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悪魔(前編)

 ――夜を迎えるのが怖かった。


 屋敷の広い庭の隅で、幼い頃の自分が剣を振っている。鮮やかな花々に満ちた庭園と白壁の屋敷は、まるでおとぎ話に出てくるお城のようだ。明るい日差しが手に持つ剣の刃をきらめかせ、腕の動きにあわせて銀の軌跡を作った。


「今日も稽古に励んでいるのか、感心だな」


 突如背後から声をかけられて振り向くと、自分とよく似た顔立ちの男が口元に笑みを称えながら立っていた。湿った大地の色をした髪と灰色の瞳。近衛騎士の服を身にまとった背の高い壮年の男が自分を見下ろしている。彼が剣の稽古を行う自分をわざわざ見に来てくれたのかと思うと、自然と顔がほころんだ。


「父上」

「だがその振り方は良くない。どれ、私が教えてやろう」


 そう言って父が自分の背後から手を伸ばして剣を掴む手ごと握ってくれる。自分の小さな手をすっぽりと覆い隠してしまうくらいに大きい手だ。父が直々に稽古をつけてくれることに高揚して胸が熱くなる。自分は期待をかけられた跡取り。そしてゆくゆくは家名を背負い、王族の身を守る盾となるのだ。その誇りと自信で、自然と剣を握る手に力がこもる。


「お前はこの家の希望だ。よく励んでくれ」


 頭上からあたたかな声が降ってくる。その言葉に「はい」と力強く返事をしたとたん――




 目の前には白い天井があった。その瞬間、明るい日差しに照らされた庭園も、穏やかな父親の姿も瞬時に消え失せ、あるのはしんと静まり返った空気と窓から差し込む月明りだけだ。ベッドから半身を起こした年端もいかぬ少年の姿が窓ガラスに反射して映っている。夢から覚めたことに気づいたとたん、絶望が鋭い痛みとなって胸を貫いた。

 夢に見るのは、決まって幸せな日々を過ごす自分の姿だ。夢の中の自分は父に愛され、期待をかけられ、愛情をたくさん注がれている。それは現実では起こりえなかった光景だった。冷たいベッドで一人寂しく寝る少年は、父に疎まれ、継母にも憎まれ、そして期待もかけられぬ忘れ去られた子供だった。父が剣の稽古をつけてくれたことさえ一度もなかった。

 辛い境遇から自分の心を守る為なのだろうか。自分が夜毎に見る夢は、現実とは正反対の幸せな自分の光景だ。だが夢の中の自分が感じた喜びや嬉しさは、目が覚めた瞬間に霧散して消え失せてしまう。


 夢を見るのは嫌いだ。

 望んでも決して手に入れられないものの大きさを知ってしまうから。



----


 自分の置かれた境遇については、半ばあきらめに近い気持ちで受け入れていた。何百年も続く名門貴族の家に生まれ、後継ぎとして育てられたものの、母親が市井の人間というだけで他の貴族達からは蔑んだ目で見られる。その後父の正妻が貴族の血を引く正式な後継ぎをもうけたことで、自分は本格的にいらない存在になってしまった。

 だが父を恨む気持ちはなかった。貴族は血筋や栄誉を何よりも重視する。名門貴族の令嬢である正妻が子宝に恵まれなかったことで、あの家は存続の危機に陥っていると父もずいぶん陰口を叩かれたようだ。一刻も早く体裁を整える為に、しきたりや手続きが面倒な貴族の家から第二夫人をめとるより先に手っ取り早く市井の女に手をつけたのも仕方がないことだったと言えよう。あの時の父は、とりあえず自分の血を引く子供が欲しかったのだ。

 父からの愛が向けられることはなかったが、それでも幼いころは亡くなった母親や、乳母であるハンナが自分を愛してくれたので自分の心は守られた。だから年齢を重ねるにつれ、このまがい物の幸せを夢に見ることはなくなっていった。

 代わりに見るようになったのは、とある少女の夢だった。




「ギル、今日も来てくれたのね」


 森の奥深くにある小さな泉。 木々の間に隠れるようにして存在するその泉には、一人の人魚の女の子がいた。海色のふわふわした髪に青い深海色の瞳。ギルバートが泉に足を運ぶと、エレオノーラは泉のほとりに腰かけて、美しいさくら貝の色をした尾ひれの先を水面でパシャパシャと遊ばせていた。歳は自分よりも四つか五つは下だろう。まだ幼いあどけなさを残す愛らしい顔が、ギルバートの姿を見つけるとパッと輝いた。


「今日もエドワルド様はいないの? 私エドワルド様にもお会いしたいのに」

「殿下はお忙しいって言っただろ。それに、王子は簡単に外出できないんだよ」


 ぶっきらぼうに告げてエレオノーラの隣に腰かけると、エレオノーラは唇をとがらせて「ふーん」とつぶやいた。地面の上に両手をつき、水面の上で跳ねる自分の尾ひれを眺めている。伏せられた長いまつ毛が白い肌に影を落とし、ふっくりとした柔らかそうなほっぺたは淡い薔薇の色だ。思わず触れてしまいそうになり、持ち上げかけた手を拳を握ることで制した。

 この思いを彼女に告げたところで、自分と彼女が結ばれることはない。貴族という身分である自分には子をもうける義務があり、ゆえに人魚である彼女と添い遂げることはできないからだ。たったひとつ自分が望んだものすら、十五の少年は手にすることができなかった。胸を刺す空虚な痛みを感じながらギルバートはふいと目をそらす。


「ギル、なんだか元気がなさそうね。どうしたの?」


 だがそんな自分の気持ちには気づかないエレオノーラは、無邪気にすり寄ってきて肩をぴたりと寄せてくる。触れ合う肌がひどく熱い。今朝見た夢のことは顔に出さないようにしていたのだが、長い付き合いだからか彼女はよく自分の異変に気づくのだ。そこがまたいじらしくもあり、そして手に入れられないものへの空虚さを感じる瞬間でもあった。

 地面に置かれた手の甲を柔らかい髪がくすぐる。その心地よい感触から逃げるように手を引きながらギルバートはフイと横を向いた。


「別に何もねぇよ。それよりお前は殿下に会って何がしたいんだ」

「それはもちろん、エドワルド様に告白するためよ! 今日こそ私の気持ちを知ってもらうんだから」 


 いつか恋が叶うことを夢見る彼女の瞳はいつも希望に輝いている。世間を知らない彼女のことを能天気と笑うことはできなかった。自分以外の誰かを想いながら湖面を見つめる横顔は愛らしく、胸がぎゅっと掴まれたように苦しくなる。

 彼女の視線の先にいる人物が羨ましくないわけではない。湖面を見つめる彼女の頬に手を添えて、自分の方に振り向かせることができたらどんなに良いだろうか。いっそのこと自分に寄り添う彼女の腰を抱いて、ずっとこの腕に閉じ込めてしまえたらどんなに幸せなのだろう。頭の中にそんな光景が浮かんではぱちりぱちりと泡のように消えていく。


「何回告白しても結果は同じだろ。いい加減諦めろよ」

「どうしてそんな意地悪を言うの? 何回も好きだと伝えていたら、いつか答えてくれることもあるじゃない」


 ふくふくのほっぺたを膨らませながらエレオノーラが憤慨する。やっとこちらを向いた青い瞳に映る自分はどんな顔をしているのだろう。

 ぐっと唇の端を噛み、彼女の顔を見ないようにしながらギルバートは地面から立ち上がった。


「答えられるわけないだろ……人魚は人間と結婚できないんだから」


 それは彼女に言ったのか自分に言った言葉なのかはわからなかった。彼女の顔を見ないようにして振り返らずにその場を立ち去る。

 自分の背中を見つめるエレオノーラの顔を、彼は見ることができなかった。




 その晩、夢を見た。

 泉のほとりに、いつものようにエレオノーラが座っている。尾ひれの先を水面で遊ばせながら、物憂げな表情で木漏れ日が照らす泉の水面を眺めていた。だがいつもの明るい表情とは裏腹に、その顔は憂いに満ちている。


「……エドワルド様がね、私のことなんか好きじゃないって言うの」


 悲しげな声でエレオノーラが告げる。その大きな深青の瞳から大粒の涙が一粒零れ落ちた。


「エドワルド様は人魚なんて興味がないんですって。私の気持ちには答えられないから、もう泉に来るのはやめにするみたいなの。私そんなの嫌だわ」


 小さな両手で顔を覆いながらエレオノーラがさめざめと泣く。その痛ましい姿に、胸がぎりぎりと締め付けられた。好いた女の子が泣いている。それも、自分とは違う男を思いながら。

 そう思った瞬間、体内から大きな衝動がつきあがってくるのを感じた。咄嗟にエレオノーラの手を取り、指を絡めて強く握りしめる。エレオノーラが驚いたように目を丸くするが、構わずに抱き寄せた。


「俺じゃ駄目なのか、エレオノーラ。俺ならお前を一人にしない」


 鼻先が触れ合いそうな距離で懇願する。自分の気持ちを口にしたのは生まれて初めてだった。


「ずっとお前を見てきた。誰にも取られたくない。誰かに奪われるくらいなら俺がもらう」

「ギル……でも人間と人魚は結婚できないのよ」

「結婚する必要なんてない。側にいてくれるだけでいいんだ。俺は誰とも結婚したくない」

「だめよギル! そんなことをしたら跡継ぎができなくなっちゃうじゃないの! きっとエドワルド様だって悲しむわ」

「お前を手に入れられるなら、何もかも全部捨ててやるよ!」


 吐き捨てるように叫び、小さな体を抱き寄せて噛みつくようにキスをする。自分を制する声が聞こえたが、聞きたくないとばかりに夢中で唇を塞いだ。決壊したかのように封じ込めていた想いが溢れ出て理性に歯止めが効かなくなる。

 

「俺のことを見てくれ。愛してくれよ。殿下のことは俺が忘れさせてやるから」


 震える声で懇願する。だが、その瞬間に目が覚めた。視界が一変し、そこにあるのは冷たい寝台と静まり返った闇だけだ。

 寝台から起き上がり、今しがた彼女に押し付けていた自身の唇に手を触れる。夢の中では確かに彼女を腕に抱いたのに、柔らかな肌の滑らかさも、体の熱も、甘い唇の感触も何も残っていなかった。

 苦しい息を吐きながらギルバートは両手で顔を覆った。主君の存在をないがしろにして、自分の身勝手な願望に身を任せる。わざと目をそむけていた自身の後ろ暗い願望に気づきたくなどなかった。


「くそっ……あんな夢見たくなかった」


 現実は残酷だ。夢が見せてくれる甘い光景は、現実では決して手に入らないものだから。主君に不敬な言葉を吐き、王子からの信頼を裏切るなんてことを幼い頃から従属関係を叩きこまれてきた自分ができるはずもない。

 せめてこの夢を現実のものと錯覚したかったが、何の熱も感じられない睦み合いは、記憶にすらなりえなかった。





 月日を重ね、少年は青年になった。背はうんと伸び、剣を握る手も太くて逞しいものになった。

 だが自身の体が大人に近づいていくにあわせて、エレオノーラも花が開くように年月とともに可憐に美しくなっていく。少女の肌は日ごとに艶を増し、柔らかな胸元とほっそりした美しい線を描く柳腰は否が応でも目に入った。そして彼女への想いを強く自覚する度に必ず逢瀬の夢を見るようになった。


「ギル、今日も来てくれたのね。待ってたのよ」


 泉のほとりに腰掛けながら、エレオノーラが愛らしい笑みを向ける。彼女の隣に腰掛けると、エレオノーラが嬉しそうな表情でするりと腕を絡めてきた。

 その頃にはもう夢を夢と認識するようになっていた。夢の中に出てくるエレオノーラはギルバートにわかりやすい好意を向けてくれた。それが自身の願望から来るものだと知っていたが、そのまがい物の幻影にすら喜びと愛おしさを感じてしまう。


「ギル、キスして」


 腕を絡めてピタリとくっつきながらエレオノーラが甘えるように上目遣いで見上げてくる。その声に誘われるがままに、ギルバートは実態のない口づけをその唇に落とした。

 甘い吐息がギルバートの耳朶を震わせる。男を惑わすような微かな息遣いは、現実の彼女からは聞いたことがない声だった。おそらく先日たしなみとして行かされた娼館で聞いた声が脳裏に残っていたのだろう。これは現実などではない。頭ではわかっているはずなのに、奥底に眠っていた願望と絡んで夢はどんどんとまがい物の世界を見せつけてくる。


「エレオノーラ」

 

 震える声で呼びかけると、ふいとエレオノーラが顔をあげた。なかば熱に浮かされたような恍惚とした表情は蠱惑的で、いつもよりも艶めかしく見えた。

 思わず彼女の頬に手を添えると、目を伏せて手の中に頭を預けてくる。このまま欲望に身を任せてはいけない、と胸の内から警鐘を鳴らす音が聞こえたが、自身の本音とは裏腹に目の前のエレオノーラは甘えるようにギルバートの肩に両腕を回してきた。

 

「ギル、私をあなたのものにしてほしいの」


 両腕を首に絡めて可愛らしく笑いながらエレオノーラが囁く。違う。彼女はこんなことを言わない。理性ではわかっているはずなのに、胸の奥底で切望していた光景がギルバートを惑わせる。鮮やかな唇の赤さが酷く眩しく目に映った。

 堪えきれずに目の前の体を力強く抱き寄せる。視界には自分の腕の中で目を閉じる彼女がいるのに、まるで空気を抱いているかのように実体がなかった。やっと思いが叶ったのに、腕には髪の一筋の実感もない。エレオノーラに触れても、それはまるで空気を掴んでいるのと同義だった。

 少しでも彼女の熱を自分のものにしたくて、ひたすらに名前を呼びながら美しい肢体に触れていく。だがどこまでいってもそれは幻影にしかすぎなかった。キスをねだるエレオノーラの手を掴んで柔らかな草の上に引き倒し、彼女の上に馬乗りになる。やめろ。とどこかで引き止める声がした。だが見下ろした彼女の微笑んだ顔はどこまでも愛らしくて。

 抱き寄せた体には何の熱も宿らない。白い肌の柔らかさも、甘い髪の香りも手や唇に感じることはなかった。微かな実感を求めて求めれば求めるほど絶望の海に沈んでいく。狂おしいほどの恋心に溺れて窒息してしまいそうだった。頭の中で鳴る警鐘が遠くに聞こえる。だがもう彼は想い人に触れる手を止めることができなかった。



 暗闇の中、寝台から半身を起こした彼は両手で頭を抱えた。雪の降る季節だというのにふきだした汗がしっとりと肌を湿らせ、荒い呼吸と共に心臓が早鐘を打つ。


 ――夢に殺されそうだ。


 繰り返し同じ夢を見るたびに望んでも決して手に入れられないものの大きさを知っていく。もう自分自身の気持ちが止められないところまで来ているのは一目瞭然だった。シーツの下の半身に伝わる不快な違和感の正体は見なくてもわかる。自分の想いはもうここまで来てしまっているのだ。人魚である彼女とは生涯結ばれることはないとわかっているはずなのに。

 裸体のまま寝台から降りて部屋の隅にある簡易な洗面台へ行く。精巧なガラス細工の水差しを手に取り、ぶちまけるようにして冷水を浴びた。顔をあげ、鏡に映る自分と向き合って現実を直視する。


 ――彼女への気持ちは捨てよう。今ここで。


 ぽたぽたと頬からしたたり落ちる水滴の音が闇に響く。それは胸の内が流した涙の音にも聞こえた。


挿絵(By みてみん)


illustration:MACK様(https://twitter.com/cyocorune)

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