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60. 皇太子side. 想定外の結末

午前の執務を終えてペンを置き、一冊の本に手を伸ばす。

『最果ての西域紀行』……それは紀行文としてはあまりに名の知れたものであり、嗜みとして目を通したことがあった。

だが過度に修飾された文章に辟易し、殊更に異文化の差異をあげつらった野蛮の地の説明文に、退屈を感じた覚えがあるが……。


ーーこことは様相の異なる動植物群と、異文化の民たち。料理からその生き様まで……とても美しい言葉で綴られて。まるでその地の香りまで感じられるような……素晴らしい書籍ですーー


本を開き、彼女の言葉を一字一句思い出しながら、読み進める……。

記憶に残る文章が……かつて義務的に読み進めたとは思えないほど、魅力的に感じられる。

そこに描かれる料理を彼女と味わい、地に咲く花を共に愛でる。まるで、本の中を旅するように……そこで彼女は常に笑顔だった。


この数日間、彼女との対話は、度々こちらの感情を刺激した。

好みを尋ねても、頑なに遠慮の姿勢を崩さぬ事に苛立ちを覚え、ふとした拍子に垣間見える飾らぬ本音に、心を打たれた。

好きな本について、熱心に説明してくれた、あの時……初めて彼女と『会話』した。

あのひと時、彼女は我を忘れたように……愉しげに言葉を紡いだ。

あれほど人の言葉に聞き入ったのは初めてだった。

永遠にその声を聞いていたかった。

にも関わらず……胸に熱いものが込み上げて、目頭に痛みを感じ……堪えきれず席を立ち、その場を後にした。


彼女は……私に(へりくだ)りながらも、決して迎合しない。

そして素直だ。

だからこそ、あの言葉は気に障った。


ーー誠実な方だと思いますーー


女が竜王へ与えたその評価。

それは正当な評価だろうか?

粗野で粗暴で……他者への気遣いなど皆無の男。

自身が法であるかのように振る舞い、気分次第で残虐に断罪する、無慈悲な若き独裁者が。

今まで、実際にあの男を目の当たりにする度に、その評判や噂が事実である事を確信してきたが……あの女に『誠実』と言わしめた。心を開かせ、自身を愛するように仕向けたのだ。

竜王が女にかけた、その呪い。

今の自分では、その呪縛を解くに到底及ばない事は明らかだった。

日を追っても、女は頑なな態度を貫き、竜の国へ帰る事を切望するように、同じ質問を繰り返す。


「……ここを立つのは、いつ頃になりますか?」


その質問を受けるたびに焦りが募った。

手札はいくつもあり、水面下で進む全てが順調でありながら、不安は拭えなかった。

時間も会話も、まだまだ足りない。


もう間も無く、いつもの時間を迎え……彼女の部屋を訪れる。

回を重ねても変わらず、その時が近づくほど、鼓動は早まり、体が熱を帯びた。


本から目を離し、窓の外の青く澄んだ空に目を向けたその時、従者が報せをもたらした。

それは彼女との関係に、緩やかな変化を迎える吉報だった。

既に準備は充分に整えられ、後は自身の判断と行動に委ねられていた。


昼下がりの熱気を帯びた庭園の、2区画ほど先を、軽やかな足取りで進む彼女の後ろ姿を見つめながら……同じ歩幅でゆっくりと進んで行く。

低木の細道を過ぎると、案の定、彼女はその小屋の前で足を止めた。

付き添う召使達が、こちらに気づき一様に首を垂れる。

従者から籠を受け取り、召使達を連れ立ち去るよう、静かに指示する。

女は周囲の様子に気を取られる事もなく、幼い子供のようにしゃがみ込み、柵の中の動物達に手を伸ばしていた。


「あなた達、なぜここにいるの?」

その無邪気な問いかけに、思わず笑む。

「飼っている」

振り向き立ち上がったその顔は見る間に青ざめて……近づくと、身を縮め固く目を閉じた。


息遣いが聞こえる程の距離……明るい陽光に晒されたその姿を眺める。

よく手入れされ、艶を増した髪。肌は明るく、頬は赤みを帯びて柔らかな曲線を描く。

数日前にあの屋敷で目にした、疲労感と暗い翳りは痕跡も無く消えていた。

極めて満足な姿だった……その態度以外は……。


ため息をつき、小屋の戸を開ける。


地面に降ろした籠の蓋を開け、鼻先を震わしたラピオの身体を掬い上げると、瞬間、その体温が手の平に伝わる。

狩りで射止めた獲物の、硬直し冷えきった体とはまるで違う、熱と柔らかさ。

思わずその白い毛並みを撫でる。その手触りは、あの日寝台で握り合った手に絡んだ、絹糸のような髪を思わせた。


「ここで、飼っている」


「皇太子様が……ですか?……狩りのため、ですか?」


縋るように問いかけるその様に、不快は感じない。


「お前が考えているようなものではない。ただ、飼っているんだ」


未だ不安気なその表情。


「しょ、食料になるのですか?」


唐突に飛び出したその質問に、憤りを超え、呆れ返る。

この女は、無邪気に無礼だ。……この私が、家畜の世話に来たとでも思っているのか?


ただ、自分の目が届く範囲に、この女が心癒される場所を作ってやりたかった。それだけだった。

これが贈り物だということに気づきもしない。この女は鈍過ぎる……若干の憎らしさが芽生えた。

向き合い、その目を見下ろす。


「お前は、私を何だと思っている……」


青い瞳を縁取るまつ毛が微細に震え、ヘタリと折れると、完全に閉じられた瞼の下に、その瞳が隠された。

ため息を吐く。

この女は、不安や恐怖を感じると、目を閉じる……。

それは本能的なものに違いないが、繋がりを遮断されるようで、気分が悪い。


「鍵はかけていない。好きなら、いつでもここに来ればいい」


ゆっくりと目が開かれるも、未だ不審にこちらを窺う。


「それに、言ったはずだ……。もう手荒なことはしないと。だから……」


その後に続く言葉を飲み込んだ……。


「少し……話せないか。時間は、十分にあるだろう……」


エスコートしようと手を差し出すも、同様に手の平を上に差し出され困惑する。


「あの、神性はまだ思うように出せません……」


「っ!……そうではないだろう?」


皇城で、完璧な作法を習得し、竜の国の宴席で、こなれたようにエスコートされた女が……その甚だしい勘違い。女は困ったようにまた眉端を下げて、冷や汗を浮かべている。


「……もういい……着いてきなさい」


水辺のガゼボには、涼やかな風が吹いていた。

視界の端で、風に揺れる白い髪が陽を受けて……空気に溶けるように淡く煌めく。

目を合わさずとも分かる……所在なさげに俯いて、卓の下でその両手を固く握り締めているだろう。

正面のカップには手も触れず、供された菓子への反応もない。


「食べないのか?」


その問いかけに目を泳がす。


「あの……あまり食欲がなくて」


「なぜだ?」


「少し具合が悪くて……」


つい先程まで、軽快に庭園を散策し、明るく微笑み、動物を撫でていた女が。


「……先ほどまでは、元気に見えたが」


「ですが……」


「食べなさい……」


「本当に……食べられないんです」


その、決意の込もった語気に呆れ返る。

この女の儚げな様相とは相容れない、頑固な一面……知ってはいたが……いざ目の当たりにして、好意を跳ね返されると、単なる無礼にしか感じない。


「命令だ……食べなさい」


怒ったように首を振る。


「なぜお前はそう意固地になる。好きだろう……」


食事の際に供された甘味を好んだと、報告は受けていた。


「お前の為に準備させ」


「ふっ……太るからですっー!!」


こちらの言葉を遮り、勢いよく発せられた言葉に唖然とする。

女は慌てて、開いたままの口を両手で塞ぐ。

ほんの一瞬、鋭くこちらを睨んだ視線も、無様に砕け、眉は下がり、まるで後悔しているとばかりに瞳が潤んで踊る。

その表情を眺める内に……奇妙な感覚が湧き上がった。

その正体に気づき慌てて口元を覆うも、それは全く意味をなさなかった。


「フッ……クッ………ククッ……ハハハッ」


一度声が出ると、もう堪えることなどできなかった。

張り詰めた糸が弾け、その反動で音が鳴るように、軽快な笑い声が我が身を包む。

女の瞳が更に大きく見開かれ、真っ直ぐにこちらを見つめる。


「ハハハッ、ハハッ!……ッ、クッ……ククッ、お……前の………どこに太って困るほどの肉がある?」


小枝のような指先と、簡単に手折れそうな手首を見つめ、言葉にすると……女は顔を真っ赤にして目を逸らした。


今まで耳にしたことのない、自身の晴れやかな笑い声に……憤りも鬱憤も、吹き飛んでいく。


エスコートは叶わず……女は、好きな筈の菓子でさえ口にしない。

手ずから選んで部屋に備えさせた装飾品は、何一つ身につけない。

どれだけ丁寧に接しても、顔を合わせる度に……変わらず青ざめ身を震わす。

気持ち乱され、苛立ちを感じたそれら全てが……今この瞬間、取るに足らない些細な事に思えた。


この女の為にした事全て、想定外の結末を迎えてきた。

そして今また……初めて聞く自身の爽快な笑い声は、身体を温め、耳に軽やかにこだました。



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