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昭和二十年大阪大空襲

作者: 雲丹屋

これは今は亡き人の記憶と思い出の話です。


 大阪市西区江戸堀。昭和二十年三月十五日。


「今夜、大阪に大空爆があるようだ」


 大阪大空襲の前日、当時陸軍経理部に勤務していた父が帰宅するなりそう言いました。


 当時、父は三十才、母は三十三才。兄八才、私七才、弟五才、妹三才の六人家族でした。


 その夜は玄関に、暗闇でもわかるように靴を置き、枕元に防空頭巾とリュックサックを置き、服を着たままで眠りにつきました。


 真夜中、空襲警報のサイレンが鳴りました。


 灯火管制で真っ暗闇の中、兄と私は先に行くように言われて、家から百メートルほど先にあるビール会社の地下室に避難しました。

 この地下室はとても頑丈で広く、地区の人達の避難用として開放されていました。戦時下の食糧難で麦もなく、ビールの生産どころではなかったので、地下室は空っぽだったからです。

 地下室には多くの人が避難してきました。私と兄は後から来た父母達と合流することができましたが、この中にいると、外の物音は聞こえず、不安な時間が流れました。


 そんな時、街を守るために地下室の外で頑張っていた男の人達が戻ってきました。


「ここを出ないと危ない」

「これ以上、ここにおったら、この中で蒸し焼きになる」

「今、出ないと橋が落ちたら逃げ道がのうなんで」


 男の人達の言う通り、船場地区は堀川が多く、橋が沢山あって、その橋が落ちると最悪の事態になるのです。


 地下室から外に出ると、街中が火の海でした。

 空は照明弾と焼夷弾で昼間のように明るく、街の様子は一変していました。

 炎が渦巻き、家が崩れ落ち、火の粉が飛び散る中を、ひたすら逃げました。父と母からはぐれないように、ただもう走りました。


 淀屋橋まで来たときのことです。美津濃スポーツのビルが激しく燃えており、ビルの窓から炎と火の粉が舞っていて、私の防空頭巾とリュックサックに火がつきました。母は私の頭巾とリュックを捨てました。

 空を見ると焼夷弾が赤く燃えながら長い尾を引いて無数に落ちてきて、電線までもが炎を上げ、火はどこまでも燃え広がっていました。


 大阪市役所庁舎が燃えていなかったので、そこに多数の人が逃げ込んでいました。

 廊下にまで人があふれていました。皆、疲れ果てており、床に座り込んで言葉もありませんでした。


 空襲の前には、庭や空き地に防空壕を掘って、そこに避難するようにとのお達しが出ていましたが、防空壕がいかに頼りにならないものであるか、一度の戦火でわかりました。



 朝を迎える頃には、敵機もさり、真っ黒い雨が降り出しました。

 雨の中、私達は市役所を出ました。焼け野原となった街を、傘もなく着の身着のまま、黒い雨に濡れながら、とりあえず大阪駅目指して歩いて行きました。

 電話は不通、情報はなし、ただ自分達で行動するしかない状況でした。

 母は臨月で、この日から十日後に妹を出産するのですが、このときはその母が三才の妹を背負い、父が五才の弟を背負い、兄が私の手をしっかりと繋いでくれて、皆ではぐれぬように歩きました。


 大阪駅まで来ると阪急電車が動いていたので、宝塚線にある母の妹の家に、とりあえず行くことになりました。


 この空襲で一夜で十何万人という人が亡くなりました。




 母の妹の家に二日いましたが、その間に父は借家を探してきました。大阪の市街地は焦土となりましたが、淀川を隔てた川向うの地区は被害に遭っていませんでした。戦禍を避けて田舎に疎開する人が多かったのもあって、家を借りるのはそれほど難しくはなかったのです。

 私達家族は、疎開したくても田舎に親戚も知り合いもありません。また、父の軍での仕事のこともあって大阪を離れることはできませんでした。

 借家に移ってからも、まともな暮らしはできませんでした。ほとんどの人が焼け出されており、着替えや布団、鍋や食器、あらゆる日用品が入手困難でした。お金を出しても物が買えないのです。品物がないのです。


 そんな中で、母は産婆さんの家の二階で、妹を出産しました。



 その後、こちらの地区も空爆にさらされ、私達家族は借家を転々としました。空襲警報のサイレンが鳴っても逃げる場所がない日々でした。

 父は淀川の土手の近くに家を借りました。そこからなら川原に逃げることができたからです。


 毎日のように空襲警報が鳴りました。

 母は川原の水際ギリギリのところに私達を連れていきました。火が付けば、すぐに水に身体を浸けられるようにです。

 人の集まっているところは避けるように教えられました。集まっていると敵機に狙われるからです。


 空襲のたびに、焼夷弾と爆弾と機銃掃射が降り注ぎました。

 川原に逃げてきた人々の上を、飛行機が敵兵の顔が見えるほど低空飛行して、機銃掃射で狙い撃ちしてきました。

 一トン爆弾が落ちると、地面に伏せている身体が一メートル以上浮き上がり、その後で叩きつけられるように落ちます。

 焼夷弾は川原に落ちると草に燃え広がり、川面に落ちると油が広がって水の上で炎が広がります。


 敵機が去ったあとは、多くの人が亡くなっていました。そしてようやく家に帰れば、爆風で床の上には土ぼこりが何センチも積もっている有様でした。

 電燈はつかない。水道はでない。ガスはでない。食料はない。そんな毎日が続きました。




 空襲警報のサイレンが鳴ったら、兄と私は先に逃げるように言われていました。母は赤ちゃんを背負い、小さな弟妹を連れて行くので遅くなるからです。サイレンが鳴ると、兄と私はすぐにリュックを背負い、両手に荷物を持って家を飛び出して、淀川の川原に向かって走り出します。私達の荷物は焼け出されてからやっと手に入れた衣類などです。もう無くすわけにはいかないので、いつでもすぐに持ち出せるようにしてあって、兄と私のどちらがどれを持つかも決めてありました。


 七才の子供が三つも荷物を持って走るのは大変です。

 私は一生懸命、兄の後を追って走りましたが、手をつないでいるわけではないので、どうしても遅れてしまいました。先を行く兄の背が少し離れてしまったその時です。


 兄と私の間に爆弾が落ちました。


 荷物を持ったまま、私の身体は飛ばされました。

 土が降ってきました。

 目の前の道に大きな穴が空いていました。

 穴の向こう側で、兄が転んだまま私と同じように呆然とこっちを見ていました。もし、私がもう少し早いか、兄がこちらに合わせて足を遅らせていたら、助からなかったでしょう。


 私達は、また無我夢中で走りました。


「人のいる方に行っちゃだめだ」


 兄に連れられて人の流れから外れ、川原の葦の間に身を隠してから、震えが止まらなくなりました。

 爆撃は激しく、母と弟や妹のことが心配でたまりませんでした。


 かたまって逃れていった人々を爆撃と機銃掃射が狙い撃ちしていきました。炎に巻かれて川に飛び込んだ人達は水面を走る焼夷弾の炎で焼かれていきました。

 淀川にかかる鉄橋の上で止まった阪急電車が窓から炎を上げていて、乗客がポトポトと落ちていくのが見えました。

 私はその電車に父が乗っていないことを祈りました。


 敵機が去って夜が明けたあとも、私と兄は川原で母を待ちました。

 川原に繋がれていた荷馬車用の馬が死んでいました。

 生き残った人が呆然としている中、母が私達を見つけてくれました。母は私と兄が無事だったことをとても喜んでくれました。


 私達が土手を上がっていくと、土手の上の道を父が歩いてくるのが見えました。


「あ、お父ちゃん」


 母は地べたにへたり込んだまま、しばらく腰が抜けたように立ち上がれませんでした。



 空襲の度に多くの人が亡くなりました。大人達は川原に長さ六メートル、幅二メートル、深さ二メートルぐらいの穴を掘り、そこに壊れた家の柱などを渡し、その上に遺体を並べて荼毘に付しました。そんな煙がいくつも空に昇るのを土手の上から見ながら、私は手を合わせました。




 八月の晴れた日のことです。

 その日は空襲もなくほっとしていると、我が家に知らない人がやってきました。事情を尋ねると、広島から汽車で逃げて来たと言って泣き出しました。


「広島の街が一つの爆弾でなくなってしまった。人も街もなくなってしまった」


 次は大阪かもしれない。

 皆がそう思いました。


 家をなくし、全てをなくした辛さはわかるからと言って母は、行く当てもなく住む家もない人を、うちに泊めてあげることにしました。

 そんな人はどんどん増えて、十世帯もの人達が我が家の一階を占領してしまいました。どの人も着の身着のまま。布団があるわけもなく、ただ雨露がしのげて畳の上で寝られるだけで良いと、大勢の人がひしめき合ってごろ寝をしておりました。


 そんな状態を心配したのでしょう。父は陸軍の将校用官舎に入れるように伝をつけてくれ、私達はそこに引っ越すことができました。

 そうしたら、そこはなんと!

 電燈は点く、水道は出る、ガスも出ると、夢のような家でした。

 父はすぐにラジオを買いました。


 それから間もなく、八月十五日、晴れて暑い日の昼。


『朕、深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ、非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ、ココニ忠良ナル爾臣民ニ告グ……』


 ラジオで天皇陛下の勅語がありましたが、私には難しくてわかりませんでした。母が「日本は戦争に負けた。戦争は終わった」と教えてくれました。


「(あー、死なずに済んだ、これで逃げ回らなくていいんだ)」


 私の心に浮かんだのは、ただそれだけでした。




 §§§



「戦争なんて本当に何一ついいことはない。絶対にしてはならんもんやからね」


 そう言って、僕に戦争中の思い出を語ってくれた祖母は、今はもういないけれど、僕はふとした折に、灯火管制の暗闇の中にいる七才の女の子のことを考えてみたりする。


 見上げた夏の夜空には、大輪の枝垂れ花火が広がって、長く尾を引く金色の火の粉をキラキラと降らせていた。


いつか何かの形で書いておこうと思っていた話です。

お読みいただきありがとうございました。

他のお話のように「あー楽しかった」という類の話ではありませんが、感想、評価☆、リアクションなどいただけますと深く感謝いたします。

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忘れてはいけない大切なお話だと思います。 80年前にあったリアルが淡々と、でも生々しく書かれていて、その場に透明になって佇んでいるような心持ちで読ませていただきました。 黒い雨、衝撃で浮いてしまったこ…
犠牲者の皆にお悔やみを 標を紡いでくださって誠にありがとうございます
他の感想でも書いたが、仕事場のOBが小六だったかで防空壕ほりが授業。いざ空襲なったら、地域の何たら役とかが先に入ってて入れてくれない。弟、おぶりながら、用水路潜る、息継ぎ、潜るで生還。90近い人があ…
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