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春、期待、枷  作者: 赤城充
1/1

思い描いたようにはならない

いち高校生を主人公にした入院生活中の日常物語です。

春、新学期。


新しいこの季節。すでに桜は散りはじめている。

始業式を終えて、早々に帰途につく学生たち。裕一はフェンス越しに同級生たちを見下ろしていた。

新入生は胸元に桜の花をつけている。数少ない荷物を手に、カラオケに行こうか、などと楽しそうに話している声が聞こえる。


本来ならば、自分もあの中にいたはずだったのだ。それがどういうわけか、こうして点滴につながれて、指をくわえて眺めることしかできない。裕一は恨めし気に自分を拘束する患者IDバンドを睨みつけた。このビニール製の小さな識別バンドこそが自分がこの病院の入院患者であることの証明。そして、病が完治するまで逃げ出すことは許されない手枷だった。


***


昨晩、急に出現したつんざくような腹痛に、寝ていた両親をたたき起こした。どんな体勢でも痛い。さすっても手を当てても痛い。温めても何の効果も得られない。腸炎かなにかか、とあたりを付けて正露丸を飲んでみたが効果は皆無。何かしら飲めば効くのではないかと胃薬を飲んでみたがそれも効かず。

あまりの痛みに呻きながらうずくまるわが子の異常な様子に、裕一の両親は迷うことなく119番を押したのだ。


結果は腸閉塞。聞いたことがなかった。

なにせ、病気とはほぼ無縁の17年間。小学校のころに胃腸風邪を引いたことを最後に熱すら出していない超のつく健康体。病院のお世話にもほとんどなったことがない。強いて言えば、予防接種の時くらいだろうか。


ゼッショクで、ホエキカンリしましょう。と壮年の医師に言われ、あれよあれよという間に点滴につながれた。初めに落とされた小さなパックは痛み止めだったのか、す、と痛みが引いていった。

汗だくだったため、すぐにでも着替えたかったが、すぐに500mlほどのパックにつながれるのを見て、これが終わるまで我慢しよう、終わったら着替えようと思っていたのに。


「点滴はまだまだありますからね。24時間続きますよ。炎症がよくなって、先生がいいよっていうまで、ずっとです」


若い看護師の口から出た言葉に地獄に突き落とされた気分になった。


「ずっと…?俺、着替えたいんすけど」

「では、お手伝いします」


平然と言われて愕然とした。自分とそう年の離れていない異性に着替えを手伝ってもらわなくちゃいけないのか。


「え…でも」

「点滴がありますから、我慢してください」


張り付いた能面のような笑顔で言われてしまえば、もう反論はできなかった。大事な何かを失った気分がした。



それからも散々だった。ひとに着替えを手伝ってもらうなんて恥ずかしくて耐えられない。

自分でこっそり着替えようと思ってもそもそやっていると、点滴が引っ張られて点滴につながっている機械がけたたましく鳴り響き、看護師が駆けてきた。

失礼します、とこちらの応答をきかずにシャッとカーテンを全開にして、入ってくる。そして、勝手に着替えようとしたことへのお説教。お前は勝手に入ってきただろう。ここにはプライバシー、人権というものがないのか。いいようのない不信感と不快感が胸のうちに渦巻いていた。


そしていま。看護師どもから文句を言われないように、ちゃんと主治医の許可を得て、屋上に来ていた。あいつらは医者が許可を出せば何も言わない。それだけはこの短い時間で、自分の病気についてよりさきに理解できた。

誰もいないこの静かな空間が本当にありがたい。少しばかり空調の機械音が音を立てているが、そんなもの、病棟に比べればないも同然だ。部屋は大部屋でいろんな声とにおいがする。泣き声、話し声。食事のにおい、排泄物のにおい。しきられているのはカーテン一枚。発狂しそうだった。


「まじで、くそ」

「うわあ、口悪い」


思わず声に出すと、背後から声がして驚いた。

振り向くと、自分と同じくらいの年の男子が立っている。服装は見舞客っぽいが、その右手についている患者バンドが彼の存在を示していた。やけに馴れ馴れしいが、同族と考えただけで幾分か許容できる。


「見ない顔だね、最近入院したの」

「きのう」


答えると、相手は興味がないように、ふーん、と頷いた。なんだ、自分が聞いたくせにと苛立っているといきなり相手が右手を突き出してきた。


「おれ向井駆。高校2年。よろしく。入院生活はおれのほうが先輩だから、何でも聞いてくれていいぜ」


どこか上からな態度に不機嫌になりつつも、裕一はその手を握り返した。どうせ同室の患者は年寄りばかり。ぱっと見、病棟全体の平均年齢は高い印象だった。友人たちは新学期が始まって忙しいだろうし、入院生活が退屈なものになるのは目に見えている。気に入らない奴だったとしても、暇つぶし程度にはなるかもしれない。


「蓮田裕一。同じ高2。よろしく」


***


あれから一週間が経った。


未だに点滴は外れず、食事もおあずけ。ここ最近はなんとなく身体が重たいような、気だるい感じが常に付きまとっていた。なんとか点滴棒を転がしながら屋上にたどり着くと、どさりとベンチに腰かけた。


「あ、蓮田来てたんだ」


ぼんやりと空を眺めていると明るい声がして、視線だけそちらに向けた。相手はいつもと同じ、見舞客と見間違えそうな普段着。点滴をしている様子もないし、一体どこが悪いのだろう、と考えかけて、裕一はかぶりを振った。そんなことを考えたところで何にもならない。


「なに、なんか怠そうだね」

「飯食ってねえからだよ…」


別に腹が減ったとか、そういうことはない。ただ、この倦怠感の原因となることがそれくらいしか思い浮かばなくて、吐き捨てるように言った。腹が減らないというのも気持ちの悪い話だ。もう1週間もなにも口にしていないというのに、全くと言っていいほど食欲を感じない。その事実に、裕一は戸惑っていた。


「へえ、絶食中なんだっけ」


点滴の刺さった腕を眺めながら、駆が裕一の隣に腰かけた。刺すひとが下手なのか、自分の血管が悪いのか。点滴の針を新しく刺してもらってもすぐに漏れて腫れてしまう。痛みを主張する腕にナースコールを押せば、毎度のごとく「漏れてしまったみたいです。刺しなおしましょう」と、なんてことないように言われてまた刺される。両の腕はもう点滴の痕だらけだ。


「もうずっと点滴。うまいわけでもないし、すぐ腫れるし、いい加減外れてほしい」


うんざりした様子で管をつつく。しかし、いくら愚痴を言ったところで結果は何も変わらない。気分が向上することもない。春といってもまだ4月上旬。少しばかり肌寒い風が吹いている。冷たさを心地よく思いながら、ベンチの背もたれに凭れる。


「本当に具合悪いんじゃないの。もう部屋に戻ったら」


珍しく弱音を吐く裕一の様子に、心配になった駆は声をかけるが動く素振りを見せない。どうしたものか、と途方に暮れているとやや怒気を含んだ声が響いた。


「お前らやっぱりここにいたか。行くときには声をかけろって言ってるだろう」


振り返ると白衣の男性。看護師の永田だった。彼は同姓ということもあって裕一や駆になつかれていた。年もそこまで離れていないため、お互い砕けた口調でよく話す間柄だ。


「裕一も微熱あったんだからこんなところにいないで…裕一?」


お説教しようとしたらしいが、力なくベンチの背もたれに身体を預ける相手に気が付いたようだ。す、と無言で裕一の首筋に手を伸ばす。熱を測るようにその手の甲で触れて、永田は相手の視界に入るようにしゃがみ込む。


「少し熱が上がってきたみたいだ。立てるか、部屋に戻ろう」


冷たい風が吹いて、永田は身震いした。看護師の制服は基本的には半袖だ。冬にはヒートテックの長袖を下に着ていることもある、とは言っていたが、動き回る職業であるため、半袖のほうがやりやすいらしい。


「まだ肌寒いな。駆、発作は出てないか」


顔色を確かめるように駆のほうものぞき込む。のろのろと立ち上がった裕一を心配そうに眺めながら駆は被りを振った。


「おれは平気」


息苦しさは特に感じない。最近はむしろ体調がよかった。退院も、もう間近だ。


「そうか、最近は発作も少なくなってきてるって言っていたもんな。でも、ここで無理したら退院が先延ばしになる。一緒に戻るぞ」


ふらふらと立つ裕一にさりげなく手を添えながら歩きだす永田。駆もおとなしく後に続く。もとより、裕一に会うために出てきたのだ。彼がいないのならば、ここにとどまる必要などないし、実際、退院が先延ばしになるのも嫌だった。


***


 駆は小児喘息を患っており、年少期から入退院を繰り返していた。


今回も、前回と同じく喘息発作。何日か前から、体調がすぐれないような気はしていた。

しかし、いちいち受診するのは面倒くさかったし、きっと大丈夫だろうと思い込むことにして、放置したのだ。案の定、体育の授業中に発作が起きて救急搬送された。


入院したのはいつもと同じ病院、いつもと同じ病棟、いつもと同じ主治医と看護師。ただひとつ違ったのは、途中から、となりの病室に自分と年が近そうな同姓が入院したということだった。

いままで自分を囲む入院患者は若くて60代のおじいさん、おばあさんばかり。若いということでよくかわいがられてはいたが、とても退屈していた。どうやら、例の彼は入院が初めてだったらしく、点滴や入院の環境にとても戸惑っている様子だった。そんな様子が面白くて、目新しくて、暇な入院生活の時間つぶしにでもなればいいと思って声をかけたのが始まりだった。


屋上で悪態をついている彼を見つけて声をかけると、予想した通りに面倒くさそうな顔をした。

よろしく、と握手のために手を差し出せば握り返してくれたが、本気で友達になろうという気がないのは表情から見て取れた。入院して一晩で、ここの生活の退屈さと不便さを実感してしまったようだった。自分だって、深くかかわるつもりはない。入院中だけのWinn₋Winnの関係だ。


駆が入院したのは、裕一が来る1週間ほど前。

入院してまず数日は点滴治療と時間で決められた吸入。そのうち点滴はなくなって、吸入のみになり、今は数日おきに行われる検査と吸入の治療だけ。今度の検査の数値が悪くなければ退院できるだろうと言われていた。

目の前を支えられながら歩く裕一を見て、自分はきっと退院できるだろうが、彼はまだかかるだろうな、と無関心に思った。


***


夜、裕一は38度を超える高熱を出した。

昼間の微熱は急激な寒気を連れてきた。発熱は次の日も、その次の日も続き、裕一の体力を消耗させた。解熱剤を使っても熱が下がるのは一時的。解熱しているときにも纏わりつく倦怠感はどうにもならず、屋上にも暫く行けないでいた。

ただぼんやりと病院の天井を眺めるだけの毎日。友達は、2、3日に1度くらいの頻度で見舞いに来てくれるが、初めの頃に大した病気ではないと伝えてしまったため、限られたメンバーしか来てはくれない。今来られたところで、相手をする余力もないので、逆に助かっているところもなくはないが。


一応、家族は交代で毎日見舞いに来てくれる。中学生になった弟も、共働きの両親も、忙しいだろうに、なにかと気にかけてくれている。しかし、やはり思い描いた通りのスタートを切れなかったことに悔しさを隠しきれない。


「後輩も入ってきて、これからが楽しくなるはずだったのにな」


小さく声に出してみる。

別段、彼女がいるわけでも、行事を楽しみにしていたわけでもないが、それでも、適度に学校生活を楽し展ではいたし、新学期早々のテストでもいい点を取れるように、休み中も勉強を頑張っていたのだ。それが、こんなふうに無駄になるなんて。


「怠い…」


寝ても覚めても、身体の重さはどうにもならず、なんともいえない気持ちの悪さが常に付きまとっている感じに、裕一はため息をついた。

思うようにならないからだを引きづってトイレに行く。今ではそれだけでも一苦労だった。点滴棒にしがみつくようにしながらゆっくりと歩く。

何とか便器に座ってほ、と息を吐いたとき、何か水様のものが伝う感覚があった。腹でも壊したのだろうか。そもそも、なにも食べていないのに、でるものなんてあるのだろうか。ぼんやりとした思考で考えながら、ズボンを上げて改めて見てみると、便器に鮮血が溢れんばかりに溜まっていた。


今まで見たことのない血の量にふ、と意識が遠のきかける。こんな狭いところで倒れるわけにはいかないと、慌ててトイレに備え付けてあった緊急呼び出しボタンを押した。伺います、と低めの声が響いて、パタパタと足音が聞こえてくる。


「どうしましたか」


コンコン、とドアをノックされて裕一は震える手で何とかカギを開けた。鍵を開けられたことに気が付いた相手がドアを開ける。看護師は裕一の顔を見て驚いたように目を見開いた。便器の中のものを認めると直後、真剣な顔つきになって裕一の体に手を添えた。


「蓮田さん、蓮田さんわかりますか」


看護師が裕一に呼びかけながらどこかへと手を伸ばすのが見えたが、何をしているのかは理解できず。頭痛を何とも言えない気分の悪さを自覚して、今度こそ意識を手放した。


***


看護師の永田は男子トイレからナースコールがあったことに内心首を傾げた。


トイレ介助が必要な人は今はトイレに入っていなかったはず。では、誰かが間違ってコールを押したのだろうか。駆け足で向かうと、鍵のかかった個室がひとつ。コールはこの個室からだろうと踏んで、ノックしてみる。カチャリ、とノックに応えるように鍵が開いたので、ドアを開けてみると、裕一が顔面を真っ青にさせて立っていた。

便器の中に溜まっている紅をみて、冷静にもう一度呼び出しボタンを押す。大量の下血に、顔面蒼白で今にも倒れそうな患者。人手が必要だ。


「蓮田さん、わかりますか」


声をかけて何とか意識を保たせようとしたが、すでにこちらの声はほとんど聞こえていないようだった。目は完全に上を向き、ぐらりと身体が大きく傾く。一緒に倒れてしまわないように相手の体をしっかりと支える。


「どうしましたー」


同僚の声が聞こえて、永田は叫んだ。


「蓮田さんが意識飛ばした、ストレッチャーお願いします」

「蓮田さん?!わかりました」


迅速に人手が集まってモニターが装着される。つながれていた点滴は全開で投与される。血圧は普段110台なのに、いまは80台ととても低い。


「主治医と、家族にも連絡入れます」

「お願いします」


トイレで多量に下血をしていたところを見ると出血性ショックだろうか。血圧が低いため、下肢を挙上して細かく血圧を測定する。相変わらず顔色も唇も真っ白だった。これから起こりうるだろう事象を推測して、それに必要になりそうなものを準備していく。


暫くして医師が到着し、意識の戻った患者の診察に入った。緊急で内視鏡検査と輸血が入り、あわただしく準備する。医師は診察が終わると、別室で待機していた裕一の家族のもとへ説明に行った。


「蓮田さん、これから大腸カメラ行きますよ」

「はい…」


弱々しくも返事が聞こえて一安心する。

ベッドのまま、モニターを一時的に外して点滴棒をゴロゴロと転がしながら内視鏡室へ向かった。


検査は少し時間がかかったうえ、大腸だけではなく、胃カメラも一緒に行ったらしい。小腸や回腸からも出血している様子が見受けられて、全体的な炎症があると判断された。検査は覗いただけで、止血治療などはなされなかったようだ。

さらにぐったりした様子で戻ってきた裕一を家族が心配そうに取り囲む。家族と患者が揃ったところで、検査を施行した担当医が改めて病状説明にやってきた。


「蓮田さんは腸閉塞ということで治療させていただいていました。腸閉塞のほうははっきり言ってもう、だいぶいいです。しかし…」


腸に大規模な炎症がみられるということ、出血量が多くひどい貧血を引き起こしたということ、腸閉塞はよくなったがまた別の病気があることが考えられるということ。わかりやすいように絵を描きながらされる説明を家族は黙って聞いている。だいぶかみ砕いて説明をしてはいるが、いきなりのことに、一体どこまで理解できているか。永田はそっと家族の表情を窺った。


「現時点ではクローン病、または潰瘍性大腸炎が疑わしいと思われます」


また聞いたことのない病名を告げられて、家族も裕一も困惑したように互いに顔を見合わせる。


「まだ、疑わしい状態なので、これからまた追加で検査が必要になります。病状や検査結果については追ってご説明します。まず、治療についてなんですが…」


医者は混乱した家族をおいて、治療についての説明を行った。

食事が長い間食べられていないため、高カロリーの点滴が必要であること。その点滴を入れるためにはもっと太い血管に入れた管から点滴をする必要があること。太い血管は足の付け根や首にあるため、そこに麻酔して管を入れるということ。


「軽い手術みたいなものです。30分ほどで終わりますから」


こちらにあとでサインをしておいてください。と紙を手渡されて、医師はさっさといなくなってしまった。


茫然として裕一はモニターの波形を眺めていた。一応、医者の話は聞こえていたがさっぱり理解できない。自分の病気は一体いつになったら治るのか。これからする治療というのは一体どれほど苦痛を伴うのか。知りたい情報は全く得られなかった。


4月になって、高校生活もさらに充実したものになるとばかり思っていたのに、こんな大ごとになってしまった。お先真っ暗。言葉通りのような現状に不安を覚える。自分ではどうすることもできない。裕一はただ無気力に天井を見上げていた。



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