閑話 お父様の憂鬱
カリカリカリ……。カサッ。
羽ペンの音と、時折書類をめくる音だけが響く書斎でモルガン公爵家現当主ザグラスは黙々と仕事をこなしていく。
もう夜は更け、ふと、我が愛しき妻と最愛の娘はもう寝ただろうか、だなんてそんなことを考える。
ふぅっ、とため息が漏れた。ポキポキと軽く手を鳴らして、伸びをする。ひと段落したやりかけの書類を机の端に寄せ、コーヒーを手元に引き寄せた。
娘、といえば最近ザグラスの頭を非常に悩ませていることがある。
私の可愛い天使は一体全体どうしてしまったのだろうか。
急に男になりたい!だなんて……。
古くからの友人や貴族の知り合い連中も子供は小さい頃も手がかかるが、大きくなるにつれて、また違う意味で手がかかるようになる、と苦笑しながら話していたりしたが……。
いくら、多感な年ごろだからって、恋だのアクセサリーが欲しいだのならまだしもまさかそんな想像よりはるか斜め上のことを娘が言い出すと予期できる親がいるだろうか。……いや、いない。いてたまるか。
正直、目の前の税についての書類なんかよりもそちらの問題の方がよっぽど重要かつ大問題である。
はぁー、と今度は大きめのため息が漏れる。
そこに、コンコンと控えめなノックが響いた。
「お父様?今大丈夫?」
「ああ、リリーか。いいよ。まだ起きていたのかい?」
噂をすれば影、というやつなのか、リリーが部屋を訪ねてきた。
私によく似た、しかし愛らしい顔立ち、濡れ羽色の流れるような美しい髪、レミリアそっくりのくりくりの目はまるで紫水晶のように美しい。
こんな愛らしさの塊のような娘が息子に?想像ができない。
「お父様、あのね、私!ついに、ついに!男になれるようになったの!」
「え」
まさか、そんな。嘘だろ、嘘だといっておくれよ、リリー。
その発言に、ザアッと血の気が引く。
一瞬、娘の才能を誇らしく思う気持ちも浮かんだような気もしたが、それもすぐにかき消えてしまった。
恐れていたことがこんなにも早く現実に……?!
ザグラスが唖然としている間にリリーは興奮したようにどんどん話を進めていく。
「見ててね!」
「え、ちょっ、待っ……」
ザグラスが止めるのも聞かずにリリーは魔法行使の準備を着々と行い、詠唱を開始した。
もくもくと、魔力の霧が娘の体を包み込んでいく。
「ね!出来たでしょ!どう?どう?」
「あ、あ、あああ……」
ザグラスの眼前に立っていたのは確かに、男だった。
しかし、ただの男ではない。
キリリとした、しかし、愛らしさの残る美しい顔だちに、声は声変わり前の少年という感じで高めの美少年。だがしかし、岩のように隆起した筋肉だらけの体がまるでなにかのギャグのようにドッキングしている。子供らしい等身の体なのがアンバランスでまた不気味だ。
しかも、変身魔法とは違い、服はそのままになるらしく、先ほどまでの愛らしい容姿のままなら、まさに天使のように娘の愛らしさを引き立たせていた可憐なネグリジェが筋肉によって内側から所々ビリビリに破られ、ファンシーかつ世紀末覇者のような前衛的ファッションと化しているという本気で意味の分からんことになっている。
顔だけなら王子、麗しの貴公子といえるが体はどこぞのミニ女装剣闘士とか、なにこのバケモノ。キメラかよ。【魔王も震えて泣き叫ぶレベル】である。
最愛の娘に対する父親の感想としてはあまりにもあんまりなものだが、ザグラスの頭にはそんな言葉しか浮かんでこない。
「ねぇねぇ、お父様!すごいでしょう?!」
ほめてほめて!といった様子でリリーはザグラスに近づいていく。
「ひっ?!」
思わず小さく悲鳴をあげて、じりじりとザグラスは後ろに下がった。その様子を見て、リリーはわかりやすく、悲しそうに眼を彷徨わせる。
「お父様……?」
はっ!私は何をやっているんだ?!いくら見た目はキメラだろうと可愛い可愛いリリーだぞ?!それをこんな、ひどい態度をとって、傷つけて……。
「……すまない、驚いてしまって。
リリー、やっぱりお前はすごい子だよ、まさか成功するとは思っていなかった。そんなすごいことを成し遂げたお前をお父様はたくさんたくさん褒めてやらなくちゃな。……さぁ、おいで」
手を広げて、リリーを抱きしめようとするザグラスに、一気にリリーの顔が明るくなる。
「お父様ー!」
「ぅぐはっ!!」
筋肉の重さゆえか、前はリンゴいくつ分ぐらいかの重さしかなかったリリーが酷く重たくなっている。その重量、破壊力を思いっきりみぞおちに食らった。
「うう……」
「大丈夫?お父様??」
上目遣いに心配そうに見上げてくるリリーは愛らしいが、その体は依然鍛え抜かれたそれである。ザグラスの中でぶちっ、と我慢していた何かがはじけた。
「いやぁあああああああ!無理!!こんなのリリーじゃない!こんなのやだあああああああ!」
魔王面の男が絹を裂くような悲鳴をあげた。
次の瞬間、彼の視界はぐるりと変わる。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……。よ、よかったぁ……。夢か……」
まだ心臓がドッドッドッと嫌な音を立てている。ザグラスの頬を冷たい汗が一筋流れていった。
さっきのは夢だ。夢でしかないんだ。リリーは禁呪に成功するかもわからないんだし…。
そこまで考えて、先日リリーの魔術教師として呼んだシーナがリリーの現在の実力を軽く見たいと、簡単な魔法行使の初実践を行った後で、ここに報告に来たことを思い出す。
「いやー……。ほんと、すごいですよ。リリーお嬢様は……。
僕、ほんとは簡単な魔法でも失敗なさるんじゃないかな、と思ってたんです。
知識を蓄えるのと実践は違いますから。でも……。
公爵様も練習場、見えてました?」
確かにザグラスも練習場を見てはいた。
最初は娘の初めての魔法行使を軽く見守る気持ちで、授業参観ぐらいの気持ちで見守っていたのである。
見るだけじゃなく、聞いてもいた。なんなら、録画さえしていた。
禁呪の一つである地獄耳と、遠視、映像記録も発動させて。
地獄耳は音を拾える範囲をかなり広げて、山二つ分向こうの誰だれの吐息すらも把握できるようになる魔法。
遠視は、この屋敷より馬車で30分はかかる王都の奥まったところに建っている王城のバルコニーに佇んでいる人の服の生地の縫い目がわかるぐらいに視力を強化する魔法である。
映像記録はその名の通り、自身の見たもの、聞いたものを映像として保存できる魔法だ。
禁呪にしては、しょっぱい魔法と言われがちだが、ザグラスはこれらによく助けられていた。
彼は、本来落ち着いた言動をとっているし、不動の魔王といった風体である。
その極悪な面構えにより、ザグラスの意図に関わらずひれ伏す者もいれば、脅威に思ったのか、単純に悪い奴だと決めつけられたのかは知らないが突っかかってくる輩もいる。
そういう変に突っかかってくる手合いのものがごちゃごちゃ言い出した時に証拠を黙々と並べたて、黙らせるのに物凄く便利な魔法だったのである。
ザグラスが使える禁呪というのは、そういった類の便利さを持つものばかりだ。
唯一使いようによっては脅威になる彼の使える禁呪は天候を操るというものだが、彼が今までそれを使ったのは領土が飢餓に陥らないように、という至極真っ当な必要に迫られた時と妻であるレミリアを口説いた時、家族を単純に喜ばせようとした時ぐらいである。
今回もうきうきと、映像記録を発動させ、娘が成功して喜びはしゃぐ様を撮るもよし、失敗して落ち込む姿もまた可愛らしい、と親ばか丸出しで見守っていたのである。
しかし、撮れた状況はそんな生易しいものじゃなかった。
シーナは持参してきた的を1属性につき、1つずつ、合計5つ並べ終わると「まずは基本魔法からやってみようか」と提案して、「はい!いきます!!」と元気よく返事をしたリリーが的に向けて、続けざまに魔法を放った。
〔ファイア〕、火属性の基本魔法で、本来なら軽くものに火をつけたりする魔法である。
リリーのファイアをくらった的は見る影もなく、炭と化し、ホロホロと崩れていった。
〔アクア〕、これも水属性の基本魔法、本来なら水鉄砲程度の水を出す魔法である。
リリーのアクアをくらった的は少し濡れるどころか水圧に飛ばされてどこかに吹っ飛んでいった。
〔リーフ〕、木属性の基本魔法。本来なら、的から芽のようなものが出れば上々である。
リリーのリーフをくらった的は芽どころかめりめりと幹を生やして、中くらいの一本の木へと成長した。
的を支える柱はただの一本の角材だというのに、どうやってそのバランスを保っているのかまったくもってわからない。
〔ダーク〕、闇属性の基本魔法。対象を覆い隠して見えなくする隠蔽魔法。
本来なら、一部分でもぼやかすことができれば上出来であるし、一人前の魔術師だとしても目を凝らせば見える程度には薄く残ってしまう。
それが完全に消えていた。最初から、的なんてありませんでしたけど?という感じでいくら目をこすっても完璧に何も見えない。
遠視を使っているザグラスが見えないのだから、よほどの出来である。
〔ライト〕、光属性の基本魔法。手に光を灯したりもできるが、ターゲットにこれをかけることで対象を光らせることもできる。
唯一、これだけが普通にピカピカと的が光っていた。まぁ、それにしたって一人前の魔術師ぐらいの出来ではあったが。
その魔法行使のすばらしさを見て、シーナがびっくりして腰を抜かした。
「ひょえっ……。え、え、なにこれ。ええ……。僕、いらないんじゃないかな……」
いつもよりさらにずり落ちた眼鏡もそのままにシーナは呆然とつぶやいていて、そんなシーナにリリーは駆け寄っていく。
「先生?見てくれた?どう?!禁呪今すぐやれるかなぁ?」
そんな様子をザグラスもまた呆然と眺めていたのだった。
「ああ……、見てたとも……」
「すごかったですよね……。あれですよ、リリーお嬢様は絶対天才です。僕なんかでお役に立てるかわかりませんが、全力でリリーお嬢様の才能を伸ばすお手伝いをさせていただきます!リリーお嬢様がやりたいってしきりに仰ってる禁呪も絶対成功できますよ!」
「あ、ああ……」
そんなありがたいような、いらないような太鼓判をシーナからもらったのだった。
いやいや、でも、禁呪は適性次第だぞ?絶対、とシーナは言い切っていたが、できるとは限らな……。
いや、しかし、ほかの魔法も桁違いに使いこなせていたが一番効果が出ているのは闇属性の魔法に見えた。
あれだけの闇適性があって、しかもモルガン家の血筋なのに禁呪には一切適性がない、というのは可能性が低いように感じる。
ま、まぁ、でも?変身の禁呪に適性があると決まったわけではないし?
例え成功したって、リリーが夢のようなバケモノになるはずがないしな?
キリキリと痛み出した胃を押さえながら、いいようにいいように考えようとザグラスは努力する。
うちのリリーは輝かんばかりの美貌だし、男になったからって、それが損なわれることはないだろう。
リリーもマッチョになる気はないって言ってくれてたしな?
大丈夫、大丈夫だ…。大丈夫に違いないんだ……。
「ふわぁああ、あなた、さっきからどうしたんですの?悲鳴をあげて、とび起きたかと思ったら、なんだかぶつぶつ言って……。おかげですっかり目が覚めてしまいましたわ」
「あ、すまない。レミリア……」
どうやら隣のベットで眠っていたレミリアを起こしてしまったらしい。
「と、ところで、レミリア……。聞きたいんだが……」
「なにかしら?」
「リリーは、私たちの可愛らしい天使は……。筋肉ムキムキになんかならないよな……?」
震える声でザグラスがそう尋ねると、少しレミリアは考えるように俯き、そして顔をあげた。
「リリーは勇者様のようになりたいと言っていましたから、筋トレもありですわね」
「なんっ……?!?!」
真顔で言い放ったレミリアの発言に衝撃を受け、思わず座っていたベットから転げ落ち、ビターン!と顔から絨毯と激突するザグラス。
「そ、そんな……。馬鹿な……。うちの天使がゴリラに……」
そのまま気絶した夫にレミリアは「まぁ!」と、声をあげる。
「そんなところで寝ては風邪をひいてしまいますよ」
がくりと倒れ伏した夫に掛布団をかけてあげると、満足そうにレミリアは一つ微笑み、ベットに潜り直した。
モルガン公爵家当主ザグラスの受難は、まだ終わらない。