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「熱視線、歯車の回る音」

※本編で出る描写はR-15程度になります。

※BL表現は心理描写がメインになります。

011.



 簡素なシャワールームを後にした二人は、どちらともなく脱衣所の片隅でタオルを手に取り、ぎこちなく身体を拭っていた。


 気まずい空気が、薄い蒸気の中に滲んでいる。


 


 トラフィムは、濡れた髪を乱雑にタオルで拭きながら、そっと隣を窺った。


 ショウは、さっぱりとした表情でタオルを首に掛け、簡素なパジャマに袖を通している。

 トラフィム自身も、グレーのスウェットに身を包み、無意識にタオルを肩に引っかけた。


 


 特に言葉を交わすこともなく、小さな共有リビングへ、自然と並んで移動する。



 そして、ほぼ同時に、ソファの端へ腰を下ろした。静かな夜の空気が、再び、ふたりの間を満たしていく。



 俯きがちにタオルを握りしめたまま、トラフィムはまだ顔を上げられずにいた。

 それを見たショウは、溜息をひとつ吐くと、何もなかったような声で言った。

 


 「……ほら、また髪、ちゃんと拭いてないぞ」



 そう言うと、隣に座ったトラフィムの頭に手を伸ばした。

 抵抗する暇もなく、タオル越しに、ふわりと優しく髪を撫でるように拭われる。



 (……なんで、こいつは、こんなに)



 あたたかくて、優しい。


 それが、たまらなく胸を締めつけた。


 頭皮を掻くように、軽くタオルが動くたび、遠い記憶が、ふと蘇る。


 

 かつて。

 あの男――従兄に、同じように髪を拭われたことがあった。


 優しく笑って、何も言わず、こうして世話を焼いてくれた。

 兄のように慕っていた存在。


 その手が、いつの間にか、家族を奪った手に変わったことが――どれほど恐ろしかったか。


 


 自分は、ずっと怒りだけを燃やしてきたと思っていた。

 けれど――違った。


 初めて目の前に立ったあの日、胸に走ったのは怒りじゃない。

 もっと冷たい、もっと原始的な。

 恐怖だった。



 (……俺は、怖かったんだ)


 


 小さく息を吐きながら、トラフィムはぽつりと口を開いた。



 「なあ、ショウ……」




 ショウは、髪を拭きながら、特に何も言わずに耳を傾けた。


 

 「……あいつさ、俺の……従兄なんだ」


 



 ぽつり、ぽつりと言葉が落ちる。


 止めようとしても、止まらなかった。


 


 タオル越しに頭を拭われる感覚が、どこか現実感を薄れさせる。

 まるで、幼い日の記憶の続きにいるような錯覚すら覚える。




「……親父の弟の息子。ちっさい頃に、あいつの親父が死んじまったから、うちで引き取って……だからマジで……兄貴、みたいな、さ」




 トラフィムは目を閉じる。

 浮かび上がるのは、遠い日の風景だった。

 小さな背丈で必死に追いかけた、大きな背中。


 夏の日差しの中、笑い合いながら並んで歩いた、家族のかたち。

 


「優しい兄貴だったよ。……周りのムードメーカーで、人望もあってさ」




 タオルが髪を撫でるたび、くすぐったいような、寂しいような感覚が胸を打った。


 拭われる髪の温度が、あの頃に重なった。


 


「……こうやって、あたま拭いてくれたことも、あった」



 少しだけ、喉が震えた。言葉を継ぐのが怖かった。

 けれど、それでも零れていった。



「なんでだろうなぁ……」




 声がかすれた。



「……なんで、あんなふうになっちまったんだろうな」




 堪えきれない思いが、滲み出る。

 憎しみよりも、悲しみよりも、何よりも――


 「分からない」ことが、いちばん怖かった。



 家族だと信じて疑わなかった。

 あんなにも笑っていた。

 あんなにも優しかった。


 それが、何の前触れもなく崩れた。

 理由も、説明も、何もないまま。



 ――なぜ、あの日、家族を殺したのか。




 問いかける相手は、もういない。


 いや、目の前にいたのに。

 それでも、あの赤い髪の男は、微笑むばかりだった。

 何も答えず、ただ、楽しそうに、玩具を転がすような目をして。



 トラフィムは、頭を垂れた。

 堪えるように、タオルをぎゅっと握った。




 ……こんなにも、脆かったのか、自分は。

 怒りだけで、前を向いていたつもりだった。


 けれど、あの目を見た瞬間に。

 それまで自分を支えていたはずのものが、音を立てて崩れた。




 ただ、怖かった。


 ただ、泣きたかった。



 そのすべてを、無理に押し込めて、ここまで歩いてきたのだと。

 今になってようやく、分かってしまった。



 ショウは、そんなトラフィムに何も言わなかった。

 タオルをそっと動かしながら、じっと黙って寄り添っていた。



 問い返しもしない。

 励ましもしない。


 ただ――静かに、ただ優しく、そこにいた。


 

 その無言の温もりが、どれほど救いだったか。


 トラフィム自身も、まだ気づいていなかった。

 静かな沈黙が、ふたりの間に落ちた。



 トラフィムは、項垂れたまま、もう何も言えなかった。

 掴んだタオルの端が、指先でぎゅっと縮こまっている。



 ショウは、そっと手を伸ばした。

 ためらいがちに、けれど、確かな動きで。


 タオル越しに、そっとトラフィムの頭を抱き寄せる。



 ふいの接触に、トラフィムの肩がわずかに跳ねた。 けれど、すぐに、すとんとショウの胸元に収まった。



 ショウは、ぎゅっと抱きしめはしない。


 ただ、タオルごしに包むように、静かにその背を支えた。

 


 「……教えてくれて、ありがとう」




 耳元で落ちた言葉は、低く、柔らかかった。

 トラフィムの喉が、小さく震える。



 ショウの体温が、タオル越しでもはっきりと伝わった。



 生ぬるい空気。

 浅く揺れる呼吸の音。


 ――このぬくもりに、甘えてはいけない。


 そんな理性の声が、微かに頭をよぎった。





 けれど、それよりも強く、心に染み込んでくるものがあった。




 ……この人は、俺の全部を聞いて、受け止めてくれた。

 何も言わず、拒絶せず、ただ、隣にいてくれた。


 


 


 胸の奥で、何かが音を立ててほどけていく。


 ひどく、怖かった。

 でも、それ以上に――


 温かかった。



 ショウの腕に縋るように、トラフィムは静かに目を閉じた。



 しばらく、ふたりはそのまま動かなかった。



 リビングの時計が、控えめな音で時を刻んでいる。

 それすらも遠くに感じるほど、世界はふたりだけのものになっていた。







 ぬくもりに包まれたまま、トラフィムは浅く呼吸を整えようとしていた。

 だが、どうしても、身体が言うことをきかない。


 

 柔らかなタオル越しに伝わるショウの体温。

 優しく撫でる手のひらの重さ。


 顔を寄せた先から、微かに香る、石鹸の匂い――。




 そのすべてが、じわじわと、心の奥を蝕んでいく。

 理性を削り、欲を煽る。




 (……やめろ、やめろ、こんな時に)



 必死で自制しようとしても、身体は正直だった。


 意識しないようにしていたのに。

 忘れようとしていたのに。



 ――また、あの“兆し”が、身体の中心から、にじみ始めていた。



 はじめは、じわりとした熱。


 けれどそれはすぐに確かな硬さへと変わり、トラフィムの脚の間に重苦しく広がっていった。



 (……っ、最悪だ)




 ショウの体温も、呼吸も、やさしい声も。

 すべてが、今の自分には毒だった。


 何とかして距離を取ろうと、トラフィムは身じろぎしかけた。


 

 けれど。


 


 


 その瞬間。

 ショウが、そっと。


 顔をタオル越しに、トラフィムの髪に、頬に、擦り寄せた。




 「……大丈夫だよ」



 低く、かすかな囁き。

 まるで、子どもをあやすみたいな、そんな声音で。



 心臓が跳ねた。

 脳まで真っ白に塗りつぶされる。


 トラフィムは耐えきれず、そっと膝を引き寄せるように身体を縮めた。



 だが、すぐにショウに気づかれた。




 「……ん? トラフィム?」



 心配そうにのぞき込んでくるショウ。

 その無防備な顔が、トドメだった。



 (やめろ、そんな顔すんな……)


 

 必死で目を伏せる。

 だけどもう、手遅れだった。


 

 タオル越しに密着していたショウの身体が、ぴたりと固まる。


 異変に、気づかれた。




 「……えっ……」



 そして、そっとショウの視線が、下へ向かった。

 次の瞬間。


 

 トラフィムは、真っ赤になって、ばっと身体を掴引き剥がした。

 無理やり身体を引き剥がすようにして、ソファから跳ね起きる。



 「ち、違う! これは違うから! べ、別に……おまえのせいとかじゃ、なくて……!」




 しどろもどろに言い訳をしながら、慌てて背を向ける。 肩まで真っ赤に染まった背中が、情けなく震えていた。


 ショウは呆気に取られたように、ぽかんと彼の背中を見つめ、次第に、困ったように眉を寄せた。


 微かな震えと、抱えた感情の熱。

 こんな空気じゃないはずなのに――


 どうして、という戸惑いが胸に滲む。


 

 けれど、トラフィムの「おまえのせいじゃない」という言葉に、それ以上何も追及しないと決めた。



 今は、これ以上何も言わせるべきじゃない。

 だから、そっと。



 「……大丈夫、何も言わなくていいから」


 


 静かに、けれどしっかりとした声で、

 トラフィムの背中に向かってそう落とした。



 それだけでよかった。


 


 トラフィムの肩は、かすかに震えたまま――

 けれど、ショウの言葉に押されるように、そっと力を抜いた。


 その直後、トラフィムは気まずそうに身を引き、

 そろそろとショウから距離を取った。



 残ったのは、微かな体温と、

 言葉にならなかった想いだけだった。







 部屋の灯りを最低限に落として、ショウ・アヴェリンはベッドに腰を下ろした。


 空気は既に夜の静けさをまとい、遠く廊下の方から小さな足音が聞こえるたびに、それが妙に遠く感じられる。

 トラフィムの姿は見えなかったが、シャワーのあと、無言で自室に戻っていったスウェットの背中が、今も目に焼きついていた。


 


 ショウは自分の寝巻きの上衣を、何度か胸元で握りしめては、ため息を吐いた。


 特に汗をかいたわけでもない。着替える理由などどこにもないのに、何となく、体にかかる布がひどく重く感じていた。



 (なんでだよ……)



 問うように、ひとり呟く。



 思い出すのは、たったさっきのこと。


 ショウの胸に、ぽそりと額を預けたトラフィム。湯上がりの濡れた髪が首筋をくすぐった。最初はただ、気遣いのつもりだった。話を聞いて、抱きしめた。それだけのはずだったのに。


 あの時――確かに、トラフィムの体は震えていた。



 けれど、それはただの恐怖でも、悲しみだけでもなかった。


 ……熱が、あった。



 ショウに向けていた、あの目。

 熱っぽい、逸らすこともできずに見上げてきた、あの視線。



 (……どういう意味だよ、あれ)




 ショウは、自分の手のひらをじっと見つめた。


 何も掴んでいないその手が、妙に熱を帯びている気がして、ベッドの縁にそっと置いた。



 筋肉質な自分の体なんて、やわらかくもないし、色っぽいわけでもない。

 それなのに――あんな目で見られた。



 女性からの好意を向けられたことは、過去に何度かある。

 けれど、それとは違った。



 もっと、真っすぐで。

 もっと、刺すようで。

 もっと……食われそうな、視線だった。




 (……あれは)



 昔、自分が初めて“撃ちたい”と思った時の気持ちに、どこか似ていた。

 狙いを定めて、逸らすことができないような感覚。


 まるで獲物を見る目だ、とさえ思った。



 ショウはもう一度、深く息を吐いた。


 まだ答えは出ない。

 けれど、確かにひとつだけ分かったことがあった。




 ――もう、ただの“相棒”じゃいられないかもしれない。


 胸の奥が、微かに熱かった。

 その熱を、今夜は抱えたまま、眠るしかなかった。

最後まで読んでくださりありがとうございました。

なろうサイトに不慣れなので、もしタグ付けや、文章について至らないところがありましたらぜひ教えてくれたらと思います。


これで一旦中休み回終了となります。 次回以降、新しいステップに進みつつの2人を描いていく予定です。

以降も引き続きよろしくお願いします!


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