13. 老王と新王
老王は、時折グラスを傾け、そこに満たされた琥珀色の酒を眺めていた。
静寂は好まぬ性質だった。この時間であれば、酌を務めるために側室の一人や二人馳せっているのだが、今、人払いした部屋には、この世に一人取り残されたような静けさだけが漂っていた。
肘掛け椅子にもたれかかり、ふと辺りを見渡せば……見慣れたはずの自室が異様なほどに広く、異質な空間に感じられた。
深くため息をついたその時だった。その静寂を打ち破るように、扉が開かれて……そこから姿を現した男は、戸惑う衛兵をよそに、後ろ手に叩きつけるように扉を閉じた。
その傍若無人な振る舞いに、特に動揺することもなく、視線を合わせた。
男は、はるか昔……あどけない表情で肩車をせがんできた、幼き頃の面影が僅かに残るその瞳を鋭く細め……こちらを睨みつけている。
歳は24、いや25になっただろうか?
いつの間にか自分の背丈をこえるほどに成長し、鍛え抜かれた体躯で、名実ともに竜人族の最高の戦士となった息子の……その精悍な肉体からは、抑えきれない怒気を感じる。
この者の母が亡くなってからは、まともに会話することもなかった。
……いいや、その遥か前から、私が、この者を遠ざけてきた。
悔やんでも悔やみきれない、愚かな過去を振り返る。
……男が憎々しげに、口を開いた。
『本気か? 何十も歳の離れた娘を側室に加え、ましてや……』
「ふんっ。お前がなぜ……あの娘を気に掛ける?」
その問いかけに、男の眉根が険しさを増すも……無言のままこちらを睨み続ける。
「元々そのつもりで迎えた女だ! 忌々しい精人族どもめ……あの場で斬り殺さず、側室に加えてやっただけでも、幸運だろう。今頃娘も感謝して、床入りの準備でも進めておるわ!」
瞬間、背筋に得体の知れない緊張が走った。王として他者を従え生きてきた中で、一度として感じた事のない圧迫感。その男の気迫に圧倒されて、息苦しささえ感じる。
まるで男の周囲の空間までも捻れるような……いや、それは見間違いでは無かった!
黒い霧状の魔素が男の周囲に立ち上って、その衝動と怒りに呼応したかのように……次第に激しい渦となり、男の身体の1箇所に集中していく。
「お前っ!! その腕は!!!」
自身の叫び声が部屋にこだました瞬間、体が宙に浮き、衝撃が身を襲う!
「ぐっ……うぅ」
容赦無く壁に叩きつけられ、宙に浮いた身体……。
胸ぐらを掴み持ち上げる、男のその右腕は……黒々とした数千の鱗で埋め尽くされ、串刺しにされそうなほど鋭い鉤爪が、爛々と光っていた。
こちらを見据える黄金の瞳は燃えるような輝きを増して、瞳孔は異質に長く細まる。
『あの娘が支援軍の対価というなら、あの軍を率いたのは俺だ。俺が手にする権利があるはずだ……』
衝動的な暴挙と、怒りに満ちた表情とは相容れない……重々しい声が、身体を震わせる。
「うぅ、分かった! もう良い! ……分かったから、手を離せ」
喉元を締め付ける苦しさに耐えながら、声を振り絞る。
「もうこの際、王位もお前に譲る。王になれ! さすればあの娘もお前の好きなようにすればいい!」
途端、男の手が離れた。息を大きく吸い込み咳き込みながら、床に崩れ落ちた。
背にした壁からはバラバラと石壁の残骸が落ち……周囲には、衝撃により破壊された家具が散乱していた。
見上げれば、男は平然とした眼差しでこちらを見下ろして、少し考えこむようなそぶりを見せたあと……事も無げに答えた。
『いいだろう』
あっさりと、まるで大した事でもないように。
男はこの瞬間、北大陸を支配する竜人族の頂点に君臨する、新たな『王』となったのだ。
「今の言葉!! 違えるでないぞっ!!」
踵を返し、去って行こうとするその背に向けて、叫んだ!
男が部屋の扉に手をかけたその途端……扉の後ろで、おそらく固唾を飲んで成り行きを見守っていたのだろう顔面蒼白の家臣と騎士達が、室内に雪崩れ込んだ。
変わり果てた部屋の様相を目の当たりにして、驚愕の様相を浮かべた一瞬後……皆一様に物言いたげに男の方を振り返ったが、男はなんのことはない無関係な様子で目を逸らし、その場を立ち去った。




