英国産の珍味
「お目覚めかしら?」
「……はい」
目覚めるとそこは、見慣れたブラックマン氏の邸宅のベッドの上だった。枕元にはマヤ先生が座っていた。その表情はあくまで穏やかで、先程の恐怖と神秘に満ちた存在とは異なるように思われた。
「大丈夫? ひどく、うなされていたようだけれど」
そこには温和な、平時のマヤ先生がいた。大口径の拳銃を冷酷に撃ち、尋常ならざる方法で化け物を破滅に追いやった、あの恐ろしい魔法使いではなかった。口数は少ないが温かみのある、見慣れたマヤ先生だった。
「あの……アルバート・フィッシュは、どうなったのですか?」
わたしは恐る恐る尋ねた。アルバート・フィッシュの決定的な破滅は確認していない。それを見る前に、わたしは恐怖に負け、意識を手放してしまったからだ。
「アルバート・フィッシュ? 何を言っているの?」
マヤ先生はきょとんとした様子で、首をかしげた。その動作は、かえって不自然なほど自然な態度のように思えた。
「……余程、恐ろしい夢を見たのね」
彼女はわたしを抱き締め、頭を撫でた。子供扱いされているようだったが、不思議と嫌な感じはしなかった。
そう言われると、あんなリアルな体験――断じて夢などではないあの出来事が、まるで夢であったかのように思えたのだった。わたし自身、できれば夢であってほしかったという願望があったせいかもしれない。
そう、マヤ先生の言うとおり、あれは夢なのだろう。わたしはそう思い込むことにした。世にも恐ろしい怪物が実在し、マヤ先生はそれと戦う魔法使い――典型的な夢物語だ。しかし――
「……どうしたの?」
「……お願いです。今日だけは、一人にしないでください」
わたしは咄嗟にマヤ先生の袖を引いていた。
ひどく恐ろしい体験――それが夢であれ現であれ、あんな目にあった後では、一人で寝るのは心細い。直後に、子供に対してそうするかのように、わたしの恐怖を察して甘えさせてくれたのも大きかったのかもしれない。
「……わかったわ」
マヤ先生は笑顔で応じた。
その晩、わたしはマヤ先生と同じベッドで寝た。親離れが大分遅かったことを思い出していた。一人で寝られるようになったのは、十歳を越えた辺りだっただろうか。多分、わたしが意識を手放す前までは、マヤ先生は起きていたと思う。
あれから数日。わたしは何事もなく、以前と変わらぬ生活を送っていた。変わるところがあるとするなら、ストーカーらしき視線を感じなくなったことくらいだろうか。
いや、もう一つあった。あの夢の内容はあまりにも明晰で、暫くトラウマになったのだ。トイレの個室と肉料理を見る度、あの恐ろしい出来事が蘇る。お陰て夜一人でトイレに行けなくなるという、幼子のような恥ずべき問題を暫く抱えることとなった。同じ理由で、肉屋に近付くこともできない。 馬鹿げた妄想だと理解してはいるが、肉屋の店員が食屍鬼に思えてならないのだ。この辺りの気持ちの整理がつくのには、ある程度の時間を要した。
あの恐ろしい出来事は、果たして本当に夢だったのだろうか? 確かに夢、それも悪夢のような話である。大昔の殺人鬼が現代に蘇り、わたしを襲った。わたしがあのまま犠牲になっていたのであれば、B級ホラーらしい話ではあった。だが、そのアルバート・フィッシュはマヤ先生により、単なる死よりも恐ろしい破滅がもたらされたのだ――それこそ荒唐無稽な話ではないだろうか?
よって、当初はあの一連の出来事を、夢であると言い聞かせることにしていた。しかし、そうすると、言いようのないしこりが残るのも事実である。
それを解消すべく、あの悪夢の体験から丁度一週間が経ったその日に、わたしはマヤ先生に切り出した。
「マヤ先生」
「何?」
「マヤ先生の書斎を使わせていただきたいのです。読みたい本がありまして」
「……」
マヤ先生は少し考える素振りを見せた。
「無理をしては駄目よ。最近、結構お疲れのようだから」
そう言って、渋々ながらも承諾してくれた。
書斎は相変わらず手入れが行き届き、人にも本にも最適な温度と湿度が保たれていた。
わたしは目的の本を探した。『ネクロノミコン』『エイボンの書』『無名祭祀書』……どれも素晴らしい稀覯本だが、今回はそれらに用事があるわけではない。
「あ……」
やはりあった。見つけてしまった。汚れ具合といい、明らかに見覚えのある冊子であり、以前見たときには無かったものが……
「わたしが慈悲の心で覆い隠しておいた真実を、よくも暴いたな」
ぞっとするような声がしたので、わたしは思わず、跳ねるようにして振り返った。ヤズラエル・W・ウェイトリー、マヤ先生はそこにいた。
「ひ……っ」
そう、食屍鬼と化したアルバート・フィッシュを恐怖で打ちのめした、あの玉虫色の瞳を輝かせながら!
わたしは短く、弱々しい悲鳴をあげた。恐怖が終わってなどいなかったこと、そればかりか真に恐るべきものに気付いてしまったことにより、あの変態の食屍鬼などは児戯にも思えるほどの、激しい感情に見舞われた。
「好奇心旺盛な子猫ちゃんだこと」
わたしは体を壁に押さえつけられた。男の人みたいに逞しい力だったが、マヤ先生の四肢や胴はあくまで細く、香水らしき甘い香りがした。
「おしおきが必要ね」
そして、マヤ先生はわたしの肩の辺りを軽く噛む。いや、単に噛みつかれたのではない。噛む力そのものは弱く、それ自体は心地よい甘噛みだった。
「あ……っ」
針で刺すような鋭い痛みが一瞬だけ走った後は、何の痛みもなかった。その代わりに、体から何かが抜けてゆく、奇妙な感触を覚えた。身をよじり、腕を振り回して脱出を試みたが、上手くいかない。抵抗しようという行動は全て無駄に終わった。体が痺れ、思うように動かなくなっているのがわかる。体ばかりか精神までも麻痺が広がり、思考能力をも奪われている感じがした。
「んっ、あぅ、あっ、おっ、んおぉ……」
わたしにとって未知の、名状し難い感触が全身を駆け巡った。痺れはじわじわと身体中に広がった。この状況を脱しようという意思は打ち負かされ、代わりに恐怖と恍惚感に支配された。普段なら自制するような、はしたない声が漏れ出てしまう。どこか獣じみた、自分の出したものとは思えぬ声だった。自分は今、どんな顔をしているのだろうか? きっと、他人には見せられないような、ひどく淫らな顔をしているに違いない。
「んっ……ふふ、はじめて食べる味だわ。ミルクみたいに甘くて――」
マヤ先生はわざわざ感想を聞かせるためだけに、一度口を離した。唾液が糸を引く様が、ひどく淫靡な美しさを際立たせていた。
そう、危うく化け物に食べられるところだったのを助けてくれたのは、他でもないマヤ先生だった。だが今は、そのマヤ先生に食べられているのだ――わたしの体から何かを抜き取られる感触が、今のこの行為が食事で、自分が彼女の前に饗された料理であることを示していた。
「――ご馳走さま」
ほどなくして、行為は終わった。だが体の中に残った疲労感、不思議な痺れ、虚脱感、喪失感――ほんのりと体を熱くする恍惚感は、わたしを動けなくするのに十分だった。
もはや一歩も動けないという有り様だったから、わたしはマヤ先生に抱き抱えられてベッドに運ばれた。
「ふふ――あんなことがあった後ですから、明日はゆっくり休んでくださいな。良いわね?」
そう言うマヤ先生の口調は、いつもよりもやや強い口調で、有無を言わせぬ感じだった。しかし、これがもし、わたしを安心させるような暖かな口調であったとしても、わたしは彼女に逆らえなかっただろう。
「……はい」
「良い子ね。それじゃあ、おやすみなさい」
わたしに布団をかけたマヤ先生は、頬にそっと口づけをした。
わたしはこのとき、すっかりマヤ先生の言うことに逆らえなくなっていた。身体にも全く力が入らなかったから、たとえその意志を燃やせたとしても、無駄なことだったのだろうが。なにしろ身を起こすこともままならないのだから。
明日は学校を休もう。そう思った。