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21. 私の名は……

『名はなんという?』


突然の問いかけに、冷や汗が背中を伝う。

何か答えなければと考えれば考えるほど、呼吸が乱れる。


竜王が、(いぶか)しげに目を細める。


「……あ、あの!……名はありません。母も父も、産まれてすぐに亡くなってしまったので。あっ、でも!……幼い頃、近いもの(召使)からは『ロク』と呼ばれておりました。前代の皇帝の、六番目の孫だったので……」


(他にも、罪の子とか、穢れた子とか、皇城のウジ虫とか言われていたけれど……それは名前とは言えないはず)


つい何か答えなければと、焦ったあまり……無様な事実を話してしまった。

適当な名前や、せめて前世の名前で嘘をついた方が良かったのかもしれない。

自分の支離滅裂な返答を思い返し、後悔するが、手遅れだ……。

まともに竜王の顔が見れない。


恐る恐る顔を挙げると、不機嫌そうに眉間に皺を寄せて、私をじっと見つめる目と目があう。


またあの顔だ……。

謁見の時にも見せた、非難するような、何か堪えるような、あの表情。

支援軍の対価として送られてきた精人の姫が、名前もない、無価値な者だとバレて……いい気がするわけがない。

竜王は、小さく咳払いし口を開いた。


『そうか』


『私は……カイラスだ』


「えっ?!」


「あ、あのっ……」


『どうした?』


「も、申し訳ございません。竜王様……」


『カイラスだ。』


「カ、カイラス様……」


そう呼ぶと、竜王はまた咳払いをしながら、足をおもむろに組み替えた。


『謝ることなど何もない』


無言で紅茶を飲み進める様子に、私も顔を伏せてケーキをつつく。


気まずいまま何分経ったか分からない……。

ケーキの最後の一口を口に運んだ時だった。


『名がないと不便だ。何か希望の呼び名はあるか?』


まるで、先程の私の失態など我関せずのように、ただ穏やかに問いかけられたその質問に、虚をつかれた。


「あっ……。いえ……特には」


『生まれはいつだ?』


昨年の、成人の儀を思い出す。

皇族の18歳の誕生日に、大神殿で祖先からの祝福を受けるために執り行われる伝統的な儀式だが……竜の国に送られる予定がなければ、私などはその儀式さえ受けさせては貰えなかっただろう。

そしてその時初めて……自分が真冬に生まれた子だと知った。


「……冬です」


竜王は……何かに想いを馳せるように、遠くを見た。

一瞬目を閉じると、どこか悩ましげな瞳をこちらに向け、口を開いた。


『…………ルミ。古の言葉で、雪のことを表す言葉だ。……そして、ルミリーナ……冬の訪れを告げる、初雪(はつゆき)を表す。……美しい言葉だと思う』


「…………」


竜王の口から、詩を詠むように紡がれたその言葉に……心を奪われて、返事ができなかった。


『嫌か…?』


竜王が私を見つめる。

思わず目を逸らして、俯いてしまう。


「い、嫌ではありません!」


上目遣いで見上げると、竜王が少し微笑んだように見えた。


『では、これからこの国では、ルミリーナと名乗るといい。私はルミと呼ばせてもらおう……』


落ち着いた静かな声で、そう告げられた。



『歳は?』


「へっ?」

また予想外の質問に驚いてしまう。


「おそらく……18かと」


『クッ……ハハッ』


「?!」


竜王が、笑った?

あまりに突然の事態に、唖然として見つめてしまう。


『プッ、ハハッ……ハハハ! ルミ! お前はお前のことを良く知らないのだな! もっと幼いのかと思ったが……良かった……』


竜王は、先程までの落ち着き払った様相とは打って変わって……無邪気な笑みを浮かべ、愉しげにこちらを見返す。

一般より小柄な方であることは自覚しているが……そんなに幼く見えたのだろうか?良かったって、どういう事?


『もっと食べろ。そして大きくなるといい……』


よほど面白かったのだろうか、まだその言葉尻に笑いを含む。


『はぁルミ……笑わせてもらったよ……』


そのままじっと自分の事を見つめ続ける竜王に、どう返事をして良いかも分からず……ただ時折伺うように目と目を合わせていると……突然、竜王が顔を逸らし立ち上がった。


『ゆっくりしていくといい』


そう言い残すと、踵を返し立ち去った。

最後までこちらを振り返る事もなく……。


後にひとり残され、ボーッと滝を眺めながら……

「ルミリーナ」

そう小さく言葉にした途端、胸がきゅうっと締め付けられた。


2度目の人生では、生まれてからずっと、名前のない人生を送ってきた。

竜の国に送られることが決まってからでさえ「姫様」「お前」「アイツ」などと呼ばれていた。

誰もが、私の正式な名前がないことに、違和感なく過ごす。

その理由は、小説の中での私の存在が……名前さえ記されないまま斬り殺され命を落とした端役だから。

小説の中でも、現実でも、名前を呼ぶ価値さえない存在だから……そう思っていたのに。


『ルミリーナ……冬の訪れを告げる、初雪を表す。……美しい言葉だと思う』


そう言いながら、懐かしむような目をした竜王の……穏やかな顔が蘇る。


私を殺すはずの竜王が……私に名前を与えてくれた。

まるで、今ようやくこの世界に、自分の存在を認められたような……生きることを許されたような……。


前世の記憶が蘇ってからは、ずっと胸に杭が打たれたようだった。

その杭が、今抜かれ……代わりに温かな何かが満ちていくようだった。


この物語で死ぬしかないと思っていた私の運命が変わったのだ!

その確信が……次第に大きな歓びとなり、全身を満たしていく。


人は嬉しくて涙することがある……知ってはいても、自分の人生でそんなことが起こるとは思ってもいなかった。


部屋に戻ってからも、その名前を、心の中で何度も何度も繰り返した。




----------



いったいこれは、なんのご褒美なのだろう……。

無価値で無様な精人の姫だと、もう分かっているはずなのに……無下に扱われる事も覚悟していたのに……。

竜王との食事は4日目を迎え……素晴らしいもてなしが続く。


『ルミ、その果物が好きなのか』


『ルミ、この菓子は新作だそうだ』


口数は多くないが……話しかけられる際には、必ず名前を呼んでくれる。



『ルミ』

呼ばれて顔を上げる。

竜王が、口元を指差す。

(あっ)

慌てて膝上のナプキンを手に取り、自分の口元を拭う。

「そっちじゃない」

流れるように手が伸び、口元にその指先が触れると……ゆっくりと、唇に沿って撫でられた。

あまりに突然のことに驚き、心臓が爆発する。


竜王は何のことはない、落ち着き払った様子のまま……スプーンを手に取りムースを掬い取ると、今度はそれを迷いもなく私の口元にさし出した。


『ルミ、これも食べてみるといい……』


先程かろうじて破裂は免れたものの……経験した事がないほど、激しく早鐘を打つこの心臓の音が……どうか竜王に聞こえていませんように……! そう願いながら……目の前のスプーンを、思い切って口に入れた。

花の香りのゼリーと、柔らかなムースが口の中でとろけていく。


何か言わなければと、慌てて飲み込んで……言葉を絞り出した。


「美味しいです……」


耳まで赤くなっているだろう自分を想像すると、机の下に潜り込みたくなる。

これではまるで、餌付けされているような……。


命の危険を感じることも、恐怖心に駆られる事もない……竜王とののどかな食事を終えて部屋に戻ると、ハンナが満面の笑みで迎えてくれた。


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