「引きずり上げられる演目」
※本編で出る描写はR-15程度になります。
※BL表現は心理描写がメインになります。
※シリアスパートが続きます。
013.
――数日後。
民警本部の中でも、限られた者しか出入りを許されない“犬班”の施設にて、ショウとトラフィムは新たな任務に向けた事前説明を受けていた。
壁際に並んだ武器ロッカー、無骨なモニター群、ホワイトボードに貼られた未処理事件の断片――
表に出ることのない戦いの痕跡が、この空間には確かにあった。
「……つまり、おまえらにやってもらうのは“顔を見せる”ことだ」
ミハイル・オルロフ軍曹は、片足を投げ出すように椅子に座り、指で空中に円を描くようにして言った。
その顔に浮かぶのは、いつものような気楽な笑み。だが、その奥に潜む眼差しは、いつにも増して鋭かった。
「“顔を見せる”って……囮になれってことか?」
トラフィムの声には、隠せない棘が混じっていた。
レオニード・クラヴツォフ伍長がそれを受け止めるように、淡々と口を開く。
「正確には“存在を示す”。……こちら側が、ヴァシリーに対して“動いている”ことを意識させる。揺さぶりをかける」
「……それに、意味があるんですか?」
ショウの問いに、レオニードは頷いた。
「奴は、狙った獲物を“泳がせる”タイプだ。自分の掌の上で転がして、すり減らしてから喰う。……だから逆に、こちらが動けば、奴も反応する。――必ず」
その瞬間、トラフィムが硬直した。
背筋に冷たい感触が走る。頭の奥で、あの夜の声がよみがえる。
“……次に会った時には、殺す。”
血の気が引く。視界の端が、わずかに滲んだ。
だが、隣にいるショウの気配に、彼は息を飲み、必死に意識を繋ぎ止めた。
ミハイルがその沈黙を断ち切るように、口を開いた。
「もちろん、危険のない範囲で動いてもらう。監視は俺らがつける。……だが“犬に咬まれた”手を、どう使うかは、おまえら次第だ」
“咬まれた手”。
――それは、獣に認識され、傷を負った者という意味。
トラフィムとショウは、もう――奴に“咬まれて”しまっている。
それをどう使うかは、彼ら自身の選択に委ねられていた。
*
その日の午後、ふたりは通常訓練へと戻された。
あくまで“いつもどおり”の範囲に収められた措置。
だが、訓練場に足を踏み入れた瞬間から、風向きの変化は否応なく肌に触れた。
ちら、と流れる視線。
隣の輪で交わされる、小声と沈黙の落差。
目を合わせてこない者。
遠巻きに見る者。
好奇の色、警戒の色、それに気づかないふりをする者――
「……見てんな」
トラフィムがぼそりと呟いた声に、ショウは短く頷いた。
あからさまに敵意を持っているわけではない。だが、その無言の空気がむしろ重い。
“あの二人は特別扱いされた”
“何かヤバい任務に関わったらしい”
“あの場にいたらしい”――
言葉にはならない憶測と、それによる距離。
表立った軋轢ではなく、じわじわと擦れるような“分断”の感触があった。
トラフィムの奥歯が軋んだ。だが、それに抗うように反応すれば、思う壺だと分かっていた。
視線を前に向けたまま、黙々と与えられたメニューをこなす。
その隣で、ショウもまた何も言わず、動きを合わせていた。
どちらからともなく、呼吸を合わせるような感覚がそこにあった。
*
夜。
シャワーを終えたショウが、まだ濡れた髪をタオルで拭きながら部屋へ戻ると、トラフィムはすでにダイニングのソファに腰を下ろしていた。
ローテーブルの上には湯気の消えた紅茶のマグカップ。
膝にかけた毛布の端を、彼は無意識に指で弄びながら、宙を見ていた。
ショウは黙って隣に腰を下ろす。
言葉は交わさない。ただ、少しの静けさの中で、同じ時間を共有する。
やがて、ぽつりとトラフィムが言った。
「……なあ、ショウ」
「ん?」
「もし、あいつに――ヴァシリーに、また会ったらさ」
指先が止まる。
トラフィムの声には、怒気も高ぶりもなかった。ただ、どこか底の浅い水面を覗き込むような、弱く冷たい揺れがあった。
「……俺、あいつを殺せると思うか?」
ショウは、すぐには答えなかった。
だが、誤魔化しもしなかった。
「……分かんない」
その返答に、トラフィムはふっと笑った。
「だよな」
目を伏せる。
「仇を取りてぇって思ってた。でも……俺、あのとき――何もできなかったんだ」
拳が、膝の上で震えていた。
「殺す」なんて言葉すら、口にできなかった。
ましてや、その重さを引き受ける覚悟なんて――とても。
「情けねぇな。ずっと、あいつを殺すためにここに来たはずなのに」
「……おまえは、何も間違ってないよ」
ショウの声は、静かだった。
まっすぐ、揺らがない。
「迷ってるってことは、おまえが“人として”ちゃんと立ってる証拠だ」
その言葉に、トラフィムは目を瞬かせた。
「迷うやつじゃなきゃ……俺、隣に立てないからさ」
「……」
トラフィムは、ふと顔を背けるようにして、手の甲で目をこすった。
「バカかよ。……何その言い方」
「素直な気持ち」
「……なら、もうちょい黙っとけよ」
ショウは笑わず、ただ頷いた。
その様子が余計に照れくさくて、トラフィムは毛布に潜るように肩をすぼめた。
「……あいつに、もう一度会ったとき」
「その時は、たぶん俺、また迷う」
「でも、迷ってる間だけは、隣にいてくれよ」
その一言に、ショウは短く「うん」と答えた。
何度でも、そう言うつもりだった。
部屋に灯る薄い明かり。
静けさの中、並んで座るふたりの影が、ローテーブルに寄り添って伸びていた。
部屋の壁にかけられた時計が、かすかに音を刻んでいる。
秒針の動きがやけに耳に残るほど、室内は静かだった。
トラフィムはしばらく沈黙していたが、やがて毛布の中で小さく身じろぎしながら、ぼそりとこぼした。
「……なあ、もしさ。俺が――逆に、あいつを殺せなかったらさ」
ショウはトラフィムを見たが、何も言わなかった。
否定もしない。ただ、続きを待つように少しだけ目を細めた。
「そのときは……おまえが引き金引いてくれるか?」
言葉の先が震えていた。
「俺の代わりに、全部やってくれ――なんて、言うつもりじゃねぇんだ。ただ、さ……」
トラフィムは息を吐き、手のひらで顔を覆った。
ゆっくりと、苦笑のような声が漏れる。
「情けねえな。……ずっと復讐だけが生きる理由だったのに、いざ向き合ってみたら、怖くて、ためらって、……足がすくむなんてさ」
沈黙。
ショウは、しばらく黙って隣に座っていた。
だが、やがて、ぽつりと口を開いた。
「……あいつを倒せなくても、トラフィムが潰れちまうような結末だけは、俺が止めるよ」
トラフィムが、ゆっくりと顔を上げた。
「倒すかどうかは、おまえが決めればいい。でも……おまえが、後悔するようなやり方だけは、絶対させねぇ」
その声は、真っ直ぐで、迷いがなかった。
ただそこに、“信じてる”という重さだけが宿っていた。
トラフィムは何も言わなかった。
けれど、もう顔を伏せることはしなかった。
「……ありがとう」
小さく、掠れた声で。
その言葉が、この夜で最も正直な響きを持っていた。
ふたりの間にあった空気が、わずかに和らいでいく。
誰にも届かない場所で、静かに綻んでいく“迷い”と“支え”の輪郭。
それは、戦いの決意ではない。
憎しみの共有でもない。
ただ、“生きて、歩き続ける”という、ささやかで確かな合意だった。
ローテーブルに置かれた紅茶のカップは、すっかり冷めていた。
それでも、その夜――灯りは、ほんの少しだけ、あたたかかった。
*
――同時刻。
雨上がりの旧市街、打ち捨てられた劇場跡。
壁に苔が生え、席は砕け、舞台の天幕は今にも崩れ落ちそうに吊り下がっている。
かつて子供たちの歓声と拍手が響いていたはずの空間は、今や黴の匂いと、錆びついた鉄の沈黙に支配されていた。
その舞台の中央に、ひとりの男が腰を下ろしている。
赤毛をなびかせ、脚を組むその姿は、まるで開演を待つ道化。
静寂の中にただひとつ、笑みだけが柔らかに浮かんでいた。
――ヴァシリー・マルカヴィッチ。
彼の手元には、ふたつの顔写真が載った小さな紙片があった。
一枚は、くすんだ赤茶の髪に険しい目元をした少年――トラフィム。
その隣に並んでいたのは、淡いアイボリーの髪に、毛先だけわずかに灰がかった少年――ショウ。
「……うん、やっぱり、いたんだね」
写真を撫でるように指先でなぞりながら、ヴァシリーはくすくすと喉を鳴らす。
「ねぇ、可愛くなったと思わない?」
殺気も怒りもない。
ただ、陶酔した声。甘くねっとりとした喜悦が、彼の身体の奥底から滲んでいた。
「生きてたってだけで嬉しいのに……こんなふうに“見つけられる”なんて。ねぇ、これは贈り物だよね? 舞台に立つきっかけ、演目の再演、全部用意されてる!」
舞台板を、片手で軽く叩く。
ぽつり、ぽつりと木材が軋む音が、長く空席となった劇場に反響する。
「……殺す? そんなの、すぐにするわけないじゃない! ――せっかくまた会えたんだ。今度は、ちゃんと最後まで“遊ばないと”」
彼の声音には、終始一貫した“愉しみ”しかなかった。
怒りも、復讐も、正義もない。
あるのはただ、壊す快感への飢え――“終わり”への耽溺。
ヴァシリーはゆっくりと立ち上がると、劇場の中央へ進み、誰もいない観客席に向けて、深々とお辞儀をした。
「幕は上がったよ、トラフィム。次は、君の番だ」
そして、ゆっくりと微笑みながら、もう一歩、舞台の中央に出る。
「焦らないでいいよ。 ちゃんと舞台に上がっておいで。逃げる役じゃ、つまらないから」
そのとき、背後の出入り口が軋み、重たい足音と共にひとりの男が姿を現した。
黒い上着、首筋に無線のコード、手には折られた報告書の束。
「報告があります。監視対象の一部に民警内部の動きが……」
報告が終わる前に――ヴァシリーは写真をひらひらと手放し、まるで踊るような身振りでその男の手を無理やりつかんだ。
「うん、罠でしょ!? うれしいよねぇ、歓迎してくれてさ!」
そのまま舞台の上で、部下の腕を引いて、一歩、二歩と回る。
困惑する男の顔など気にもしない。
彼にとっては、それすら“演出のうち”だった。
「行くよ、当然!だってほら、せっかく“ぼくのために”舞台を作ってくれたのに、出ないなんて失礼すぎる!」
無理やり取らされたステップのまま、部下は呆然としながら振り回される。
しかしヴァシリーはすぐに腕を放すと、くるりとひとりで一回転してから、腰を折って深々と一礼した。
「遊びはね――終わらせるまでが、いちばん気持ちいいんだよ」
それは、祝祭のような台詞だった。
血塗られた舞台の上に立つ、道化の愉悦。
踵を返し、袖へと軽やかに歩きながら、ヴァシリーは振り向きもせず、ただひとことだけ、最後に言い添えた。
「……もう少しだけ、準備させてね。美味しくなるように、ちゃんと腐らせてから、いただくから」
夜の劇場には誰もいないはずだった。
だがその瞬間、確かに――誰かの拍手が、どこかで響いたような気がした。
最後まで読んでくださりありがとうございました。
なろうサイトに不慣れなので、もしタグ付けや、文章について至らないところがありましたらぜひ教えてくれたらと思います。
どんどん従兄が私の好みになっていく…大変だ…!




