玉虫色の瞳
そう、フルートの音が聞こえた。ただし、それはわたしの知るいかなる楽曲とも異なるもので、またどんな分類の音楽にも見られないタイプの音だった。ともすれば、適当に吹いて、たまたまその音色を奏でているだけととれるものでもある。当然ながら、常識的な審美の感覚においては許容されざる、冒涜的とも言うべき音色であった。
そんな異次元の楽曲を耳にした化け物の反応はどうであったか?
「誰だ! 何処にいる!」
少なくとも、この忌まわしいフルートの音色と、彼の倒錯した性癖からなる蛮行とに、因果関係は無いように思えた。怪物が手を止め、訝しげに首を傾げていることこそ、その証左である。
「こんなところに居たの、アリシア」
白い髪をたなびかせて現れたのは、マヤ先生だった。
助けが来た! それも、警察よりも前に。だがどうやって、ここを知ったのか? わたしの頭の中を、いくつもの疑問が駆け巡った。
それらの疑問は、既に断片的に解答が得られている。彼女はドアを開けずに入って来たのだ――入り口がその一ヶ所しか無いにも関わらず。蜃気楼の中に浮かび上がるオアシスの如く、彼女は現れた。化け物が実在するのだから、魔法使いが実在したところで、何を驚くことがあろうか。
「帰りが遅いと思ってたら、そういうことだったのね」
「……何をしに来たのかね」
「決まってるじゃない。その子を返していただくわ。アリシアが作ってくれるご飯は美味しいし、何より、その子は貴方にはもったいないものだから」
招かれざる客人を前に、怪物は敵意を剥き出しにして飛びかかった。恐ろしげなナイフのような鉤爪を振りかざし、マヤ先生の柔肌を切り裂かんとした。
しかし、それに合わせて銃声が響き、怪物は肩を押さえて倒れた。
マヤ先生の手に握られていたのは、銃口から紫煙を上げるデザートイーグルだった。わたしは銃に関しては素人だが、この破壊力抜群の大口径拳銃のことは知っている――恥ずかしながら、その知識源はコミックやカートゥーンだったが、それが女性の細腕には似つかわしくない部類の銃であることは知っている。
肩を撃ち抜かれた怪物は、悲鳴を上げてのたうち回っていたが、まだ息はあるらしかった。二本あるうちの一本の腕はまだ無事だったので、まだ完全に無力化されたわけではないのかもしれない。
「ご飯までに帰らないから心配したわ。帰ったらシャワーを浴びましょう」
マヤ先生は手錠を外してわたしを解放してくれた。驚くほど手際が良い――鍵を持っていないにも関わらず、簡単に手錠を外して見せたのだ。まるで魔法だった。
「ありがとうございます――でも、どうやってここを?」
「天使ディラエの導きによりて――なんて言うと、気取った言い方よね。ほら、義父さんがくれた、あの悪趣味なフィギュア。あれにGPSで現在地が確認できる機能が付いてたのよ」
一見すると真っ当な原理のように思えるが……わたしには、それがたった今思いついた説明で、実際にはもっと超自然的な方法によるものだと確信していた。あのフルートの音が関係しているのだという推測ができたのは、もっと後のことだった。
「――まあ! まあ!」
わたしの手錠を外し終えたマヤ先生は、何かに気づいたようで、手負いの怪物を放ってそれに駆け寄った。それは冊子のようだった。先生はパラパラと頁をめくって、その内容を確認した。
「『食屍鬼のカルト』じゃない! 貴方が持っていたのね――貴重な本を、こんなにして!」
マヤ先生はわたしの救出という目的も忘れてはしゃいでいた。そして怒りを露にした。この場に似つかわしくない百面相である。できれば、こんな鉄火場ではない場所で見たかった。
マヤ先生が手に取ったその本は、原題を『Cultes des Goules(食屍鬼のカルト)』といい、日本では『屍食教典儀』という小洒落たタイトルで知られているらしい。わたしも読書家の端くれだから、その本のタイトルと概要くらいは知っている。
最初にそれが出版されたのは、十八世紀初頭のフランスであった。この忌まわしき魔道の書は、当時のダレット伯爵であるフランシス・オノール・バルフォアがまとめた、邪教とその儀式に関する資料である。しかし、あまりにもおぞましい内容――日本で知られる『屍食教典儀』という題は、実に的を射ている――であるため、やはり発禁処分を免れず、現存するものはきわめて少ないという。
マヤ先生が怒っているのは、そんな貴重な本の頁を破って、勝手に冊子を作ったことだろう。こんな状況でなければ、わたしも彼女と同じ反応をしたに違いない。
また、食屍鬼とはアラビアに伝わる存在で、妖術を能くし、人肉を糧とする悪鬼とされる。まさに人喰いの邪教を扱った書籍のタイトルを飾るに相応しい化け物だと言えよう。丁度、目の前の化け物のような生き物がそうなのだろう。
食屍鬼の存在も含めて、目の前の化け物を見るまでは本気で信じてはいなかったのだが、この本にまつわる、ある伝説のことを思い出す。それもまた、目の前の怪物の存在によって真実であると証明された。
「こんなものを読めば、確かに人間を食べてみたくなるかもね」
……そう、屍食教典儀を読み、カニバリズムの禁断の魅力にとりつかれた者は、芽生える願望に理性を打ち負かされて人肉食へと走ることとなり、最後には真に人喰いの化け物に成り下がる――そのような言い伝えがあった。だから、この本は単に『カニバリズムのカルト』ではなく、もっと恐ろしい『食屍鬼のカルト』の題名がつけられたのだった。
この伝説が事実だとするのなら、別のもっと忌まわしい事実――この怪物が元々、少なくとも生物学的には、われわれと同じ人間であったこともまた事実であることをも意味していた。
「ところで、アリシアはアルバート・ハミルトン・フィッシュの話はご存知?」
マヤ先生は突然話題を振った。それは知っている名前だった。その名前の持ち主もまた、怪物が名乗ったフランク・ハワードという偽名を使っていたことを思い出す。
「彼はアメリカ犯罪史上最悪のシリアルキラーって言われているわね。元々倒錯した変態だったけれど、ある頃から殺人、そして人肉食に傾倒し始めた。最後には逮捕されて、一九三六年に電気椅子で処刑された――表向きは、そうなってるわね」
マヤ先生が一通りアルバート・フィッシュについて説明すると、肩を撃ち抜かれた怪物を見やった。動作と言葉が何もかも物語っていた。
知らない方が良かった情報だった。驚きを禁じえない。確かに犯行の際に用いた偽名の中に、フランク・ハワードの名前があった。死んだ筈の殺人鬼が、忌まわしきオカルトの稀覯本の力により、正真正銘の化け物となって蘇る――まるでB級ホラー映画のような出来事だが、実際に相対していたことがわかると、再び恐怖が込み上げてきた。それを証明する物的証拠は無いものの、怪物が先程嫌というほど見せた、サディズムとマゾヒズムが最悪の形で同居した唾棄すべき性癖は、マヤ先生の言葉に真実味を与えていた。マヤ先生が助けに来てくれたのは、本当に幸運なことだったのだ。
「しばらく、肉料理は結構よ。あまり思い出したくないでしょうから」
「……お気遣い、ありがとうございます」
辺りに散乱する彼の『食べ残し』を見た後で、ステーキやバーベキューが食べられる人間が居るのなら、わたしはその人物を尊敬する。距離を置こうとも思うが。
苦痛のあまり床を這っていた怪物が立ち上がった。
「あら、まだ居たの?」
マヤ先生は、怪物をゴミでも見るかのように、そう言い放った。自分で言いたいことを言ったので、もう用はないと言わんばかりだった。味のなくなったガムのように、もはや怪物に対する興味が消え失せているように思えた。その証拠か、得物のデザートイーグルを向けることさえしていなかった。
立ち上がった怪物は恍惚に身をよじらせながら、早口に捲し立てた。
「良いぞ、良いぞ――もっとぶって! デザートイーグルで撃たれる苦痛など、なかなか無い経験だ――だが、わたしは今、このお嬢さんを味わっているのだ。君のようにわたしを最適に痛めつけてくれる女性とは、もっと早く出会いたかった。だが、わたしの楽しみを邪魔するというのであれば、残念だが――」
「そう――それなら、仕方がないわね」
マヤ先生が瞬きをする――目の錯覚であろうか、彼女の赤い瞳が異常な玉虫色の輝きを放ったのが、一瞬だけ見えた。それは見てはいけないもののように思えた。
「大丈夫よ。心配要らないわ」
わたしの不安を察したのだろう――しかし、その原因はマヤ先生自身にあるのだ。これから先に彼女が行うことは、決して直視すべきでないと、直感が警告していた。
マヤ先生は怪物の方に向き直った。
「お、おお――おお」
アルバート・フィッシュの狂った精神を打ちのめした衝撃は、わたしに襲いかかったそれよりも大きいようだった。わたしも、あの一瞬見えた玉虫色の瞳からは、何か知ってはならないものの片鱗を感じ取った。彼は恐らく、その狂える魂とこの世ならざるものへの洞察ゆえに、わたしよりも多くのものを知ってしまったのだろう。あるいは、マヤ先生の方が意図して多くを見せたのかもしれない。
「お、お許しを! お許しを!」
化け物――かつてアルバート・フィッシュだった食屍鬼は、憐憫の念を呼び起こすような声で叫んだ。元々猫背だった身を更に屈めてうずくまっている。突然の恐怖の発作に見舞われていた。極まったマゾヒズムで死の恐怖すら補っていた男を、こうまで恐れさせたものが何なのか、わたしには想像もつかなかった。
「貴方様のものとは知らなかったのです! どうか、どうかお情けを!」
それまで余裕の態度を崩さなかったアルバート・フィッシュは、何か重大な事実に気付いたらしい。発作的な恐怖はそのためだろう。その原因がマヤ先生にあるのは間違いなかった。
「そんなに恐がることはないでしょう」
マヤ先生は優しく微笑んだ。白い顔と肌が、ますますこの世ならざる女神のものを思わせる美しさを醸しだしていた。そして、何処から持ってきたのか、椅子にその化け物を座らせた。
「アルバート・フィッシュは、自分が電気椅子で処刑されることが決まったとき、こう言ったそうね――『楽しみです、一生に一度の体験です、まだ試したことがありませんから』って」
マヤ先生は、椅子に座らせたアルバートを、鎖――何の金属かわからない、異常な色のそれで縛り始めた。不思議なことに、化け物は全く抵抗しない――それどころか、彼は自らその断頭台にも等しい椅子に座ったようにさえ見えた。
「やめろ、やめ……」
「見苦しいわね。貴方らしくないわ」
マヤ先生は冷たく言い放った。先程の穏やかな語り口調とは、打って変わった印象を受ける。
「そう遠慮なさらないで。もっと喜んでも良いのよ。他ではあまりできない経験ですから。電気椅子なんかとは、きっと比べ物にならないでしょう」
元の穏やかな口調に戻っていたが、その言葉の内容は恐るべきものだ。電気椅子よりも恐ろしい方法で、彼は破滅する。判事が死刑を宣告するときも、恐らくこのような印象を受ける話し方をするのだろう。感情と事実を切り離して言葉を紡ぐと、こんな話し方になるに違いない。
「やめてぇ……」
「さようなら、アルバート・フィッシュ。いい夜には、いい別れを……」
アルバート・フィッシュの弱々しい抗議の言葉に対するマヤ先生の返答は、実に非情なものだった――しかし響きが良かったので、破滅が関与しないのならば、わたしも使ってみたい言葉ではあった。
しかし、そこから先は――あまりよく覚えていない。化物を縛る鎖が白色に輝き始めたことと、嫌な腐敗臭がしたこと、最後に悲鳴とも嬌声ともつかない絶叫が聞こえ始めたところで、記憶は途切れている。もっと恐ろしい光景――アルバート・フィッシュが最終的に辿った末路も見た気がするのだが、これはよく覚えていない。多分、わたしの精神が案外繊細であったがために、自己保護のために失神を選んだのだろう。