木々の精霊とハンノキの王(前編)
マヤ先生のミード・ティーがもたらした不思議な眠りは、奇妙なほど明晰な夢をわたしに見せた。
わたしの目の前に辺りに広がる風景は、セヴァン川が見渡せるグロウスターシャーの田舎町だった。わたしが二十年近くも慣れ親しんだ故郷である。
町中ではしゃぎ回る子供達の中に、一際特徴的な子供を見つけた。その可愛らしい女の子は、年の頃はまだ七つくらいだろうか。胸の膨らみも腰の括れもまだ見られないが、女の子らしい魅力は既に身に付けつつあったように思えるというのは、いささか自己評価が高過ぎるだろうか。
そう、彼女こそが幼い頃のわたしである。肌は確かに白かったが、それは白人のそれとは性質の異なるもので、髪は黒く、日本人形のような子だったから、周囲の駒形切妻屋根の洋館が立ち並ぶ風景と対比すると、少し違和感があった。
ただし、それでも、ナルシスト呼ばわりも覚悟の上で、可愛らしい女の子であったことは強調しておく。敢えて弁明するならば、見た目の問題と言うより、今ではほとんど残っていない、少女らしい可愛いげがあった。今でこそ可愛げのない女だとよく言われるが、当時はそうではなかったのだ。表情豊かでよく笑い、人とはよく交流を持っていた。
わたしも昔は本ばかり読んでいる子ではなく、よく外へ出て遊んだものだった。近所の森が友人たちと共有する秘密の遊び場で、男の子に混じって昆虫採集をしたり、かくれんぼをしたりしていた。そんなことをしたのが両親にバレて、こっぴどく叱られるまでがお約束だった。しかし、わたしも、わたしの友人も、なかなか懲りなかった。
そうして野山を駆け巡って遊んでいた頃のある日、わたしは不思議な体験をした。
その日は友人と森でかくれんぼをしていた。森林公園の舗装された道から逸れたところに、わたしは隠れていた。
「そこ行くお嬢さん」
「わたし?」
「そうよ、可愛らしいお嬢さん」
その途中、不思議な声に誘われて、幼き日のアリシア嬢は森の奥深くへと入っていった。
「可愛らしいお嬢さん、こちらへおいで。わたしと楽しく遊びましょう。こっちに綺麗な花が咲いているわ」
幼きアリシアの目の前に姿を現したのは、薄衣を身にまとった、とても美しい女性だった――この夢はわたしの過去の記憶で、その顔の細部はぼやけて見えないが、髪が黒かったこと、どこか非人間的な美を備えていたことは覚えている。
彼女はギリシャ神話に伝えられる美しい自然界の妖精、ニンフであった。少なくとも、わたしは幼心にそう認識したし、大人になった今の視点から見ても、その姿はそう映った。
「可愛らしいお嬢さん、どうかお名前を聞かせてくださいな」
「わたし? わたしはアリシアだよ。あなたは誰?」
「わたしはアリス。森の妖精よ。よろしくね、アリシア」
「アリスお姉ちゃんは妖精さんなの?」
「そうよ」
幼き日のアリシア嬢は、まだ人を疑うことを知らなかった。子供だって信じやしないことを、素直に信じたのだ。とはいえ、目の前の女性の美しさときたら、なるほど人間だと言われても到底信じられるものではなく、心が幾らか荒んで大人になりかけているわたしでさえ、彼女の言葉は信じざるをえなかった。
「さあ、こちらへおいで、可愛いアリシア。わたしのお友達が待っているわ。一緒に遊びましょう。歌や躍りを教えてあげる」
幼き日のわたしは、アリスと名乗ったニンフに手を引かれ、森の広場に案内された。
そこには古代ギリシャの人々の想像力を刺激したサテュロスや、美しく優雅なエルフ、羽を持つフェアリー、醜くて意地悪そうだが愛嬌のあるゴブリンといった、絵本の中の住人達が待ち受けていた。
彼らは楽しそうに歌い、踊っていた。わたしも一緒に踊った。時間を忘れてそうしたが、次第に薄暗くなり、木漏れ日による明かりがいよいよ頼りなげなものになったところで、ようやく門限のことを思い出した。
「ごめんなさい、もうそろそろ帰らないと、お母様に叱られてしまうわ」
「あら、もうこんな時間……ごめんなさいね、お父様もお母様も心配するでしょう。最後になるけれど、一曲だけ聞いっていってくださいな」
ニンフは奇妙な形をした石笛を取り出した。
「その笛は?」
「これを使えば、風の精霊に話しかけることができるの、こうやってね……」
ニンフは笛を吹いた。優雅で、聞いたこともない調子の調べが、森にこだました。すると、森がざわめき、不思議な形をした風の精霊達――これもニンフの顔と同様に、ぼやけてよく見えない――が現れ、光を放って乱舞し、木々の枝葉を揺さぶった。それはまさに筆舌に尽くしがたい、本当に幻想的で美しい光景だった。
ここへ来て、わたしが大人になるまでに失ってきた多くのものを実感せざるをえなかった。こんなに素晴らしい記憶を、何故今まで、忘れていただろうか?
「わあ、素敵……」
演奏が終わると、森は静かになった。バックダンサーの風の精霊達は、いつの間にか退場していた。
「ありがとう、妖精のお姉ちゃん!」
「名残惜しいけれど、可愛いアリシアに何かあってはいけないから、森の出口まで送っていくわ。次に会ったときには、その笛の使い方を教えてあげるから」
わたしは別れ際に、ニンフから石の笛をもらった。それを握ったときの、まだニンフの温もりが残っていたことが、昨日のことのように思い出された。
実を言うと、この石笛は、ニンフとの遭遇という不思議な体験の物的証拠となりうるもので、今も実家のわたしの部屋に飾ってある。わたしの小さい頃からの宝物だった。
森の随分奥深くまで来ていたけれど、ニンフの案内で森から帰ることができた。辺りはすっかり暗くなっていた。もう一人で家に帰られる場所に来た辺りで、ニンフはわたしに別れを告げた。
「またね、妖精のお姉ちゃん!」
「またね」
次に会うときは、この笛をニンフがそうしたように上手く吹けるようになっておこう。わたしはニンフに別れを告げる際、「さようなら」という言葉は使わず、「またね」という言葉を選んだ。
わたしが文学を志したきっかけ自体は、思えば健全なものだったと思う。自然の美と幻想の美を併せ持った妖精の世界との出会いに、霊感を刺激されたのである。
このように、最初は幻想的で、絵本の世界に迷い込んだかのような、貴重で喜びに満ちた体験だったのだ。ここで終わっていれば、わたしの心身は今よりも健全に育まれていたに違いない。
幼き日のアリシア嬢は、ここまでのことを家族や友に話した。
わたしが体験した妖精譚を、母は信じてくれた。ただし、ひどく叱られた。危ない遊びをしたわたしを叱るのは、いつもは父の役目だったが、その日だけは母がが怒った。確かに森の奥に一人で入っていくなど、危険極まりない行為だから、怒るのも当然である。幸いにして、わたしは何事もなく無事だったので、母の怒りが尾を引くことはなかった。
その日の夜は、母が就寝前に森の妖精にまつわる話をしてくれた。それはわたし自身が体験したような、幻想的なおとぎ話だった。
「でも、今後は森へ一人で行くのはおよし」
しかし、母は戒めの意味を込めて、こう付け加えた。
「今日はたまたま良い妖精さんに出会えたみたいだけれど、中には悪い妖精さんも居るのよ。そういう妖精さんに出会ったら、さらわれて、食べられてしまうわ」
「妖精さんにも、良い妖精さんと悪い妖精さんがいるの?」
「そうよ。悪い子は、悪い妖精さんにさらわれてしまうのよ。それにね、昔から森には魔女が住んでいるの。恐い魔女がね」
「ふーん」
「あっ、その顔は信じてないわね。ママがこれからする話をよく聞きなさい、きっと森へは恐くて近寄れなくなるだろうから」
感受性の強い子供らしく、母の語った暗い妖精譚に、わたしは素直に恐れを抱いたのをよく覚えている。当時は知らなかったが、非常に有名な話で、『ハンノキの王』、日本では『魔王』と呼ばれるゲーテの詩、それを元にしたシューベルトの歌曲の話だった。その内容はご存知のことと思う。木々の精霊の王が子供を誘惑し、最後にはとり殺してしまう、あの恐ろしい話である。
しかし、幼き日のアリシア嬢は聞かん子だったから、こうした形で警告をされても、素直には従わなかった。わたしの人生の分岐点は、アーカムでマヤ先生に出会ったことだと思っていたが、実はもっと前の、後述する出来事だったかもしれない。