新説 『神統記』
単位の注釈
1ディジット = 約2cm
1キュビト = 24ディジット = 約50cm
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
始めに混沌が生じた。そのつぎに大地が、その奥底にはタルタロスが、そして並びなく美しいエロスが生じたもうた。カオスから幽冥と夜が生じた。次に夜から澄明と昼日が生じた。
さて、ガイアはまず始めに彼女と同じ大きさの星が散りばめられた天を生んだ。ガイアとウラノスは多くの神々を産みたもうた。末っ子には悪知恵長けたクロノスを産んだ。
それから幾星霜の年月がたち、その間にも神々は絶え間なく生まれ、数多の戦が起きた。そして先の神々のように、ウラノスとガイアの子たるレイアとクロノスも子をもうけた。
長女たるヘスティア。彼女は竈の女神にして家庭や国家の守護者、すべての孤児の庇護者である。次女のデメテルは農業の先導者にして豊穣をもたらす女神だ。そして三女のヘラは男女の仲を深め結婚へと導き、その貞節さを以てしてその仲を保ち、その母性を以て子を育む。
さて長男たるハデスは暗き冥府に住み、死者を導く。そして次男のポセイドンは大地を揺るがし海を治める。最後に大いなる父たるゼウスが産まれたもうた。
ところが大いなるクロノスはこれらの子供たちを飲み込んでしまわれた。その子供たちが生まれ落ちる片端から。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
覚醒して初めて思ったのは、自分がどこにいるのだろうかということであった。辺りが暗い。何も見えない。とても静かだ。何も聞こえない。いつからここにいるのかも分からない。記憶が一切ないのだ。覚えていることはただひとつ。自らの名前のみであった。
『Δημήτηρ』
自らの名前を口にする。するとその瞬間、世界が開けた。自らが形作られていくのがわかる。見えないのは当然だ。目がなかったのだから。聞こえないのは当然だ。耳がなかったのだから。初めて味わう体があるという感覚に心を踊らせながら、おそるおそる目を開いてみる。
……目を開くとそこには1人の女性と無限に続くと思われるほど浩々とした鉛色の地面が広がっていたのである。上を見れば吸い込まれそうなほどに黒々とした虚無が広がっていた。
気がつくと1人だけいた彼女は私の目の前に立っていた。
「あらあら。あなたまで落ちてきたのね、父の腹の中に。」
彼女は少々困ったような、悲しいような顔をしてそういった。
「あの。私は何者なのでしょうか。」
「その答えは貴女の中にあるはずよ。さぁ、私の愛すべき妹よ、あなたの名前を教えてくれるかしら? 私はヘスティア。あなたと同じように父に飲み込まれ、閉じ込められてしまった哀れな竈の女神だわ。」
ヘスティアはそういうと片目を閉じておどけてみせた。
「私は……。デメテルという名前しか本当に覚えていないんです。私は何者なのでしょうか?教えてはくれないんですか?」
「ごめんなさいね、私には分からないの。でもね、デメちゃん。あなたにもいつか自分の役目を知るときが来るの。私もそうだったから。でも、これは覚えておいた方がいい。言葉には力があるの。特に自分の使命に関わる言葉にはね。だから、私たちはあまり軽々しく言葉を放ってはいけないのよ。」
「力?」
「えぇ。ちょっと見ててね。〈fajro〉」
ヘスティアが手を掲げて力強く宣言すると、辺りを煌々と照すほどの炎が彼女の手に生まれた。彼女が手を振ると、たちまち炎はかき消えた。
「私は竈の女神だから、火や竈に関する言葉に力が宿るの。デメちゃんの使命は何かわからないけれど、意識して力を込めることはできるわ。やり方を教えてあげるからやってみない?」
私はその提案に首を大きく振って頷く。自分のことを知る絶好のチャンスかもしれないのだ。やらない理由はない。
「方法は簡単よ。起こしたいことを強く意識しながら言葉を口にするの。〈fajro〉」
今度はヘスティアの指先に小さな火が灯る。
「火よ」
そう真似して言葉を口にするが火は灯らない。もう一度言ってみる。
「火よ」
やはり火は灯らない。何度繰り返しても火は灯らなかった。どういうことだろうか?
「ちゃんと起こしたいことは考えているかしら?……そうね、難しいならさっき私が指先に灯した火を考えながら言ってみたらどうかしら。」
言われた通り、さっきヘスティアが指先に灯した小さな火を思い浮かべる。小さく、頼りないがしっかりとした光を放つ火。
「〈fajro〉!」
するとどうだろうか。私の指先に小さな火が灯ったのだ。コツをつかんだ私はヘスティアに習って次々にいろんな言葉を操ることに成功した。水、土、金属、風……。
そのなかで、私は自分が特別土を操りやすいということに気がついた。そのことを話すとヘスティアは嬉しそうに言った。
「やった!デメちゃんの協力があればこの荒野が開拓できるかもしれないわ!」
どういうことだろうか。この荒野がありとあらゆるものを同質化してしまうことはヘスティアも知っているはずだ。いくら土を創り出しても、この鉛色の地面に触れたとたんにありとあらゆるものが地面と同じ鉛色の石になってしまう。
「もちろん、普通の土ならそうかもしれないわ。でもね、デメちゃん。この鉛色の地面って本当に土じゃないのかしら。やってみた感じ、土の言葉で動かせそうなのよね。でも、私は土を動かすことが得意じゃないわ。土を動かすのが得意なデメちゃんならできるかもしれない。」
確かにこの地面が本当に土なのだとしたら、私は恐らく支配できるかもしれない。やってみる分には何の害もないし、ましてやこの鉛色を見なくてすむようになるかもしれないのだ。やってみるしかないだろう。そう考えて、私は早速地面に語りかける。
「〈teron fekundigu〉」
私はこの鉛色の大地が緑溢れる肥沃な大地となることを思い浮かべ、高らかに宣言した。とたんに柔らかな緑色の光が広がって、私を中心とした半径5,000キュビトほどの範囲が黒々と肥えた土に変わった。流石にこの範囲を覆うほどの緑はないが、所々に草も生えているのがわかる。私はまずまずの結果に満足してヘスティアを振りかえって見た。すると、喜色満面のヘスティアは今にも踊り出しそうな声で私にこういった。
「すごい、すごいわデメちゃん! じゃあ、適当な草を木にすることができるか試してみて。私の予想が正しければ」
ヘスティアは一旦区切り、私を見つめた。そして真剣な顔で続ける。
「あなたの権能、要するにあなたが司っているものは恐らく大地と植物だわ。あなたならできるはずよ。」
ヘスティアに真剣な目を見て、私はやってみることにした。草が大きな杉の木になるように、そう考えながら足元に生えていた小さな草に語りかける。
「〈El herbo al arbo ŝanĝiĝu〉!」
するとどうだろうか。2ディジットほどしかなかった草はみるみるうちに大きくなり、40キュビト程もある大きな杉の木になったではないか。
どうやら、私はヘスティアの考え通り植物に関係する権能を持った女神らしい。私は確信を持って自分の名前を呟く。
『Δημήτηρ』
すると、自分の中で何かが少し目覚めたような気がした。でも、まだ完全ではない。どうやら、それではまだ足りないようだ。私は何者なのだろうか。
「焦らなくていいわ、デメちゃん。私は何もできないけれど、でもね、デメちゃん。妹の頑張りを認めてあげるのもお姉ちゃんの仕事なのよ?」
なんだか彼女の笑顔を見ていると、私のお腹の中にたまった焦りとか不安とか、そういうどろどろとした生臭いものが消えていってどうでもよくなってしまう。そして知らぬ間に私まで笑顔になっているのだ。
さて、そうやってある程度この不毛の地を開拓し、随分と緑も増えてきた頃。空が一瞬輝き、白く光る珠が落ちてきた。それは私の腰くらいの高さにまで降りてくると暫しふわふわとその場に留まった。やがてひときわ強く光ったかと思うと、その珠は私よりも4ディジットほど大きな男を形作る。そしてその男はおもむろに目を開いた。
「俺は……。何者なのだろうか……。」
男のその言葉に、いつの間にか私の横に来ていたヘスティア答える。
「私はその答えを持っていないわ。その問いに答えられるのはあなただけ。さぁ、私の愛すべき弟よ、名前を教えてくれるかしら? 私はヘスティア。こっちは私の妹のデメテルよ。」
「俺はハデス。ハデスだ。……でも、名前しか思い出せない。」
「心配しなくてもいいのよ。自分が何者か知るときがいつか絶対にくるから。私やデメちゃんだってそうだったんだもの。」
「どうやって知ったんだ? やり方を教えてくれ、頼む!」
「慌てなくてもいいのよ。自分が何者かを知る、そのためにはまず言葉の力について知らなきゃいけないわ。」
こうして、私の時と同じようにヘスティアによる言葉の力講座が始まった。そして、しばらくするとハデスの権能も判明した。彼は生と死を司っているようだ。ハデスの力を使って、この不毛の地に虫や動物たちを産み出すことができた。そして、この頃には私の力も大分うまく扱えるようになっていたのだった。
彼のあとにやって来たヘラが来ると、彼女の力で動物たちが番を作るようになった。そのあとに来たポセイドンは広々とした海を作り、私たち全員で協力して海を命溢れる場所へと変えた。最後に来たゼウスは黒々とした虚無に空を作り、雷を操って雨や曇りといった天気を生み出した。こうして、始まりの6柱の神々による天地創造は為されたのである。