表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

悪夢(後編)

「ギルバート」


 不覚にも少しぼんやりしていたようだ。主君の呼びかけにハッとして顔をあげる。同時に王宮にいる貴族達のざわめき声と海鳥の鳴き声が聞こえ、現実の音が鮮やかに戻ってきた。

 城のバルコニーから青い海を眺めているうちに自分の世界に入ってしまったようだ。主君であるエドワルド第一王子が不思議そうな顔で自分を見ている。職務中に私的な考え事をしてしまったことを恥じて、ギルバートは頭を垂れた。


「殿下、申し訳ありません。お声がけに気が付かなったことをお許しください」

「いや、特に用はないんだ。でも君が珍しく思い詰めている顔をしていたから、どうしたのかと思って」

「いえ殿下の御心を煩わせることはありません。お心遣いに感謝いたします」


 従者の顔に戻り、ギルバートが生真面目に答えるとエドワルドが申し訳なさそうに微笑んだ。


「エレオノーラのことが心配かい」

「はっ……いえ、そんなことは」

「いや、職務の為とはいえ新婚の君たちの仲を割くことになって申し訳ないと思っているよ。隣国……この国の王女との親睦を深める為だけど、君まで渡航につきあわせることになってしまったからね。君じゃなくて他の近衛騎士を連れていくべきだった」

「私は主君であるあなたに生涯仕えると誓った身。どこへでもついて行くことに変わりはありません」

「でもきっとエレオノーラも寂しがっているだろうね。せっかく一緒になったばかりなのに、君がひと月も隣国に行ってしまうと思うと彼女にも可哀想なことをした」

「屋敷にはハンナがおりますゆえ。大丈夫でしょう」


 なんでもないようにさらりと告げるが、彼女を思っていたのは事実だ。現に王宮から見える青い海を眺めていたのは、無意識のうちにこの海の向こうにいる彼女に思いを馳せていたからだろう。

 あれからまた長い年月が経ち、王子の近衛騎士となった彼は人間の体を手にしたエレオノーラと正式に夫婦めおととなった。そして彼は今主君であるエドワルドと共に隣国へ赴いていた。目的は王子と婚姻が決まっている王女との親交を深めるためだ。職務の為とはいえ、ひと月もエレオノーラを置いていくことに寂しさを感じないわけではない。

 ふと少年の頃に幾度となく見た夢のことが脳裏をよぎった。幼い頃からの想いを叶えた形になったが、こうも長い間彼女を目にしないと、エレオノーラとの生活がまるで一時の夢物語のように思えてくる。

 海の色を宿す彼女の美しい顔を思い浮かべながらギルバートはフイと窓から顔をそむけた。


 

 その晩夢を見た。

 昔から幾度となく見た久しい夢だ。 

 泉のほとりに人間の姿になったエレオノーラがいて、ギルバートを待っている。ゆるやかな海色の髪をなびかせ、青い深海色の瞳が真っすぐに自分を捉える。そして甘い声で誘われるように名前を呼ばれ、また睦み合いが始まるのだ。


(これは夢の中の出来事なのだろうか)


 夢と現実が溶けて混ざり合い、次第に曖昧になっていく。彼女への想いを心の底に封じ込めたあの日からエレオノーラの夢を見ることはなくなったはずなのだが、海を隔てて彼女と離れた生活を送るようになってから、また昔の夢を繰り返し見るようになった。

 目の前のエレオノーラが愛らしく微笑み、ギルバートの首に両手を回してくる。紆余曲折を経て人間の体を手に入れた彼女と無事に想いを遂げたはずなのだが、目の前の光景が夢のものなのか現実のものなのかわからなかった。

 むしろ夢に見る幸せな光景は、現実では手に入れることができなかった幻想だったはずだ。途端に見ているものすべてが恐ろしくなる。甘い世界から逃げるように無理矢理目を覚ました夜も少なくない。そして自分以外の熱を感じない冷たい寝台を見て微かな絶望を胸に抱くのだった。

 そして夜ごとに見る同じような夢は着実にギルバートをむしばんでいった。自分は本当にエレオノーラと暮らすようになったのかエドワルドに確かめたのも一度や二度ではない。口では肯定されるものの、海の向こうにいる彼女のこの目で見ない限り、ギルバートは自分を信じることができなかった。手紙を出そうとも思ったが、書いた手紙が海を渡り、彼女の言葉を乗せてまた海を渡る頃にはもう自分は国に帰ってしまっているだろう。

 海の向こうへの想いが強くなるたびに、悪夢は長く、鮮明になっていった。


 夢の中で彼女の髪に触れる。腕に抱く。キスをする。

 だがそれはただの幻影にすぎなかった。何の重さも柔らかさも感じない彼女の体がどんどんと現実の記憶を蝕んで上書きしていく。彼女の体を抱きしめなくなって久しい今、彼の手はエレオノーラの柔らかさを思い出すことができない。

 小柄な体を膝の上に乗せて抱き寄せながら、ギルバートは震える声で囁いた。


「お前は……本当に存在するのか?」


 だがその言葉を聞く前に、突如ぐらりと視界が歪んだ。


「ギル! 起きて」


 ハッとして起き上がると、視界が森の泉から暗い室内に戻る。だが夢から覚めたというのに、目の前の幻影は消えてはいなかった。


「エレオノーラ……?」


 膝立ちになり、床にふわりとナイトドレスの裾を広げたエレオノーラが寄り添うようにギルバートの肩に手を置いて揺さぶっている。間近で見る彼女の顔は今にも泣きそうで、大きな瞳が不安で揺れていた。腕枕をしていない方の手で目と鼻の先にいる彼女の頬に触れると、大きな青い瞳から大粒の涙がこぼれる。そこには確かな熱と柔らかさがあった。


「これは夢なのか? なぜお前がここに……」


 寝台から身を起こして指で涙を拭ってやると、涙に濡れた青い瞳が真っ直ぐにこちらを見上げる。


「ひと月も離れ離れになるのは可哀想だからとエドワルド様が商船を手配してくれたの。私もギルに会いたかったからもちろんすぐに行くことにしたわ。でも王宮についてこの部屋を案内してもらったらギルがとても苦しそうにうなされていたから」

「それでそんな顔をしているのか」

「そうよ。だってシーツもこんなに強く握っていて、ずっと何かに耐えてるような感じだったんだもの。このままギルがどこかに連れて行かれるんじゃないかと思って私すごく怖かったの」


 そう言ってエレオノーラが声を詰まらせる。


「ギル、辛いことがあるなら言って。苦しいことがあったら私にも背負わせて。ギルが辛そうだと私も苦しいの。あなたは昔から顔に出さないように何もかも我慢する人だから」

「……お前がそんなところまで見ていたとはな」

「私だってずっとエドワルド様のことだけ見てきたわけじゃないわ。ギルのことだって小さい頃から知っているんだから」


 彼女の言葉が染み入るようにじわりと心に入ってくる。目元に涙をためながらむくれたように頬をふくらませる彼女がどうしようもなく可愛くて。

 胸の奥から溢れ出す愛おしさに身を任せるように、エレオノーラの体を力強く抱きしめて衝動的に唇を塞いだ。

 大きな青い瞳が驚愕に見開かれる。だがもう歯止めはきかなかった。エレオノーラの細い手首を掴んだまま、もう片方の手で後頭部を支えてさらに深く押し付けた。一分の隙もなく密着した唇の柔らかさに震えるほどの愛おしさがこみあげる。ここ数日間、いや幼い頃からずっと切望していたものだ。少し力を入れれば壊れてしまいそうなほどに柔らかな感触は、自分の手の中にいる彼女が現実のものだと教えてくれた。

 唇を離して顔をあげると、下から真っ赤になった彼女の顔が現れる。


「不意打ちのキスなんて反則だわ」

「何を今更。初めてでもないだろうに」

「だってギルはいつも生真面目で怖い顔をしているお堅い騎士様なのよ。こんな熱いキスをされるなんて思わないじゃない。それにギ、ギルったらその、裸だもの……」


 両手で自分の顔を抱えながらエレオノーラがドギマギとうつむく。


「ギルが寝る時に裸になることを知っていても、いまだにドキッとしてしまうわ」

「そろそろ一人寝が辛くなってきたところだ。お前が来てくれてよかった」


 言いながらエレオノーラの細い腰に手を回してするりと腕の中に閉じ込める。頬を染めながらもほのかに期待の色を宿す彼女は、幼い頃のお転婆な少女と違ってすっかり大人の色香をまとっていた。

 繰り返しキスを落としながら腰を支えて優しくベッドに横たえると、エレオノーラがふふっと小さく笑った。


「私、結婚してからの方がギルにドキドキしている気がするの」


 白いシーツの上に波のように青い髪が広がる。彼女の顔の横に腕をついてもう一度柔らかな唇に溺れると、エレオノーラの手が伸びてきてぎゅっと首の後ろを抱きしめてくれる。二人で互いに口づけを交わしながら、ギルバートはナイトドレスの紐に手をかけた。

 途切れることない衣擦れの音が静かな部屋に響いている。自分の手の中で徐々に熱を帯びていく肌も、抱きしめる腕にかかる重みも、それは確かに現実として存在するものだった。

 互いの体温が溶け合って徐々に同じ温度になっていく。夢で見るだけの空虚な幻影は、もう鮮やかな感覚としてギルバートの手の中にあった。


(ああ……やっと手に入れることができた)


 多幸感の中で結ばれながら頭の片隅でぼんやりと思う。記憶の中にある孤独な少年が遠くで笑ったような気がした。







「指輪を買おう」


 エレオノーラの小柄な体を腕に抱き、彼女のほっそりした手に触れながらギルバートが呟いた。彼の胸板に頬を埋めていたエレオノーラが不思議そうな顔をして見上げてくる。


「指輪? どうして?」

「互いに揃いの指輪をつけることで夫婦の証とするんだ。貴族だけではない。市井の者達もそうする」

「そうなの。とっても素敵ね」


 嬉しそうに笑う彼女の左手を取り、薬指を優しくなぞる。国に帰ったら早速この手に似合う指輪を用意しよう。もう二度と夢に惑わされぬように。離れていても彼女の存在を確かなものと感じられるように。


 夜に一人で目覚めても、その手に輝く証が夢に見た幻想を現実のものと教えてくれるから。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] お邪魔します!わーっめちゃエモでした…!!(;ω;)某所ではあんまり上手に書けなかったみたいに仰ってましたが、花さんが好きってことは私も大抵SUKIなので心配していませんでしたよ♡そして実…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ