神州大陸の窮状
◇西暦1946年 11月26日 夜 日本皇国 千葉県 某料亭
千葉県に存在するとある料亭。
そこは転生会関係者が経営する料亭であり、転生会が国家問題の中でも特に重要な案件を話し合う際に使われる。
そんな料亭の一室では転生会上層部の者達が下手をすれば国家存亡に関わりかねないある報告を聞くために集まっていた。
「さて、桜庭君。早速だが、神州大陸の状況について説明して貰いたい」
「は、はい」
第95代目の転生会会長──蛯谷公二郎(転生者)の言葉に神州県(神州大陸のこと)の臨時知事──桜庭貞太郎は緊張しながらもそう返す。
「まず治安ですが、先月ごろまでは大分落ち着いていましたが、今月頃になってまた不安定となってきています」
「冬が近づいたからか?」
「おそらく。彼らにとって転移初期のあれはトラウマでしょうから」
無理もない。
蛯谷や桜庭を始めとした転生者達は一様にしてそう思った。
まだ日本が転移したばかりの頃、神州大陸に住宅が転移してこなかった上に転移した時期が真冬だった為、すぐに神州大陸に転移してきた者達への住宅が必要だと考えた日本政府は、官僚、労働者を総動員して1億8500万人もの仮住宅を用意するという歴史上稀に見る(地味で)壮大な計画を成し遂げる。
その計画は神州大陸に転移してきた役人まで動員して行われ、ある時には官僚達があまりにも膨大すぎて絶望しそうな必要書類の山を処理し、またある時には共に転移してきた膨大な物資の山を短期間で運ぶために労働者達が24時間体制で奴隷もかくやというほど働かされた。
それは血を吐くような過酷さであり、かくいう転生者達もあの時の事を思い出すとトラウマで体が震えるほどだ。
そんな苦労の甲斐あって仮住宅の手配は1ヶ月程で済んだものの、残念なことにそれで全ての問題が解決したわけではなかった。
いや、こればかりは仮に日本政府の官僚や労働者達が何倍もの仕事が出来たところでどうにもならなかっただろう。
なにしろ、彼らが直面した問題は気温という自然現象と油だったのだから。
この世界での日本の気候はどういうわけか、転移してきた領土(神州大陸含む)及びその周辺100キロ程の気候は前に居た世界と全く変わらない。
まあ、そのお蔭で急激な環境の変化によって農作物に大被害が出るといった事態は避けられたのだが、問題だったのは神州大陸の寒さだった。
前述したように神州大陸を含めた日本本土とその周辺の気候は転移前と変わらない。
そして、神州大陸の位置は樺太や千島よりも更に北。
つまり、何が言いたいのかというと、神州大陸の気温はシベリア並みに寒いのだ。
加えて、当時の季節は冬、しかも神州大陸の転移者は南方などの温暖な気温で生活していた者が多い。
更に追い討ちを掛けるようにストーブに使える油もあまり無かった。
いや、正確には有ったのだ。
事実、第二次世界大戦が進んでいく毎に徐々に戦線が本土に近づいていた事から、本土には南方から運ばれてきた石油が大量に備蓄されており、その石油もまた当然の事ながら転移してきていたし、更に転移時は本国以外に有ったものの、日本の資産だと見なされたのか、転移してきた物品の中には大量のガソリンの入ったドラム缶も有った。
その油の量は日本海軍が保有する全ての艦艇を一年中動かし続けても尚余りある量であったが、残念なことにそれは1億8500万人もの人々の体を温めるには少なすぎたのだ。
まあ、仮に量が足りていたとしてもそれを全て使ってしまうと、船舶の殆どが動かせなくなってしまい、経済活動どころか、国全体の生存活動にも支障が出てしまう可能性が有ったので、結局は同じ結果になっていた可能性が高かったが、ともかくそういうわけで神州大陸の住民達はストーブの恩恵に殆ど預かれないままシベリア並みに寒い冬を越すことを強いられ、苦肉の策として神州大陸の住民を船で比較的温かい南方に移動させるなどの処置を行ったものの、僅かな期間で2億近くの人口を移送することなど出来る筈もなく、寒さによって次々と息を引き取っていき、最終的には40万人もの人間がたった2ヶ月の間に死んでいった。
・・・もっとも、犠牲者が40万人程度に抑えられたのですら正直言って奇跡とすら言っても良い。
実際、当初転生会の出した被害想定書では最低でも100万人、最悪の場合は500万人近くの犠牲者が出るとされていた(むしろ、この数字ですら甘いという意見すらあった)のだから。
しかし、予想以上に日本人は寒さに強かったらしく、実際の被害は転生会が見積もった予想最低被害の半分を更に下回る数字──それでも多くの人間が亡くなったということに変わりはなかったが──で済んだ。
だが、実際に被害を出した神州大陸の住民にとっては十分すぎるほどのトラウマになったらしく、冬が近づく毎に住民の不安から来る感情によって現地の治安は悪化していた。
「実際のところ、どうなのだ?この冬を乗り切ることは出来そうか?」
「・・・正直に言えば、今年も被害が出そうです。勿論、防寒具などの支給や住民の南方への移送などによって被害は転移初期よりは減るでしょう。しかし、それでも被害を皆無にするのは難しいかと」
桜庭は日々不安に苛まれている神州大陸の住民に向かっては絶対に言えない事実を打ち明ける。
あの冬の惨劇以降、日本政府は神州大陸の住民に出来る限りの事をしていた。
防寒具の支給に温かい地方への住民の移動、更にはラーセラー大陸で採取された貴重な油の一部まで回している。
だが、そのいずれも根本的な解決にはならなかった。
防寒具の支給は一応十分ではあったが、それだけで寒さを凌げるなら苦労はしないし、住民の移動に関しても船の数と油の問題と本土のキャパシティにも限度があることから500万人程が限界。
油に至っては本当に量が少なく、とてもではないが神州大陸の住民を温めるには足りない。
それ故に口には決して出さないものの、今年も大被害が出るに違いないと神州県の役員達は上から下の立場の者まで内心で思っており、その暗い表情と感情が住民の不安を増大させ、治安悪化の一因となっていた。
「・・・その予想される被害は?」
「転移初期のデータを基にして、数万人の犠牲者は確実。最悪、20万人にまで拡大する可能性もあります」
その発言の内容に、転生者達は息を呑んだ。
転移初期のデータを基にした。
それはすなわち、あの奇跡に等しい犠牲者の数の少なさを基に計算されたデータだということで、これは言い換えれば、奇跡が起こったとしても数万人の犠牲者は確実に発生するということになる。
更に──
「ちなみにこれは凍死者に限定した被害予想です。暴動の発生とそれに伴う鎮圧行動による被害は計算に入れていません」
「しかし、あの時は暴動は発生しなかった筈だが?」
「それはいきなりあの寒さに直面して暴動を起こそうという気概が削がれた為です。なまじ心構えが出来ている今では果たしてどうなるか・・・」
そう、桜庭のもう1つの懸念。
それは暴動発生の可能性だった。
桜庭の言う通り、転移初期の頃はあまりの寒さにいきなり直面して気概を削がれたせいで暴動は発生しなかったが、ある程度心構えが出来た今ではどうなるかは想像もつかない。
もしかしたら転移初期の頃と同じく起こらない可能性もあるし、逆になまじ心に余裕が出来た為に起こる可能性もある。
しかし、もし発生した場合、とんでもない被害が出る可能性が非常に高く、桜庭はその点を憂慮していた。
「加えて、本土との温度差が有りすぎると思われているせいで本国の人間への不満の声もちらほらと聞こえています」
「本国の住民も贅沢な生活を送っている訳ではないのだがな」
転生者の1人がそんな言葉を漏らす。
それは事実だった。
実際、本国では配給制が未だ解かれていなかったし、エネルギーの問題などから幾つかの娯楽施設の閉鎖なども行われており、本国の住民は戦前と同じか、場合によってはそれ以上の苦しい生活を強いられているのが現状だ。
まあ、それでも史実末期の大日本帝国よりはマシなのだが、生活が苦しいということに変わりはない。
「・・・神州大陸の住民にとっては凍死しないというだけでも贅沢なのですよ」
「それは分かるが・・・現実問題としてどうしようもないぞ?」
そう、どうしようもないのだ。
幾ら金が有ろうが官僚と労働者が働こうが、結局のところ、無い袖は振れない。
それは桜庭も分かっていた。
しかし、それでも転移初期にあの地獄を直に見た身としては、何か言わずにはいられなかったのだ。
「分かっております。しかし、出来るだけの配慮はお願いしたい。本国ではないとは言え、あそこに居る住民もまた立派な日本国民なのですから」
「・・・分かった。善処しよう」
強い気持ちが込められた桜庭のその言葉に、蛯谷はそう答えるしかなかった。