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白い姫君と黒い巫女  作者: 標準的な♂
復活の日
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天使ディラエの導き

 甘く痺れるような、何とも言い難い不思議な体験を経た後、それから暫くは平和な日々が続いた。少なくとも、単に起きた出来事だけを辿るなら、全く平穏無事であったと言えよう。あのとき受けた異様な喪失感と疲労は、三日程で急激に回復し、すぐに元の生活を送ることができるようになっていた。


 ただ、わたしの生活習慣は少し変わった。大学における勉学に加えて、オカルトの秘伝書の本格的な研究に時間を割くようになったのである。


 その情熱のきっかけとなったのは、事件の爪痕が大分癒えてきた頃、マヤ先生の新作の小説を読んだことだった。『天使ディラエの導き』という題名で、シリーズものの第一作目にあたる作品らしかった。


 ストーリーは単純明快だ。天使ディラエを名乗る異形の存在に出会った主人公が、秘められた力に目覚め、邪悪な神々とそのけんぞくに立ち向かうというものだ。


 彼女曰く、日本における『中二病』なるものをテーマにしているらしく、ある種のヒロイズムとダイナミックな活劇の場面が多数見られ、逆にいつもの彼女の作品を期待していると、肩透かしを食らうものとなっていた。いつも救いのないホラー小説ばかり書いているヤズラエル・W・ウェイトリーにとっては、これは新境地となる作品のようだった。帯や背表紙にもそう書いてある。


 天使ディラエという言葉を最初に聞いたのは、ナイ神父ことナイル・A・ブラックマン氏から、お守り代わりにと貰ったフィギュアだった。その次は前述した『天使ディラエの導き』である。最終的にそのルーツが判明したのは、マヤ先生が所蔵する稀覯本のコレクションの一つ、ジョン・ディーによる翻訳版の『ネクロノミコン』だった。


 『ネクロノミコン』の名を知らぬは、オカルティストとしてもぐりと言えよう。これこそオカルトマニア垂涎の稀覯本の代表的なものである。原典はアラビア語の『アル・アジフ』といい、それが欧州に渡ってギリシャ語、ラテン語等に翻訳されたとされるが、残念ながらこれらのバージョンはマヤ先生の蔵書の中にはなく、ウェイトリー家の家宝として伝わるジョン・ディー博士による英語版(正確には写本のようだ。原本はミスカトニック大学図書館に寄贈されたようである)のみである。


 実のところ、ディー博士による翻訳版の『ネクロノミコン』は、より後期のバージョンに比べればましな内容であるものの、ラテン語版やギリシャ語版と比べて欠損の多いものらしい。また、訳者のディー博士が恐れをなし、特に危険な固有名詞のうちのいくつかに、別の無難な名前を与えて修正した形跡が見られた。ヤズラエル・W・ウェイトリーのペンネームの由来となったと思しき天使ヤズラエルは、その筆頭だった。ヤズラエルなる天使の元々の名称は不明だったが、ここにこそ『ネクロノミコン』の脅威の中核が秘められていると、わたしは推測している。


 マヤ先生はまた、『天使ディラエの導き』の執筆にあたり、オーキッド・シーゲル博士の論文を参考にしたとも述べていた。シーゲル博士はミスカトニック大学に籍を置く現役の生物学者であり、フェドーラ帽子を被ったあの考古学者を思わせる、活動的な探検家としても知られている。彼のフィールドワークは未知の生物の発見及び保護という成果をもたらしており、また生物の進化についての論文も発表している。


 これについては、どの辺りがそうなのかを、わたしは正確な形で知っている。シーゲル博士がもし読んでいたのなら、自身の論文のどの部分を参考にしたか、すぐに気付くだろう。あるいは、考えたくはないが、あの怪物の同族が居たとして、もし『天使ディラエの導き』を読んだのなら、すぐにわかる。要は、進化人類と称する一団が作中に登場するのだが、そのうちの一人の描写が、この前に会ったアルバート・フィッシュのなれの果てを思わせるものだったのである。


 となると、マヤ先生のこれまでのホラー小説のうちのいくつか、あるいは全部が、実在し、我々にとって差し迫った恐怖と課題を示したものであるかもしれないということになる。


 また、マヤ先生は尊敬する人物として、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの名を挙げている。ヤズラエル・W・ウェイトリーはラヴクラフトと同じ題材、例えばインスマス等に伝わる風習とか、古代の神々の脅威であるとかを扱ったものが多く、並行して読むと、明らかに強い影響を受けていることが伺えた。となると、ラヴクラフトが己の著作の中で描いた宇宙的恐怖もまた、実体を持った脅威であると考えられる。なにしろ、わたしが出会った食屍鬼グールは、ラヴクラフトが描写したものと全く同一の存在だったのだから!


 幸い、これらの事実を確認したのは、わたしの精神の均衡が回復した後のことである。もし事件の直後に気付いてしまったのなら、わたしの精神はより深い傷を負っていたに違いない。なにしろ、悪夢のような出来事のお陰で、夜中に一人でトイレに行けなくなったり(笑わば笑え、トイレで襲われたのだからトラウマにもなろう)、肉料理に強い忌避を覚えるようになるほどの心的外傷を負ったのだ。なんとか自分を言い聞かせて落ち着かせるのには、おおよそ一ヶ月程の時間を要した。あれだけの目に遭って、一ヶ月で元の生活を取り戻せたのは、むしろ早い方だろう。芯の強さには自信があるのだ。もっと褒めてもよろしい。


 あの事件が起こる前にも、『ネクロノミコン』や『無名祭祀書』を読んだことはある。実のところ、昔からいくつか不思議な体験をしているので、これらのオカルトの本の内容を受け入れる準備はあったと言える。しかし、今のわたしにとってのオカルトは、差し迫った問題であり、それらを打破する手段でもあった。


 『ネクロノミコン』等のオカルトの書物を読み進めるうちに、それらの記述のうちのいくつかが、今後あのような怪物の仲間に相対した際に役立つものだと気付いた。そうして智と神秘の諸力を蓄えることが、本当に神経をすり減らす作業だったことは、言うまでもないだろう。学業との両立には細心の注意と並々ならぬ努力を払う必要があったし、何より真の恐怖についての理解もまた進んだ為である。


 そうした奇書珍籍の中でも、敢えて手をつけずにおいたものがあった。そう、ダレット伯爵の『屍食教典儀』である。わたしがこの書物に格別の警戒心を抱いている理由は言わずもがな、あの忌まわしきアルバート・フィッシュのせいである。わたしは彼の復活と変容は、このカニバリズムの邪教を扱った書物にあると確信していた。いくつかの魔術妖術を披露してみせたマヤ先生が言うのだから、まず間違いない。わたしは――そう、ああはなりたくない。


 しかし、こうした恐怖はわたしの研究の効率を削いだ。これ以上魔道に手を染めるべきでないと、わたしの人としての本能が警鐘を鳴らしたことは、一度や二度ではない。既にその危険性が明らかである『屍食教典儀』以外の知識でもそうだった。


「頑張っているね。あまり根を詰め過ぎてはいけないよ」


 その日はマヤ先生が編集者との打ち合わせで留守にしていたから、代わりにブラックマン氏が立ち会っていた。これらの蔵書はマヤ先生の持ち物であると同時に、彼の持ち物でもあったからだ。


はかどっているかい?」

「いいえ。丁度、行き詰まっているところです」


 わたしは素直にそう述べた。実際、もし再びグールの毒牙が迫った際に有効な魔術をピックアップする作業は、想像以上に骨が折れる。学業との両立が課題となると尚更だ。


「そうか……まあ、コーヒーでも飲んで、頭をすっきりさせたらどうかな」

「ありがとうございます」


 ブラックマン氏が淹れてくれるコーヒーは美味である。砂糖やミルクは入れるが、わたしはブラックマン氏がしきりにコーヒーはブラックだと勧めてくるものだから、実際に飲んでみたのだが、これがなかなか絶品であった。豆本来の味とはこのようなものかと思い知ったものだ。ただし、万が一にでも溢して本を濡らすようなことがあってはいけないから、しおりを挟んで作業を中断した。


「どうしてオカルト、それも『ネクロノミコン』を?」

「実は……」


 わたしは今回の誘拐事件のあらましについて説明した。犯人は地獄から蘇った悪鬼であることも含めて。こんな蔵書を持っているくらいだから、多少なりとも理解があるだろうという判断から、少なくとも頭ごなしにオカルトの存在を否定するようなことはないだろうと思ったのだ。


「なるほど、それで『ネクロノミコン』か。暗がりに潜む連中に対抗するために」


 ブラックマン氏は納得したようだった。柔和な微笑みを浮かべている。マヤ先生にも確かに受け継がれているこの笑顔は、考えを読めないという点において共通していた。


「まさしく『天使ディラエの導き』だね」

「ええ。皮肉ですけれど、ウェイトリー先生の新作を読んだことがきっかけでした」


 マヤ先生の新作の主人公もまた、今わたしがしているように、天使ディラエに導かれて禁断の知識を得、力を獲得してゆくのだ。思えばわたしもまた、天使ディラエに導かれてそうしている。これは奇妙な偶然――否、因果関係があるので、偶然という言葉は適切ではないのだが、ともかく皮肉げで面白い状態だった。


「ところで、話は変わるけれど、実家とは連絡はとっているかな」

「……あっ」


 そうした研究に没頭するあまり、それ以外のすべきことに注意が行かなかった。これはわたしの悪癖の一つだ。アーカムへ来てもう一ヶ月ほどになるが、それまで実家に連絡を寄越していないのだ。これでは不孝な子と呼ばれても反論できまい。


「その様子だと、忘れていたね。どうだろう、この機会に手紙でも書いてみては? 聞けば、ミセス・グリーンウッドはその手の問題に詳しいそうじゃないか。何か得られるものがあるかもしれないよ」

「……お心遣い、感謝します」


 わたしはしばし研究の手を止め、実家に手紙を出すことにした。これもまた、わたしの今後の運命を左右する選択だったのだが……もちろん、今は知る由もなかった。

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