突っ込んで、音楽を聞きながら歩く。そろそろマフラーが必要な時期かもしれない。通学路に並ぶ街路樹が葉を落としているのを見て、そう思った。
結局、裕子からの頼みを僕は受けた。理由は二つ。まず、たいして面倒な頼みでもないこと。九条千春なる人物が何組かは、ちょっと調べたらすぐにわかることだ。二つ目は、僕自身も少なからず気になる頼みだったこと。九条千春に対する僕と裕子の認識が根本的に食い違っているわけが知りたくなったのだ。
しかし、不肖の妹の頼みを二つ返事で受領するのははばかられた。それで、ちょっとした嫌がらせのために、依頼料を支払わせる段では、要求した五千円をすべて、以前発行が始まった新紙幣に変更させた。新しい千円札の肖像画は、頬の痩けた体調の悪そうな男で、札の顔を名乗るにはふさわしくないように思えた。
学校に着くまでの道ではあまり『九条千春』の事は考えなかった。考えてもしょうがなかったからだ。そのかわり、次に読もうとしている小説のことを考えた。有名な純文学作家が書いた新刊で、コインだかベイビーだか云う片仮名ばかりの題名だった。読書家の知り合いは激賞していたが、さて本当に面白いのかしらん。イヤホンの白いコードを指で弄りながら、内容を予想して遊んだ。
学校に着いた。冷たい上履きに足を通して昇降口を出ると、まずは教室に荷物を置きに行く。普段、遅刻間際まで登校をしない不真面目な僕には、早朝の教室が新鮮だった。秋分を過ぎて久しいからか、僕が教室に入ったときは、鋭い黄色の陽光が窓から差し込んでは教室の机と床とに反射して、そこここでガラス片をまぶしたように輝いていた。静謐な雰囲気だった。他に人影は無かった。
幽霊の憑きものを落とすにはうってつけの舞台じゃないか――。
イヤホンを外しながら、心の中でつぶやく。
鞄を机に置くと、まず一組の教室に移動した。ここは先程僕がいた二組の教室と違い、早朝の陽光で満たされてはいなかった。窓の外の植樹の陰になっているらしい。まっすぐと教卓に向かう。そこには二つの厚紙がある。
座席表と名簿表と。
やることは決まっていた。つまり、九条千春とか云う男がどのクラスに所属しているかを確認すればいいのである。そのための最も手っ取り早い方法は、全てのクラスの紙を見て回り、『九条千春』の名前を見つけることだ。一学年十クラスあるこの高校においては些か面倒ではあるが。
「名簿を見たほうが早いかな……。」
最初、座席表に目を通して、件の名前を探そうと試みたのだが、半ばまで来た辺りで、出席番号順に記されている名簿表を確認する方が速いと思い至り、そちらに切り替えた。
九条、くじょう……。まさか九条にくじょう以外の読みがあるとは思えないが、昨夜、裕子には名前の読みを確かめてあったので、この探し方に漏れはないことは確認済みだ。
――茅場紘汰
――岸辺龍一郎
――小林春彦
ない、か。
たしかに名簿に記載がないのを見ると、僕は一組をあとにした。
二組でも同様の方法を採った。
――霧島淳
――吉良肇
――暮林智則
ない。次に行こう。
しかし、次のクラスにも『九条千春』の名前は無かった。次も、そのまた次も。
十組まで確認して得た事実は、いずれのクラス名簿にも『九条千春』の名前は無いという事だった。
「どういうことだろう……。」
自分の教室の自分の机に戻って、座り込む。軽い目眩がした。九条の読み方に間違いがない以上、僕の調査方法に漏れはないはずなのだ。よしんば、不登校の類であったとしても、名簿表に記載がないなんてことはありえない。
あるいは二週間前の球技大会から今日までの間に退学していたんじゃないか。そんな荒唐無稽な仮説が浮かんだが、あわてて打ち消す。いかに交友関係の狭い僕でも、同級生が一人退学してなんの情報も回ってこないのはおかしい。またぞろ目眩がした。
――冗談めかして言っていたことが真になったらしい。これでは、本当に『九条千春』と云う奴は幽霊のようじゃないか……。
五千円も払わせている手前、見つかりませんでしたでは済まない。しかし、昨晩の話が全て妹の詐言でない限り、この不合理は解決しない。僕にはそう思われた――。
【読者への挑戦】
作者、柳隆馬は社高ミス研所属、小倉山もみじに挑戦する。しかるべき情報は全て示された。
〈Question〉
『九条千春』は「僕」と同級生である、という裕子の発言が正しいことをここに保証する。
では何故、「僕」は『九条千春』を名簿表に見つけることが出来ないのか? 合理的に説明しなさい。
※事件の真相は一般教養及び常識の範囲内から推測し得るものであり、超常現象その他未知の概念が用いられることは一切ないことも、問題作成者として明言する。
************
「なるほど……」
読み終えた小倉山は、問題篇の紙の束を脇にやり、ソファに背をもたせかけた。
このソファというのは、家庭用のソファではなく――仮に家庭用だとしても学校の部室にあるのはおかしな話だけれど――応接間にあるタイプの二人がけの革張りのものだ。どこで拾ってきたのか見当もつかないが、気がつけば部室に持ち込まれていた。どうやって部室の扉を通したんだよ、その大きさで。
黒光りする革の表面を漫ろに撫でながら、小倉山の首がゆっくりと上下に揺れる。こいつが考えるときの癖だ。思考中に奇怪な行動に出る名探偵というのは、推理作家がその天才性を演出するためか、かなり多い。今風に言うとキャラ付けだ。ミステリも、ライトノベルのようにキャラ付けが強く意識される物語なのだろう……。
「それはどうでしょうね。推理小説における名探偵が、往々にして人知を超越した存在として描かれるのは事実ですが、だからといってそれをキャラ化と表現するのはいかがなものかと」
「なんだよ、もう推理はいいのか?」
「ええ、解けましたから」
ニヤリと笑って小倉山は立ち上がった。
「答えを聞かせてもらおうかな」
「と、その前に、ミステリのトリックの一つ、叙述トリックについてお話しませんか」
床に高く積まれた本の塔を避けるように歩きながら、僕が腰かけている長机の方に移動して、語り始めた。
実をいうと、この部室には椅子がない。いや、厳密にはあるにはあるんだけど、全て上に小倉山の私物が積まれていて座れなくなっている。じゃあソファに座ろうか二人がけだからちょうどいいよね、と思って行動すると、意外に強い拒絶を受ける。先輩と並んで座るのは、なんかイヤです、と。その度、僕は苦笑してみせるのだが、内心すこし傷ついている。そういうわけで僕の部室でのポジショニングは、長机か床かの二択なわけ。
「叙述トリックとは、作者が故意にミスリードを誘う地の文の書き方を行い、事実とは異なる状況把握を読者にさせる、言い換えれば、思い込ませる、そういうトリックのことをいいます。日本では綾辻行人氏が得意にしていて、後の世代の作家たちにも大きな影響を与えました。一時期は叙述トリックものの小説が山ほど作られたそうです。今はだいぶと落ち着いてきていますが。叙述トリックの例としては中性的な名前の人物に男っぽい口調で話させ、読者にこの人物を男性だと思わせる。でも最後に実は女性だったと明かす、とかがありがちですね。こういう構造を持つものは性別誤認トリックと呼ばれますが、その他、人数誤認トリック、舞台誤認トリック、人物誤認トリックと、様々にあります」
「それくらいのことは僕も知っているよ」
「まあまあ話の導入ですから。で、そういうトリックを看破するための最も効果的な方法を先輩はご存知ですか」
「常にメタ的視点で物語を読むこと」
「その通り」
小倉山はそこで、ソファにある僕の書いた問題篇を指差して続けた。
「先輩の書いた『日常の謎』も、全く同じ解き方をすればそこまで難しい話ではないのです。物語としてあの話を読むと、情報量が圧倒的に不足していて、謎の解決なんてできないように思われますが、メタ的視点を駆使すれば十分に情報は与えられていました。いやお見事ですよ。ただ物語を読んで推理するだけでは、決して真相にたどり着けない構造にしたのは意図的でしょう? よほど私に勝ちたかったようですね。おまけに――姑息な盤外戦術まで駆使してきたのには脱帽です。なあにが『古臭い書き方はしてない』ですか。これアンフェアすれすれですよ、まったく。……でも先輩、相手が悪かったですね。謎は全部解けました」
「真相の説明がなされていない以上、負けを認めるわけにはいかないな」
「焦らないでください。すぐに説明しますから」
何から話し出すかを思案するように小さく息を継いで、小倉山は話し出す。
「まず最初の違和感は文体です」
「文体」
僕はすこしドキリとしていたけれど、それを顔には出さず機械的に繰り返す。文体、ね。
「はい。一見普通の文章のように見えますが、ちょっと変なんですよね、この文体。いや、文体というより、言葉選びかな。微妙に古臭いんですよ。『言う』を『云う』と表記していたのが、特に私は気になりました。現代作家でも『云う』を使う人はいますけど、それは装飾的というか演出的というか……とにかく現代ではあまり見ない漢字変換です。あと、他に目立ったのは会話文の最後に必ず入れられていた句点ですね。会話文の最後に現代の小説は句点を入れません。入れても間違いではないですが、これもやはり昔の小説の習慣です」
もともと、文字数圧縮のために新聞社がしていた句点の省略が、市民権を得た、という流れだったと思いますが……。
小倉山はそう補足した。
「昔の小説の文体が好きなんだよ、僕は。谷崎潤一郎とか大好き」
「おや、先輩? そこですっとぼけるのはアンフェアというものですよ。先輩の純文学かぶれも懐古趣味も、私はよく知っていますが、しかしこの場合、先輩は単なる中二病をこじらせた痛々しい文学青年の手癖ではなく、明確な意図をもって、この文体を採用しています。認めてください。これが意図的なものである、と」
「……認める。たしかに一つの意図をもってそうした」
「ありがとうございます。では、文体の話はひとまず置きましょう。それでは次の疑問、ディテールについてです。一般的に本格推理小説というのは無駄な情報を極端に避ける傾向にあります。謎の提示と必要な情報の提示、この二つを追求し、その他の要素を排除する。あるいは文章のリズム感を損なわない程度に留めるのが定石です。これは短篇小説ですから、なおさら傾向は強いはずです。それなのに、この小説の構造を解析してみれば、明らかに不要な要素が含まれています」
「どこ?」
「妹と主人公の折り合いの悪さです。この話の謎の主題はあくまで『九条千春』という人物の存在についてであり、であるなら妹と兄との会話はそこまで重要ではないはずでしょう? ところがこの作品では、目を合わせないための小道具として、『ジョージ・オーウェルのディストピアSF』や『ルービックキューブ』、『新紙幣』なんかが描写されます。ねえ先輩? 教えてくださいよ。前日の夜から慌てて書き出した推理小説で、そこまでして妹との関係の悪さを描写した理由はなんですか。私なら、先輩と違って純粋に推理に関係する情報だけを提示しますよ。時間がないならなおさらです。本格ミステリは文学ではないのだから、人間味を演出する必要なんて微塵もありませんしね」
「別に。理由なんてないさ」
「そうでしょうね、妹との折り合いの悪さを描く理由は私にもよくわかりません。ですから、この場合、先輩の意図は逆だったんじゃないですか」
「逆、ね」
「『ジョージ・オーウェルのディストピアSF』や『ルービックキューブ』、『新紙幣』なんていう多くの小道具を出してまで、兄妹の不仲を主張したかったわけではない。その逆です。つまり、兄妹の不仲という設定を作ることで、『ジョージ・オーウェルのディストピアSF』や『ルービックキューブ』や『新紙幣』といった小道具を自然と作中に登場させようとしたのです。そうですね?」
ここで嘘をつくとアンフェアの烙印を押されてしまう。悔しさを押し殺して、僕は首肯した。
「ありがとうございます。これで情報は確認できました。それでは真相を指摘しましょうか」
「どうぞ」
この小説の構造に小倉山が完全に気づいていることは、質問内容から明らかだった。僕は断頭台で死刑がくだされるのをただ待つように、小倉山の次の言葉を待った。
小倉山は眼鏡を外し――それは彼女が緊張を解くときの癖だった――勝ち誇ったような調子で告げる。
「主人公が見ていた名簿のどこかに『九条千春』の名前はあった。主人公は一つの大きな勘違いをしていたがために、それを見落としていただけだったのです」
「正解だよ」
僕は、小倉山には見えないように右手で丸めて持っていた解答篇の紙切れを、彼女に渡してそう言った。完敗だ。
「この物語には二重の叙述トリックが仕掛けられていたのです」
あくまで小倉山は真相の補足を続けるつもりらしい。僕が渡した紙には目もくれず、淡々と続ける。負けがわかっているのに聞くのは馬鹿らしかったけれど、黙っていることにした。
「この物語が描写されている時代は現代ではなかった。一九八四年が舞台となっていたのです」
「ああ」
「先程話した、文体の古さ、細かな小道具はこの事実を示すために必要不可欠だったんですね。少し古びた文体は、物語の時代設定の古さを示唆しています。ジョージ・オーウェルの有名なディストピアSFと言えば、『一九八四年』という作品ですし、ルービックキューブが日本で最初に流行したのは80年代初頭。新紙幣というのも、1984年に発行された夏目漱石の千円札のことです。新紙幣については、肖像画の男の頬は痩せこけていたという描写もありますが、2024年に発行が始まった新紙幣の肖像画、新渡戸稲造の頬はだいぶとふっくらしていますもんね。この部分でも示唆していたわけです。他にもBluetooth全盛の時代に『イヤホンの白いコードを』だなんて古風が過ぎるというものでしょう。『コインだかベイビーだかいう名前の純文学の新刊』というのは村上龍先生のコインロッカー・ベイビーズですか? 伏線の数々が露骨なまでに張られていたことには、気づいてしまえば一瞬でした」
僕はうなだれていた。
「でもこれだけじゃあまだ真相には遠いですよね。ここでもう一つの叙述トリックです。先輩、『九条千春』は本当に男なんですか?」
「……」
「『九条千春』は実は女だった。これが2つ目のトリックです。ただしこれは一般的な叙述トリックと違って、読者だけが事実を誤認させられていたのではなく、主人公もまた勘違いをしていたのです。千春という中性的な名前を見れば、ちょっと叙述モノに耐性のある人なら誰だって警戒しますよ。主人公の一人称視点では、つまり主人公の主観の中では、『九条千春』が男だとされていますが、妹がそれを認めた描写はありません。ばかりか、『恋のお相手』ではなく『憧れの先輩』であることを積極的に強調しています。恋の相手が自身と同性である可能性も、まあ、なくはないですが、憧れの先輩なら同性である可能性はより高まるでしょう。『九条千春』は女だった。異性だったからこそ、同級生でありながら主人公は彼女を認知していなかったのです」
「正解だよ。もういいだろう。一生懸命考えた力作をこうもあっさり解かれて、僕は傷心だ。そっとしといてくれよ」
「いいえまだです。これだけでは十分な説明になりませんから。舞台は1984年だった。『九条千春』は女だった。この二つの情報と、あとは常識があれば謎は解けます。〈読者への挑戦〉に書かれていたように、ね。昭和期から平成の初めくらいまでの学校の名簿表は、男女別に並んでいたのは有名な話です。まず男子があいうえお順に、その後ろに女子の名前が続くように書かれていました。男女平等が訴えられ始めたここ数十年で、そのシステムは廃止されましたが、1984年なら、まだそういう書き方がされていたはずです。主人公は男子のあいうえお順から『九条』という名字を探した。だから見つけることができなかったのです。九条と言ったら名簿表のわりかし前の方ですから、視覚的にも心理的にも女子の名前までは目がいかないでしょう。
ちなみにこれを示唆するために、作中で登場した、『九条千春』の名前を探すためだけに列挙された計六人は全員、男の名前になっていますね。男女比が極端に偏っていない限り、学校の人間から無作為に六人抽出して、全員が男である確率なんて限りなく低いでしょうし」
男女比が均等なら、二分の一の六乗で確率は一・五パーセント程度。有意水準を三パーセントとしても、統計的にあり得ない……。
なんて、ぶつぶつと小倉山は続ける。これだから理系は嫌なんだよ。
僕はもう早くこの話題を終わらせてしまいたくてしょうがなかった。今朝、自信満々で書いた解答篇に記されているすべての情報を、小倉山が一瞥さえせずに当てていったからだ。
「これで真相は説明しました。私の勝ちでいいですか?」
「もちろん、そうなるね」
「だったら一つお願いがあります。勝者のお願いですから当然聞いていただけますよね」
「それはもちろん――え?」
意外な話の流れに困惑して、名探偵に向き直る。僕は息を飲んだ。いつの間にか、最前までのへらへらとした顔ではなく、彼女の顔は引き締まり、心なしか青ざめていた。
突然、鐘の音が聞こえてきた。五時四十五分。下校時刻の十五分前になるチャイムだ。部室に窓がないから直接は確認できないけれどど、外は既に夕暮れだろう。
「言ってたじゃないですか、先輩。勝ったほうは負けたほうに何でも一つ命令できるというルールにしよう、って」
「言ったかな……」
「言いました」
全く記憶になかったけれど、そう強く断定されるということは、きっと言ったのだろう。いつの間にか眼鏡をかけ直していた小倉山は酷く緊張しているように見えた。
「どんな要求なんだい」
ミステリ狂の小倉山は裏を返せば、ミステリ以外にははなはだ無欲なので、法外な要求をされるとは思っていなかった。本屋で私の欲しい本を十冊買ってください、とかそういう種類の金銭的要求はされるかもしれないと覚悟していたけれど。
「これからは先輩も机や床なんて座らずにちゃんとした場所に座ってください。それが私からの命令です」
僕は拍子抜けした。
「いやいや、だって座れる椅子がないじゃないか。君の本が積まれているせいで」
「ですから、他にあるでしょう」
「他に?」
「ですから、例えば、これはあくまで例えばですけど、私がさっきまで座っていたソファとか……」
「それは、だって、君が嫌がったんじゃないか。先輩と隣は嫌です、って」
どうにも小倉山らしくない、煮えきらない言葉に、僕は調子を崩されっぱなしになる。小倉山はやはり神経質そうに眼鏡の縁を触りながら言った。
「実はあのソファ、学校の廃品置き場から調達してきたものなんですけど、側面に穴が空いてていたんです。で、二人も座ると耐久性に心配があったので。」
「なあんだ。それならそれと早く言ってくれたらよかったのに。けっこう傷ついてたんだぜ、僕」
「その節は……本当にすみません……」
ただ伝えなかった事実を謝罪しているにしては過剰なほどへりくだった小さな声に、小倉山はなにか他のことにも謝っているのだと、そのとき僕は気づいた。
「小倉山? さっきから様子が変だけ――」
「あの! 先輩。これをさしあげます」
唐突に、ソファに放ってあった古そうな本を僕に手渡し、小倉山はぺこりと一礼した。
「本当にすみませんでした! あの、ソファの穴はもう直したので、どうぞ使ってください。それではお先に失礼します」
「あ、ちょっ――」
消え入りそうなほどの細い声で早口にそれだけ告げると、小倉山は部室の扉を開けて出ていった。自身の蔵書の塔を決して倒さずに、でも素早く移動するさまを見て、器用だな、とは思ったけれど、今はそんなことに関心している場合ではなかった。
「いったいどうしたっていうんだよ……」
一人残されて立ち尽くす。
小倉山は僕に何かを謝ろうとしていた。それはきっとソファの件に関連する何かで、彼女はそれを深く後悔しているらしかった。と同時に、僕にそのことを直接言うのも恥ずかしく、逃げ去るようにして帰っていった……。彼女は何を謝罪したかったのだろう。彼女は何を言いたかったのだろう。
僕は推理することにした。恥ずかしさからか、小倉山がついぞ言えなかった謝罪の内容をあばき立てることに、良心の呵責はないではなかったけれど、僕は彼女の後悔に触れたいと思ったのだ。
突然態度を変えた小倉山が僕に要求してきたことは、行間を読むに、もっと親密な距離感になろうじゃないか、という提案だ。僕としてもそれは望むところだし、そんなことは特段思い切って言うような、深刻な話じゃない。
そうだ。小倉山はなにかを謝りたかった。これは間違いないはずだ。
必死に考えた。推理小説ではないのだから、十分な情報がある保証なんてなかったけれど、仮説を立て続けた。
また唐突に、鐘の音が鳴った。五時五十五分。下校時刻の五分前だ。
「僕は探偵には向いてないな」
逆の立場だったら小倉山ならものの数秒で解いたに違いない。もやもやを残したままだったけれど、時間切れだ。またいつか直接聞こうと思って帰り支度をする。
と、そのとき、去り際に小倉山から押し付けられた、古そうな本に気づいた。推理に集中するあまり、右手の本にまったく意識が向いていなかったのだ。表紙と奥付けをなんの気なしに確認する。
1931年平凡社から発行された江戸川乱歩全集の第一巻、その初版だった。
状態もよく、相当高価なものだろう。精一杯の謝罪の意を込めるために、手近にあった一番高価な本を与えたのだろうけれど……。
そこで僕は小倉山がこの本をソファから拾って渡してきたことを思い出した。ということは、この本は、僕が部室に来るまで彼女が読んでいた本だと推測できる。本のページを素早くめくっていく。目的のものはすぐに見つかった。
栞だ。
僕はその栞が挟まっている話のタイトルを確認する。
『人間椅子』
「人間椅子、ね」
僕は名探偵にはなれない。だから、そのタイトルを見たときに僕が頓悟した真相が、さて、正解だったのかはわからない。ソファの側面にはたしかに小倉山が言った通り穴が空いていて、ごく最近それが板で補強された跡があった。物的証拠はなく、それにきっと小倉山に告白させるのも難しい。真相は闇の中だ。僕はもうこの事は忘れようと考えた……。
『人間椅子』は、江戸川乱歩の書いた短編小説で、彼の変態性が遺憾なく発揮された小説だ。椅子職人の男が、出荷される椅子をくり抜いて隠れ潜む。やがてその椅子は、購入者の女性のもとに届くけれど、自室で彼女がその椅子に座るたび、隠れている男は革越しに女性の輪郭を感じ、その肌の感触を愉しむいう話だ。気持ち悪いったらありゃしない。
けれど、小倉山がもし僕になにがしかの謝罪をすることを決めていたのなら。その直前に読んでいた本と謝罪内容に関連があるのではと疑うのはごく自然なことじゃないか。
それに。
それに、僕からしてみれば、最前まで嬉々として僕の作品をボロクソに評していた小倉山が、突然シリアスな調子になったような印象があるけれど、あるいはそれは間違いで、今日、小倉山は初めから思い悩んでいたよかもしれない。
思い返せば今日僕が部室に入ったとき小倉山は挙動不審だった。前日の約束をまるで覚えていないかのような反応をしていた。あのときは適当なやつだと思ったけれど、その実、あれは動揺の裏返しだったんじゃないか。この部屋は本が多すぎて音が吸収される。僕が部室に入ってくる瞬間を彼女は予想できなかった。
そこまで考えて頭を振る。
いや、ありえないことだ。ミステリ狂で常に理性的な小倉山が、そんなことをして喜ぶはずがない。
それに。それに、もしこの推理を正しいとしてしまったら、小倉山が僕に、なにかこう……屈折した……感情を抱いていることになってしまう。
もしかしたら。
僕は自分が依拠していた土台が崩れていくのを感じた。
もしかしたら、小倉山が、犯人当てのゲームを提案したのは、部室で何度も顔を合わせていながら、終始、独立して本を読んでいるだけの関係に、波紋を投じたかったからなのだろうか? 自分は名探偵じゃないからとさっき僕は自己弁護したけれど、なんのことはない、僕が朴念仁だったというだけの単純な話だったのか?
ありえない。いや、まったく、小倉山に限ってそれはない。憶測で人のことを語ってはいけない……。まして、こんな考えは自意識過剰もいいとこだ。それこそ中二病だろう。
また唐突に鐘の音が鳴った。下校時刻だ。間髪入れずにスピーカーから放送が入り、生徒指導部の教師が不機嫌な声で、校内に残っている生徒へ速やかな下校を促す。僕は慌てて鞄を持って部室を出た。
校舎を出ると、そこには鮮やかな夕焼けが広がっていた。
僕はそのとき、刺激を求めていた。それこそ眼の前で殺人事件が起きたらいいと思っていた。なんだったら自分が犯人になって、前を歩いている見知らぬ生徒に切りかかってもいい、とさえ思った。推理小説の中のような激しい刺激に三歩歩けば立ち会う、そんな状況を期待していた。動揺を治めたかった。刺激の上塗りが、むしろ落ち着きをくれると信じて疑わず、それを心から渇望していた。
僕は理性的でありたかったし、小倉山も理性的でありたかった。ミステリを作って、ミステリを読んで。極端に論理だけで形作られた世界は不思議と僕たちにとって居心地が良かった。人と人とが深く関われば、感情は激情にメタモルフォーゼしてしまう。その激情が喜怒哀楽のいずれであっても、抑えの利かない思いは痛みを伴うに決まっている。僕も小倉山も、無意識のうちに、いやそれは嘘か……意識的に道化を演じて、痛みを避けようとしていた。その証拠に、僕は一度だって、小倉山とミステリを介さずに話したことがない。
(まったく。こういうことになるから嫌なんだ。やっぱり小倉山の入部届は握りつぶすべきだった。ヴァン・ダインも、ミステリにおける二十則で、不要なメロドラマは慎むべしって言ってたじゃないか)
へらへら笑って、おちゃらけた会話をして、ミステリで遊ぶ。
逆説的だけれど、人に本気で向き合って心が乱れるくらいなら、ミステリの猟奇性に心を乱される方がよっぽどよかったし、僕は今、まさにそんな気分がいよいよ高まっていた。
けれど、午後六時ちょっと過ぎの夕焼けが僕に与えてくれたのは、毛羽立ちやすい何かを包み込むかのような温もりで、それは今の僕にとってもっとも不要なものだったから、放心した僕は、怒りで――そう、きっと怒りに違いなかった――自分の頬が少し熱くなるのを感じていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。




