完璧な職場
私は何度か転職を繰り返して、いまの会社で働くようになったんですがね。こんな良い会社は、他にないんじゃないかと思っているんですよ。
社会に出ると、誰だって、多かれ少なかれ、職場に不満を持っているものじゃないですか。私もいまの会社で働く前は、不満はあって当たり前だと思っていたものですから、何の不満もないこの状況には、本当に驚いていますよ。とにかく完璧な職場なんです。
優良企業かどうかを判断するうえで、もっとも重要な基準としては、納得のいく給与を支給してもらっているかだと思うんです。冷めたような事を言いますが、仕事なんて所詮は金もうけの手段にすぎませんからね。お金の為だけに働いているという方も多いんじゃないでしょうか。
その点、いまの会社は大盤振る舞いというか、貰い過ぎじゃないかと思うほどですよ。この不景気で、従業員の給与を減額せざるおえない企業が多いと聞きますが、いまの会社は毎年増額されていますから、有難い限りですよ。賞与にいたっても、年2回ちゃんと支給されていますし、本当言うことないですね。
健康食品原料を扱っている会社で、世界シェアナンバー1なんですよ。私が勤めている日本支社は小規模ですが、世界的にみれば大企業です。細かな仕事内容は専門的な事になりますので、割愛させてもらいますが、簡単に言えば外資系の商社になります。
いくら給与が良くても、目が回るほどの仕事量なら、良い会社だとは言えないと思うんですよ。逆も然りで、暇過ぎたら、それはそれで辛い。業務量が適正なのでしょうね。常にやるべき仕事があり、かと言って残業もほとんどした事がないんです。おかげでプライベートの時間が増えて、充実した毎日を送れています。
それに仕事はやりがいがあり、結果を出せばきちんと評価をしてもらえる。承認欲求が満たされ、とても居心地がいいんです。自分の居場所はここだと思えるわけです。
恵まれた環境であっても、人間関係にストレスを感じていたら、何の意味もないわけです。結局そこが一番大事じゃないですか。週5日8時間近く一緒にいるわけですからね。信じてもらえないかもしれませんが、そこもノーストレスなんです。嫌な上司はいないし、同僚はみんな気さくで、話しやすくて、社内の雰囲気は良好ですね。ハラスメントなんて時代錯誤な事をする社員はひとりもいませんよ。
あと、職場の環境や設備も整っていまして。時間の融通が利きやすい、フレックスタイム制を導入しているので、決められた始業時間に合わせて出勤する必要がないんです。通勤ラッシュや満員電車を避ける事が出来るので、通勤のストレスは軽減されていますね。私は、だいたい7時頃に出社して、休憩を1時間取って、16時頃には退社しています。出社は早めですが、早く帰れるのが、とても気に入っていますね。
もちろん、福利厚生は充実しています。有休休暇だって年20日あり、全て消化できています。あと産休や育休、時短勤務などが取得しやすい環境にもなっているんですよ。
どうです?完璧な職場だと言えるんじゃないでしょうか。こんな良い職場は、他にはないんじゃないかと思うんですがね。さぞかし、うらやましいと思っている方も多いんじゃないでしょうか。
今って、働き方が大きく見直されている変革の時代じゃないですか。さまざまな取り組みをスタートする企業も増えてきていますしね。実は、昨日、業務体制が変更するという通達があったんです。ずっと同じでは、成長がストップしてしまう。変化を恐れてはいけないようですね。
そういうわけで、私はいま自席に着いて、パソコンの前に張り付いているわけなんですよ。パソコン画面には、社内連絡用ソフトが立ち上がっています。もうすぐここに、業務体制変更のお知らせがアップされるはずです。
アップされるまでの間、もう少し話させてもらっても、宜しいですか。自慢はもういいって。そんな事、おっしゃらずに、ね、後少しだけ。本当に聞いてほしい話はここからなんですよ。さっきまでの話は、前置きといいますか。
少し引っ掛かる事がありましてね。会社の離職率を調べたんです。そうしたら、異様に低いんです。これだけ完璧な職場ですから、低くて当然なんでしょうが、何だか恐ろしくなってきましてね。
私もこんな気持ちになったのは初めてでしたから、何が恐ろしく感じているのか理解に苦しみましたよ。でも、よくやく分かってきました。完璧な職場で働くという事は、自由を奪われているようなものだと気が付いたんです。人間というのは、不満があった方が、自由に生きられるものなのかもしれませんね。
私の言っている事の意味がよく分かってないようですので、もう少し具体的な話をしましょう。私の友人に、脱サラして食パン専門店を経営している者がいるんですがね。そいつ、サラリーマンをやっていた頃は、職場にかなり不満を持っていたみたいなんですよ。よく会社の愚痴を聞かされたものです。
私が考えるにはですね。職場に不満を持っていたからこそ、自分の店を持とうと、一歩踏み出せたんじゃないですかね。私のように、完璧な職場で働いていたとしたら、店を持とうなんて、考えもしなかったはずなんです。たとえ、店を持つ夢があったとしても、完璧な職場を捨てるなんて事が出来るわけがないですからね。職場に不満があるからこそ、そういう選択肢が生まれたんだと思うわけですよ。
職場に不満があるという事は、様々な選択肢があるという事です。逆に、職場に不満がないという事は、退職するという選択肢すら、極めてゼロに近いわけです。あの離職率の低さがそれを物語っています。完璧な職場は、辞めたくない職場。会社を辞めたくないという事は、会社が轢いたレールの上をひたすら前に進み続ける人生しか選択肢がないという事なんですよ。
ここまで話せば、何となく分ってもらえたんじゃないでしょうか。完璧な職場で働くという事は、鳥籠の中の小鳥のようなもの。食事の心配も他の鳥に襲われる心配もありませんが、空高く自由に飛び回れないんです。ああ~、なんて哀れな事なのでしょう。私には自分の店を持ちたいなんて願望はありませんよ。ただ、そういった願望が芽生えたとしても、完璧な職場のせいで、一歩踏み出す事は出来ないのです。
私は、まんまとはめられたのかもしれません。会社は、完璧な職場を提供することで、よそに目を向けさせないようにしたんじゃないでしょうか。おかげで転職したいなんて思った事がないですからね。
もしかしたら、いまの職場よりも好条件の転職先があるかもしれない。そうそうないとは思いますが、世の中は広いですからね。例えば、完全リモートワークの職場には魅力を感じます。リモートワークの会社も少しずつ増え始めているみたいですが、うちはまだ違いますからね。中には、リモートワークで、うちよりも好条件の会社があるかもしれない。
職場に不満さえ持っていたら、そういった会社に転職する選択肢もあったわけですよ。だけど、いまの職場で働いている限りは、ついつい現状に満足してしまうので、転職しようなんて考えもしないわけです。転職サイトすら見ませんし、見る事があったとしても、いまの会社に不満がないですから、真剣に見ようとはしません。それに、もし完全リモートワークの好条件の会社があったとしても、人間関係だけは入ってみないと分からないわけですからからね。もし、入社して人間関係が最悪だったら、悔やんでも悔やみきれないでしょうね。だから、そんなリスクを取るなら、いまの完璧な職場にいた方がよっぽど良いというわけです。
考えてみれば、完璧な職場で働き続けることは、時代に取り残されてしまう危険性もありますよね。今って、多様性の時代じゃないですか。働き方も随分変わってきて、趣味が高じて仕事になるなんてこともあるみたいですね。趣味を仕事に出来るなんて、理想的な仕事だと思いますね。絶対に楽しいじゃないですか。だけど、それもやっぱり、完璧な職場で働いていると、趣味は趣味のままなんですよ。
趣味を仕事にして安定して儲かればいいですが、一時的に儲かったところで、生きていける保証はない。特殊な仕事というのは、浮き沈みが激しいものです。完璧な職場を辞めてまで挑戦するなんて、馬鹿げていますよ。勿体なすぎます。
その点、職場に不満を持っていたら、リスクがあったとしても、思い切れるわけです。会社への不満が、背中を押してくれる。仕事を辞めたいという思いが、原動力にもなるわけです。完璧な職場だと、本当に辞めていいのかと、躊躇が生まれてくるだけで、原動力にはなりませんね。足枷にしかならないわけです。だから私には、趣味が高じて仕事になるという道も断たれているわけです。とはいうものの、私は無趣味なんですけどね。
いつも思うんですよ。何で給料が良いんだ、畜生。人間関係に悩ませてくれよ、馬鹿野郎ってね。職場に不満さえ持っていれば、何にでも挑戦出来るのにって。完璧な職場で働くというのは、いかにがんじがらめで、いかに自由がきかないものか、分かってもらえたんじゃないでしょうか。
ようやく、パソコン画面に、業務体制変更のお知らせが現れました。今回の業務体制変更で、会社に不満が出てくれば、私は自由の身になれる、そう思っていたのですが…
不満どころか、明日から完全リモートワークになるようです。「何故だー」私は両腕をデスクに叩きつけた。これでますます職場を辞められなくなりました。私は、同僚たちを誘って組合を作り、不満のある職場にしてくれと要求するしかないと思いました。しかし、同僚たちはハイタッチしたり、万歳したりして、喜んでいます。自由が奪われている事に気が付いてないのでしょうか。呑気なものです。
確かにリモートワークには興味を持っていましたから、喜ばしい事なのでしょう。ですが、私の人生は、これで決定したようなものです。脱サラして自分の店を持つ事もない、趣味を仕事にすることもない、リスクをおかして転職なんてありえない。会社の犬になり、忠実に業務をこなす。これが完璧な職場で働く者の現実というわけです。
あなたは、職場に何か不満を持っていたりするんですか?不満があるのなら、私の人生よりは、自由で輝かしい人生を送っているのでしょうね。羨ましい限りです。
終