64. 竜の覚醒者
空を駆け、風を切り……風向きさえ支配する……。地上の制約から解放された、人の体では得られない超越感。
だが……この感覚には、いつまで経っても慣れない。異様に研ぎ澄まされた五感に処理が追い付かず、次第に自我が薄れていく……。
視覚は不要な色を排除して……眼下に広がる灰色の世界には、両翼を広げた自身の影が映る……。
そして、そのはるか向こうに伸びる地平線は、黒針林の樹海に黒々と染められたいた。
初めて竜となった日を思い出す。
樹海の奥で魔物狩りに明け暮れていた日々。常に、理由のない鬱憤と、怒りが心を占めていたあの頃。
それを発散するように、魔物狩りに興じていた。その巨体を切り裂き、群れを蹂躙しながら、圧倒的な征服感と高揚感に浸って……。
ある時、気が付くと、ひとり樹海の最深部にいた。
誰も辿り着いた事のない、もしくは目にして生きて帰ることは無いと言われた最深部……、空間を裂く巨大な亀裂を目の当たりにして、そこがそうであると悟る。
亀裂から覗く、異形の動植物の蠢く悍ましい世界。そこからどす黒く、時に鈍い赤色の光りを放つ瘴気が湧いていた。
怖くは無かった。むしろ畏敬の美しさを感じ、ゆっくりとその亀裂に手を伸ばしたその瞬間、ひづみが拡大し、膨大な瘴気が噴出した。眼前で突如発生した瘴気の異常発生。
一瞬で濃い瘴気に身を覆われて、息も出来ず、それは皮膚を侵食し、全身を喰われていくような、強烈な錯覚に陥った。
生まれて初めて味わう恐怖だった。叫び声を上げるも、その叫びは耳にも届かず、肉体が崩壊していく……。
目を開くと……全てが変わっていた。
人の時のそれとは違う視界に覆われて……感覚は何千倍にも増幅し、膨大な情報が聴覚・嗅覚・皮膚感覚を刺激し、頭に雪崩込んでくる。
全身は鱗に覆われて、指先には鋭利な鉤爪が鈍く光る……一歩踏み出すたびに、木々が揺れ、地が鳴った。
死んで、魔物になったと思った。
黒と灰色の世界で、眼前を横切った紫色の物体を反射的に掴み上げ、跳躍すると、身体はどこまでも高く舞い上がった。
手の中には巨大なはずの魔物が、まるでネズミのようにのたうっていた。
それを地面に叩きつけ、踏み潰し……次々に魔物をとらえては、爪で引きちぎり、上空から投げ捨てた。
何の感情も抱かぬまま、ただ本能に突き動かされるように……やがて血に染められた視界の中で、訪れた暗闇……思考は途絶え……目を覚ました時には、青空が広がっていた……。
だが……身体を起こし、周囲に拡がる魔物の死の残骸と、薙ぎ倒された巨木を見て、それが夢では無いと知る。
遠い昔に失われたはずの、竜人族の真髄たる能力。
ー竜化ー
それが我が身に起きた事実だと認識すると同時に……自分は人の皮を被った魔物なのだと、竜となった姿こそが本来あるべき姿なのだと気付いた……。
一度覚醒してしまえば、あとは簡単だった。
呼吸を止め、周囲の魔素を皮膚から取り込み、一部でも全身でも、大きささえ自在に変化させ……人智を超える力を得た。
だが、この力は……諸刃の剣だ……力と引き換えに……感情は薄れ、思考は鈍くなっていく。
……一旦思考を手放せば、ただ本能のまま、動くものに襲いかかり、力尽きるまで荒れ狂うだろう。
一つの意志を強固に胸に抱きながら、ただ感覚だけを研ぎ澄ます。
去った方角が確かであれば、大陸の南西に絞り込めた。
その時、風に乗って……鮮烈な香りが鼻腔を刺激し、脳髄を震わせた。
瞬間、身体が沸騰するように湧き滾るも、その興奮を必死に堪え……速度を増して、樹海の縁を突き進む。
飛行は風を生み、黒針林の木々が漆黒の海のように波立つと、屍喰鳥が飛び立ち、魔物の咆哮が後を追う。
やがて樹海を過ぎて拡がる不毛の大地……、鼻腔を刺激するその香りが増幅する。
魔素を解き放ち、人となって、地に降り立つ。
砂埃の舞う中……目の前には、この荒地にそぐわない秀麗な屋敷が、異様な静けさを纏って存在した。
『ルミッ!』
思わず、その名を呼び、屋敷に駆け込む……充満する不快な臭いに阻まれながら……先程、感覚器官を震わせたその香りを、必死に探る。
広間の食卓には、美しく盛り付けられた食事が、手をつけられる事なく腐っていた。
そしてそれとは違う、馴染みのある異臭の根源……暖炉の前に置かれたソファには、乾いた血の染みが広がっていた。
その染みは、広間の扉のさらに奥へと続いている。
『一体、何があった……』
その血の跡を追い、階段を駆け上がった先……扉を開けたその瞬間、清涼な空気が身体を満たす。
この香りだ! 間違いない! 彼女の神性の……その残香が胸をうち震わせる。
ここに……ここに、ルミがいた……。
その香りは、最愛のその人の姿を鮮明に脳裏に甦らせた。
精人族が、神性を使えば必ず固有の匂いが残される……ルミの神性は雨上がりの深い森の香りがした。
あの時……温室で、ユリスの枝を切ったルミ。だが、どの枝も切られた跡はなく、彼女の籠にあったと同じ花の鉢は、一際、見事な樹勢を誇っていた。
その周辺に残された、異質の香り……清涼で神秘的なその香りが……ルミの神性固有のものだとすぐに気が付いた。
治癒と障壁を作るだけだと思っていたが、植物の再生までできるとは……。
それが普通なのか、特殊なものかは分からないが、尋ねるつもりはなかった。
そして……ルミの部屋に活けられたユリスの花は、永遠の命を得たように枯れる事なく美しく咲き続け……だがやがて部屋の主を失うと……それも無惨に枯れ果てて……今はその花器の周囲に、ルミの神性だけが薄く残されていた。
そして今、この部屋を満たす……迷うごとなき同一の香り。
一切の生物の気配を感じない、この空間で……それだけが、確かな生を感じさせた。
寝台に向けて足を踏み出すも、足元のそれを目にして、身体が強張る。
この古風な屋敷にはそぐわない、新品の花模様の敷物。
その中央に残された……血だまりの跡。
追い求め続けた答えがそこにはあった。
手を伸ばし、その乾き切った血のざらつきを指先に感じながら……そこから発せられる、強烈な神性の残香を吸い込み肺を満たす。
これは……お前の血ではない。
この怪我を負った者を、その神性で救ったに違いない。
『ルミ……お前は生きている』
その言葉が、あの日から延々と続く苦悩と恐怖の波間に、一石を投じた……。
必死に張り詰めていた緊張は、打ち寄せた感情の飛沫にあっけなく崩壊し……大粒の涙が溢れ、滴り落ちる。
この大陸で……お前は生きている。
それだけでいい……。
あの日、お前の不明の報せを受けて、部屋に駆け込んだ俺は…………真っ先にバルコニーの柵から下を見下ろした。
あの時、頭に浮かんだのは、身を投げ、血溜まりの中に横たわるお前の姿……。
全身が恐怖に震えた……そして心から安堵した……。
そう。ルミ……お前は、生きてさえいればいい。
願わくば、どうか俺を忘れないでくれ。
その美しさが損なわれようが……例え五体満足でなくとも……ただ生きて俺を覚えてさえいればいい。
必ず……お前に辿り着く。どうか、それまで……待っていてくれ……。
開いた窓から、陽が差し込んで、空中で光の粒が微細に煌めく……それは、彼女の残した神性の痕跡か、ただの塵か分からない。掴み取ろうと宙を掻くも、手の中には何も残らない……。
最愛の存在を失ってから感じる、惨めな無力感……。眠ることさえ出来ず、何も手につかず、全てを捜索に費やした。寝ずとも食べずとも平気だった。竜人族の元来の身体の頑丈さにこれほど感謝したことはない。
だが精神は違った……堅牢と思った壁が、まるで脆い泥砂で固めたものであったように、瓦解の音が聞こえる。
このまま、その存在を手にする事が叶わなければ……それはそう遠く無い未来、完全に崩壊するだろう事は、明白だった。




