木々の精霊とハンノキの王(後編)
翌日、幼き日のわたしは、友人にも妖精の話をした。
しかし、その反応は芳しくないものだった。
考えてみれば、妖精に会ったなどとは、いまどき子供だって信じやしないだろう。案の定、周囲の友人からは馬鹿にされた。わたしは妖精達に教わった歌や踊りを披露したが、それで信じてくれる友人は居なかった。驚かせることには成功したが、信用は得られなかったのである。これが後に、わたしの幼少時代に暗い影を落としたことは、言うまでもないだろう。大体その日から『嘘つきのアリシア』なんて言われて、特に一緒に遊んでいた男の子達から苛められたのだ。一緒に遊ぶ友達も急激に減り始めた。
友達と遊ぶ機会の減ったわたしは、石笛をくれたニンフ――アリスにもう一度会いたいと思い立ち、いくつかの贈り物を手に森へと入っていった。贈り物は、庭で採れた果物と花だった。どういったものを贈れば妖精達が喜ぶか、幼い頭脳で必死に考え結果がそれだった。
少女の祈りは通じたのだろう。声がしたのだ。
「可愛らしいお嬢さん、こちらへおいで」
わたしはあのときのように、森の奥から誘うような声を聞いた。当時既に思い出の中にあったニンフの鈴の音のようなソプラノとは違う、甘い感じのテノールだった。どちらにしても、妖精の気配を感じさせることに変わりはないと、当時のわたしは思ったのだろう。
だが、ここからが悪夢の始まりであった。恐ろしい怪物が姿を現したのだ。
「可愛いらしいお嬢さん……捕まえたぞ!」
「きゃっ」
その怪物はごつごつとした感触の手で、わたしの手を掴んだ。声の主は母が話した、悪い妖精だったのだ。ニンフのように美しい妖精ではない。サテュロスに似た、角と獣の下半身を持つ逞しい男性だったが、非常に大柄な巨人でもあり、その肌は異様なほど赤黒く、グロテスクな印象を受ける怪物と呼ぶに相応しかった。母が語った闇の妖精は、きっとこんな姿をしているのだろう。
「こっちへ来い! お前は今から、我らが母の贄となるのだ!」
闇の妖精に捕まった幼き日のわたしは、森の中心にある広場に連れてこられた。喧騒が近づいてくる。吠えるような声が飛び交っていた。
「いあ!」
「いあ!」
「千の仔を孕みし森の黒山羊よ!」
そこで行われていたのは、この前のような妖精達の楽しい集会などではなかった。騒がしくはあったが、陰気で血生臭いサバトだった。集まっていた妖精達もまた、自然の暗い側面を表す、恐ろしげな姿をしたものばかりだった。
また、母が言った通り、森には恐い魔女が住んでいるという話も本当だった。魔女は闇の妖達のリーダーだった。いや、彼は男性だったから、『魔女』ではない。差し詰め、邪悪な魔法使いといったところか。何故、彼が魔法使いだと思ったのかと言うと、不思議な言葉を話し、それで妖精達に命令する様が、いかにも呪文を唱える魔法使いのように見えたからだ。
そいつは黒いローブに杖といったような、絵に描いたような魔法使いらしい格好はしていなかった。なにしろ、彼は一糸纏わぬ、生まれたままの姿だったのだ。結果的に、魔法使いというよりは、単なる変質者らしさを際立てていた。
「ひっ、嫌……」
元々、わたしはかなり重度の男性恐怖症を抱えていた。それを克服できたのはつい最近である。今でこそ、例えばブラックマン氏やルースベン氏と交友関係を結んでいるが、少し前までは、とにかく男性に近寄るのが恐かったものだ。この魔術師の男性を象徴する各種のパーツ、例えば厚い胸板、太く逞しい腕や脚。何より熱を帯び、脈打ち、屹立する『それ』――全てが唾棄すべき、おぞましいものに思えたのだ。これほどまでのトラウマを抱えたわたしにとっては、本来神聖な芸術作品であるはずのダビデ像は、強烈な恐怖の発作をもたらすものだった。その理由は、この魔術師にほかならない。確か、ある日を境に、わたしは一度も男の子と遊ばなくなったが、それはこの日が境目だったはずだ。
裸の魔術師が手に持っているものは、魔法の杖よりも剣呑な気配を漂わせる、いかにも不穏な代物だった。それは儀礼用の装飾が施されたナイフで、しかも赤黒い液体がまだ滴っていた。その液体の正体は、辺りに横たわる無数の獣達が物語っていた。
「大いなる母は飢えたり!」
魔術師は叫んだ。悪夢の饗宴のメイン・イベントの始まりを告げる号令だった。
「『母』は既に子羊や雄牛を召し上がられたが、未だ満たされてはおらぬ。血だけでは、女神の喉は潤わぬのだ。そう、『母』は無垢なる魂を持つ供物を求めておられる!」
魔術師がそう言うと、赤い帽子を被った邪悪な小人が、幼き日のアリシア嬢を拘束し、血塗れの祭壇に縛りつけた。
「嫌! 離して!」
幼き日のアリシア嬢は金切り声を上げて助けを求めていた。泣き叫んでいた。しかし助けはない。ここは暗き森の奥であり、彼らの領域なのだ。だから猿ぐつわなども必要なかったのだろう。どんな声も届かないのだ。
更に、わたしをさらったサテュロスに似た怪物が、乱暴に衣服を引き裂き、少女を丸裸にした。当時のわたしの未成熟な体が、余すところなく悪しき妖精達の下卑た視線に晒されていた。
この悪夢が、過去の記憶を客観的に見ているだけのものに過ぎない以上、わたしにはどうすることもできない。単に夢としてこの映像を見ているだけなので、能動的に目を背けることさえできないのだ。
「若き生命と、穢れなき乙女の魂と血肉をここに捧げます――『母』よ!」
魔術師が叫ぶと、周囲の闇の妖精達もまた、囃し立てた。いあ、いあ、といった、奇妙な発音だった。
「いあ! しゅぶ=にぐらす! 千の仔を孕みし黒山羊よ!」
なにしろ子供の頃だったから、当時は魔術師が唱えた呪文の意味まではよくわからなかった。しかし、今はその意味がわかる――不幸なことに。
わたしはこのとき、大地の精霊の女王、神々の母、大いなる豊穣の女神――シュブ=ニグラスへの生贄に捧げられようとしていたのだ。
「いあ! しゅぶ=にぐらす! 血の生贄はここにあり!」
わたしは下腹部に強い疼きを覚え、その場にへたりこんだ。下半身に力が入らない――夢の中の出来事で、今のわたしに実体は無いのだろう。わたしが見た光景は、紛れもなく、わたし自身が敢えて今まで記憶から消し去っていた出来事だった――幼き日のアリシア嬢のへその下辺りに、魔術師の刃が深々と突き刺さっていたのだ。その瞬間、物凄い絶叫が森にこだました。幼子の命運は今まさに尽きようとしていた。
わたし自身の下腹部の疼きはますます強くなり、わたしの冷静な思考を混乱が侵食した。何故、わたしは今も生きているのだろう。どのようにしてこの危機から逃れ、生き長らえたのか? そもそも、これは本当に起こったことなのか?
目の前で行われていることは、本当に恐ろしいことだ。幼き日の自分が邪悪なサバトの生け贄となり、服を引き裂かれて丸裸にされ、不浄な欲望に満ちた視線を一心に受けた後、ナイフによって腹を裂かれる致命傷まで負った。しかもそれは、わたしが確かに経験したことだという確信が芽生えつつあるのだ!
わたしがニンフとの出会いの記憶を封じていた理由がわかった。わたしの妖精譚は、この事件とセットだったからだ。
「山羊よ! 森の山羊よ! 我が生贄を受け取りたまえ!」
そして魔術師が呪文の最後の一節を唱え終わると、木々の隙間から黒いロープ状のものが姿を現した。それはホウホウというフクロウのような鳴き声を発していた。やがて全体像が明らかになる。それは口があり、蹄のある太い脚で力強く立っていることがわかった。異質な生き物だが、全体のシルエットは木のように見える。
いくつかの資料を見た後なので、この偉大な生き物を指す名詞のいくつかを知っている。『木々の精霊』、『森の公子』、あるいは『黒い仔山羊』。かのロバート・ブロックの著作における記述に従うなら『ショゴス』である。幼い頃のわたしの認識では、母が語った恐ろしい『ハンノキの王』、あるいは『シューベルトの魔王』だっただろう。
『無名祭祀書』が明かすところによれば、この生き物は神の御使いである。偉大なる女神の代理人として、敬虔な礼拝者から生け贄を受け取りに来るときに現れる、聖なる獣にして精霊なのだ。だからきっと、目の前で泣き叫ぶ幼き日のわたしは、これからこの恐ろしい生き物に連れ去られてしまうのだろう。ナイフによって腹部に負った傷が、この世への別れを告げさせるのと、果たしてどちらが早いだろうか?
しかし、『ハンノキの王』の行動は、わたしの予想とは異なっていた。
「――えっ?」
この夢から得られた手がかりがあった。わたしが意識を失う前に見た、あの無残に萎びた死体が、どうしてあんな惨い死に方をしたのか――それは、この怪物が行った実践によって明らかになった。
「わた、わたしじゃ、ないよ、わた……」
『ハンノキの王』は、祭壇に捧げられた生贄――幼きわたしには見向きもせず、どういうわけか、魔術師を触手で捕らえた。そして恐ろしい饗宴が始まった。完全に発狂したカルティストであっても、どうやら恐怖というものは感じるらしい。その悲鳴の由来はわたしと同じ、目前へ迫る死の気配に対する恐怖だった。
「たす、おだずげ、おええ……」
悲鳴の原因が恐怖から純然たる苦痛へと移り変わった瞬間を見た。縄状の触手で厭らしい粘液の滴る口まで持っていき、噛みつき、その血を吸っていたのだ。
魔術師はすぐに声も出さなくなった。顔から血の気が引いて蒼白になり、急激に吸いつくされてミイラになる過程を見た。こうして出来上がったのは、わたしが寝る前に見た奇怪な骸と特徴を同じくする死体だった。
更に『ハンノキの王』は、別の触手を幼き日のわたしに伸ばした。『彼』には口があり、何か言葉を喋っていた。その意味まではわからず、わたしの耳には陰鬱な調子の呪文のようにしか聞こえなかった。
魔術師が『ハンノキの王』に捕まった時点で、その末路の恐ろしさについては、概ね想像も心構えもできていた。しかし、それでもわたしは魂からの悲鳴を上げた。幼き日のアリシア嬢の断末魔と、今のわたし自身の魂があげた悲鳴は、全く同時だった。