48. 囚われたのは…… ※
抱き上げ、肩にもたせかけた彼女の顔が、寄り添うように頬に触れる。
その髪は……優しく首元を撫でる。
小さくうめき声を上げながら、目を瞑り痛みに耐える姿に、胸が痛むも……その痛みは、言いようのない、愛おしさに塗り替えられていく。
満足感と罪悪感がせめぎ合い、その熱は、激しく身体を滾らせた。
彼女を抱き上げたまま、階段を駆け上がり、彼女の部屋に連れて行く。
浴室の浴槽には、脱走に気づいてすぐ指示した通り……湯が張られていた。
彼女をスツールに腰掛けさせた。
頬を濡らした涙は乾き、その跡を砂と泥が覆っている。
右足首は腫れ上がり、怪我のない場所を探すのが難しいほど、全身に擦り傷があった。
跪き、傷口に入り込んだ砂粒を丁寧に取り除き、水で洗い流す。その度に、彼女の顔が苦痛で歪む……。
手の平を足首に充てがい、神性力を込めると……傷が癒え、腫れがひいていく。
何かを堪えるような表情を浮かべる彼女の……その心の内を察すると……思わず口角が上がる。
最後に、こびりついた血と泥を、布で拭うと……元通りの白く美しい肌になった。
そしてその行為は、擦りむいた膝に、腿に、上腕に……やがて顔へと移っていく。
砂地に擦り付け、幾本もの無残な血の筋が残った、頬に、額に……ようやく最後に……口端が切れ、血を流す唇を……
それはまるで無意識だった。
その場所に目を向けた瞬間……引き寄せられるように口付けた。
一瞬後に、我に返り身を離す。
月の光が差し込む、仄暗い部屋の中で……髪は、銀色の光の粒を集めたように淡く輝き、薄暗い青に全身が染められている……。
あの茜色の庭園で見た時とも……明るい窓辺の日差しが、彼女の瞳を照らした時とも違う、神々しくも……畏ろしく、冷たい眼差しがこちらを見下ろしていた。
瞬間呼吸が止まる。
全身を悪寒が走り、鳥肌が立つ。
それは、夢の中で見た女神の姿だった。
両手を広げ優しく微笑んだその時とは違う……当初の夢と同じ、諦めと非難の混じった目でこちらを見下ろす、虚で哀れな姿そのまま……。
その衝動に、抗う事など出来なかった。
反射的に、床に膝をつき、平伏し、懺悔した。
「どうか許してください女神様!僕が、僕が、分かってあげられなくてごめんなさい。助けてあげられなくて、ごめんなさい。……僕を許してください! どうか、どうか、救ってください! 貴方が、貴方のことが……心から欲しいんです……!
欲しくて欲しくてたまらないんです。僕を、僕のことを必要としてください! どうか、どうか愛してください!」
まるで夢の中と同じように……叫びは、嗚咽に変わり、身体を震わせた。
救いを求め、その顔を見上げる……。
夢の中で、一度もその声を発することのなかった女神……その唇が開き……静かに言葉が紡がれた。
「あなたの願いを叶えるために、もっと愛して……そして苦しんで下さい……。あなたが私を囚えて苦しめるように……」
その口元が冷たく綻んだ。
意識と無意識、現実と幻想の間で、視界が交錯する。
頭痛と眩暈を堪え、目の前のその人を凝視する……。
いや、違う! これは彼女の言葉じゃない!
目の前の彼女は一言も発していない。
その口元は、固く閉ざされたままだった……。
全てを見透かすような、その胡乱な眼差しが……耐えられない。
これは夢か幻か、視界が歪み、足元がぐらつく。
深い深い、悪夢に捉えられたような。
後退り、なんとか己を保ちながら浴室を後にした。
混迷の暗闇の中で、激しい胸の痛みに堪えながら、必死に否定する。
違う。違う。僕があなたを囚えたのでは無い!
あなたが、あなたが、こうも僕を虜にして……あなたに捉われ囚われたこの気持ちが、救われる事は永遠に無いのでしょうか!?
夢の中では、彼女に指一本触れる事は出来なかった。
彼女の髪に櫛を入れる時でさえ、常に極度の緊張と興奮に満ちていた……。
つい先刻、彼女の走る姿を想像しながら、思い描いた計画が頭によぎる。
彼女を連れ帰ったら……風呂に入れ、汗を流し、優しく髪を洗い、身体を拭き、服を着せる……全て僕一人の手で。
そう決意し、胸が高鳴った先刻の気持ちが……嘘のように冷めていく。
今はもう彼女のその手に触れる事さえ、許されないことに思えた。
そもそも彼女に抱いていた気持ちはありふれた”愛”などというものではなく”崇拝”に近いものだった。
彼女と夫婦になろうと考えるなど、なんて烏滸がましく恥知らずな事だったか。
その場で、床に崩れ落ち、手をつき……心から……深く深く反省した。
だがもう引き返す事は出来ない。後悔は、微塵もなかった。
これが彼女を救う最善の道である事は、疑う余地もなかった。
あんな冷血で無慈悲な竜王が、彼女の事を思いやり、幸せにするなど出来るはずが無い。
きっとあの男は、ありとあらゆる手を尽くし、彼女に愛と錯覚させたのだろう。
一体どうやって、あそこまで陥れたのかは、見当もつかない。
あぁ、神様! 僕だけの女神様!
全てを捧げ、出来る全てのことを致します。
慈しみ、可愛がり……。
そうだ、この小さな屋敷を女神様の天国にしよう。
庭に花を植えよう。彼女の好きな書物を揃えよう。小鳥や小さな生き物を飼おう。
そうすれば、いつか僕の愛に気付くでしょう。
その心は僕で占められることでしょう。
そしていつか……心を許し、話しかけてくれるようになったなら……。
いつか……その肌に触れることが許されるなら……。
それまで、どれだけ時間がかかろうと、彼女の心を開くために、彼女に尽くし続けよう。
これは、いったい何度目の浮上だったろうか……。
彼女と出会ってから、何度も気持ちは、沈み、沈んでは浮上してを繰り返した。
それは繰り返す度に、深く落ち、高く上がった。
一度下がり切った気持ちが浮上する時、なんとも言えない恍惚感に酔いしれた……。
今回も……底を貫き、深みにまで落ちた気持ちは、弾みをつけて、限界を越え上がって行く……。
(大丈夫。大丈夫です。時間はたくさんありますから……)
何度も何度も心でつぶやき、自分を励まし続けたその言葉をもう一度繰り返した。




