山羊の森のアリシア(後編)
ウィルバー・ウェイトリー・Jr.は、毅然とした態度でお母様を睨みつけていた。
凄い勇気である。エリザベート・バートリはある種の超人的な精神を持っていたが、その彼女でさえ、お母様を見ると、極めつけの恐怖のために精神を破壊されてしまった。今はまだ、人間の魂にとって害の少ない黒い聖《・》母の姿をしているが、いつより恐ろしい姿になり、彼に牙をむくのかわからないのだ。
しかし、彼の確かな覚悟を秘めた瞳を見るに、バートリ夫人よりは恐怖に対する耐性は強いように思える。
なるほど、わたしを追ってここまで来るくらいなのだから、彼もまた精神的に超人なのだろう。その強靭な魂を支えるものが、わたしに対する愛情であるとするなら、女冥利に尽きるというものだ。
だからこそ、彼はここには来るべきではなかった。断言するが、もはやわたしとウィルバーさんとの間に、幸せな結末はあり得ないのだ。お母様は敵に容赦したりはしない。第一、わたしはもう、身も心もお母様のものなのだから。
「あら、ウィルバー君じゃない。どうしてここに?」
「マヤと、ブラックマンさんに問い詰めたら、ここに案内してくれたよ」
ウィルバーさんは怒りも露にそう答えた。大方、祝福を受けた父にでも会ったのだろう。わたしはまだ祝福を受けた父とは会っていないから、どのような変容を遂げた姿なのかはわからないが、恐らく常人には刺激が強いだろうから。
それにしても、相変わらず、マヤ先生の考えることはわからない。わたしに親切にしてくれたかと思えば、今度は意地悪なことをする。あの人はいつもそうだ。
「それで、アリシアの門出を祝福しに来られたの?」
「いや、アリシアを返してもらいに来た」
それは当たり前のことだった。ウィルバーさんの立場ならそうするだろう。ブラックマン氏がその協力を申し出て、しかも彼をここまで案内することができるのは意外であったが、彼がマヤ先生の育ての親であることを考えれば、別段不思議なことではないのかもしれない。
「嫌よ! アリシアは渡さないわ!」
当然、お母様はこれを拒否した。まるで駄々を捏ねる子供のようだった。このような性格が、母やわたしに受け継がれたのだろう。最後にこうやって駄々を捏ねたのは、意外と記憶に新しい時期、ミスカトニック大学へ留学したいと父に訴えたときのことだ。わたしの精神も、存外成長していないのかもしれない。
「まあまあ、お母様」
しかし、母は穏やかな口調で、お母様の癇癪を宥めた。
「アリシアだって女の子ですからね。いつかはお嫁に行くものですわ。わたしもあの子の母親ですから、素敵な殿方になら、娘をお任せしても良いと思いますけれど」
「ナツキがそこまで言うなら……」
お母様は納得していないようだ。ウィルバーさんが乱入したタイミングもあって、敵愾心をむき出しに彼を睨みつけている。
「でも、彼はアリシアのことをどれだけ知っているの? わたしよりもアリシアを愛してあげられる人なの? わたしが納得できるくらいの人じゃないと、この子は任せられないわ」
しかし、意外なことに、お母様はあくまでわたしの母親としての立場から意見を述べた。先程までは、わたしを自分の伴侶にしようと、婚約指輪まで用意していたことを考えると、少し納得がいかない。
「そう言うと思って、連れてきたんだ。彼がしきりにアリシアを返せとうるさかったからね」
これについては、ブラックマン氏が補足した。マヤ先生もまた、うんうんと頷いている。流石にお母様のことをよく理解している。
「そうですね。じゃあ、こうしましょう」
母はポンと手を叩いた。さも良いことを思いついたと言わんばかりに、得意気な表情だった。
「ウィルバー君に、今からアリシアの全てを見せるわ。それから目を逸らさずにいられたら、ウィルバーの勝ち」
「……」
ウィルバーさんは何も言わなかった。しかし、拒絶の意図は見受けられなかった。わたしの本性がどれだけおぞましいものであっても、その意思は揺らがぬという自信があるのだろう。
「決まりね」
「んっ!?」
言うが早いか、最初に母はわたしの唇を自分の唇で塞いだ。そして舌を互いに絡ませた。単なる親愛の意を表す口づけではない、大人のキスだった。
口を離した母は、ウィルバーさんに向けて微笑んだ。
「お母様の言う通り、愛する人のことは全部知ってなくちゃいけないと思うの。アリシアがどうやったら歓ぶか、とか。アリシアはね、今みたいにすると喜ぶのよ」
「あ……」
次に母は、人差し指でわたしの鎖骨を撫で、肩を甘く噛んだ。いつもマヤ先生やお母様にしてもらっていることだ。ウィルバーさんにはできないことでもある。何しろ、彼女達が吸っているのは血だけではないのだから。
「ふふ――知ってる? 知らないわよね。それとも知ってる? この子ったら――」
また、わたしの体のあちこちをまさぐる。ウィルバーさんからすれば、さぞ異様な状況であろう。自分の許嫁が、実母に身体を良いように弄ばれているのだ。しかも、二人とも全く同じ顔と身体を持っている。
「やめろ!」
ウィルバーさんは激昂し、母の不埒な振る舞いを咎めた。
「――ウィルバー君、この子を幸せにしてあげられるって自信はある?」
母がわたしの身体から手を離した。母の笑みは挑発的だった。あからさまにこの状況を面白がっている。周りを見ると、お母様もブラックマン氏も楽しそうだった。ただ、マヤ先生だけが無表情だった。
「アリシア。その子に貴女の全てを見せておやり」
お母様が言った。抗い難い強制力を持った命令であったが、わたし自身も望むところだった。
「はい。わかりました」
そう、彼はわたしのことをどれだけ知っているのか? また、恐らくまだ彼が知らないであろう真実を知ったとして、それでも愛情を保持できるのだろうか?
わたしにとっても、それは疑問だった。自分のことを好いてくれている男の人を試すような真似をするのは、女性として傲慢なのではないかと思うのだが、そうせざるをえない。なにしろ、お母様に対して、わたしを任せるに足る殿方であると、ウィルバーさん自身が証明しなければならないのだ。
だから、試さなければならない。ウィルバーさんが知りたくないであろう、わたしの諸々の秘密を知ってもらわなければならない。その上でなおも愛してくれるという殿方ならば、きっとお母様も交際を認めてくださる筈だし、わたしも愛情を捧げたいと思う。
「見て、ウィルバーさん」
最初にわたしは、ウィルバーさんの前で、大きく股を開いた。今、わたしは一糸纏わぬ姿である。わたしの身体が余すところなく相手の視線に曝されるよう、思いつく限りの淫らなポーズをとった。昨日までのわたしであれば、どんな人物が相手であれ、こんなはしたない真似はしなかっただろう。
「見て。わたしを見て。目を逸らしては駄目」
熱の篭った吐息、上気した頬。わたしは生まれたままの姿を、ありのままの自分の姿を、ウィルバーさんに見せつけた。わたしの身体、わたしの性癖、獣同然の浅ましいわたしの姿をだ。
多分、ウィルバーさんはわたしのこんな姿は知らないはずだ。わたし自身、ウィルバーさんに限らず、他の誰にも、こんな姿を曝け出した覚えはない。
それでもなお、ウィルバーさんは憮然とした表情でこちらを見据えていた。睨みつけていた、という方が正しいのかもしれない。彼の目的は、わたしのあられもない姿を見ることではない。わたしを取り戻すために、お母様の挑戦を受けて立っているのだから。
だが。
「ウィルバーさん、こんなわたしでも――」
不意に腹部に鈍い痛みを感じた。身体が内側から急激に膨らみ、今まで経験したことのない種類の激痛と、それに勝る異常な快感が走る。快感を除き、それは産みの苦しみというやつに違いなかったが、そうして起こった変化は、普通の妊娠とは異なるものだった。
「――愛してるって、言ってくれますか?」
こうして、わたしはウィルバーさんに真の姿をさらけ出した。
そう、わたしは人間ではなく黒い仔山羊であり、黒い巫女なのだ。
人間の女に似ているかもしれない。あるいはその名のとおり、黒い山羊にも見えるだろう。また、ここまでやってきたウィルバーさんのことだから、あの木々の精霊、ロープ状の食肢を持つお母様の子供達、黒い仔山羊のことも知っているはずで、彼らに非常によく似た生き物であることもわかるはずだ。彼が理解できないことがあるとするなら、わたしが他の何よりもお母様に似ているということだけだろう。
鏡が無いので確認できないが、わたしの首から下には無数の乳房と、異常に膨れ上がった腹部があることがわかる。これらの特徴は、ヴィレンドルフのヴィーナス、エフェソスのアルテミスといった、豊穣と多産のシンボルとされる女神像にしばしば見られるものだった。これらの特徴は、男性が女性に対して求める機能そのものである。このことを鑑みるに、今のわたしの体は、女性の体としての究極の形を備えているのだ――それが一般的な殿方の好みに合致するかはわからないが、どんな男の人だって満足させてあげることができる自信はある。これ以上の『女性』があるとするなら、それこそお母様だけなのだから。
「ああ――」
しかし、そんなわたしの姿を見た彼の表情からは、恐怖以外の感情は伺えなかった。無上の恐怖が、彼の魂を完全に凍てつかせていた。この上ない怖れが愛情を完全に打ち砕いた瞬間を、わたしは見た。もはやわたしを巡ってお母様と戦うことなどできそうにない。彼の魂は打ち負かされたのだ。
そんな表情が見えたのは、ほんの一瞬のことだ。彼はすぐに悲鳴を上げて目を背け、一目散に逃げ出した。恐怖と嫌悪感に耐えられなかったのだろう。
失望は無かった。それが当たり前なのだから。きっと、彼の目には世にも恐ろしい、グロテスクな怪物が映っていたのだろう。それだけでなく、その化物が明らかにわたしだとわかる特徴を備えているのだ。
多分、この怪物がわたしではなく、全く無関係の人間であったのなら、彼の感じる恐怖はいくらか軽いものだったのかもしれない。
ウィルバーさんの悲鳴が、彼の背中が、急速に遠ざかっていく。わたしにはそれが、単に一人の人間が離れていくというだけのことには思えなかった。
わたしは理解していたのだ。彼こそが、わたしの中の人間の最後の砦だったことを。それが遠ざかっていく――それは即ち、他のすべての人間がわたしから遠ざかっていくこと、自分自身が人間と相容れない生き物になったことを示していた。
「やっぱり、駄目だったみたいね」
母は結果を知っていて、ウィルバーさんをけしかけたようだった。男なんて皆同じと言わんばかりの、冷気すら感じさせる無表情は、見慣れた母のそれではなかった。
「いや、面白いものが見られた」
ブラックマン氏は高らかに笑いながら、ウィルバーさんの背を見送っていた。
「おめでとう、アリシア」
ブラックマン氏が振り向いた。こちらを向いた彼には顔が無かった。
「おめでとう、アリシア。おめでとう」
顔はないが、その感情は明白だった。それまでわたしに対して親切に接してきた彼の姿からは、まるで想像できない邪悪さを感じた。馬鹿な奴め。そう言わんばかりの冷笑的な態度を隠しきれていない。
彼の狙いも、後で理解してみれば、実にシンプルなものだったのだろう。わたしが黒い巫女として目覚める手助けをしていたに過ぎない。最悪のタイミングで父との和解を薦めたのも、ウィルバーさんを敢えてここに案内したのも、全部これが狙いだったのだろう。
ともあれ、こうして新たな黒山羊の巫女が生まれた。
後ろを振り返る。
「お誕生日おめでとう、アリシア」
マヤ先生もまた、わたしの誕生を祝福してくれていた。今までに無いほどの優しい微笑みだった。
「わたしからも贈り物をしないといけないわね」
マヤ先生の瞳が、玉虫色に輝いた。この目を見た者は、何かを見るということは知っていた。アルバート・フィッシュとエリザベート・バートリが、そのために精神を打ち砕かれたことも知っている。わたしには、一体何を見せるのだろう。
「瞬きをして。三回ね」
彼女の指示に従って、一度瞬きをすると、始まりの光景を見た。
わたしは、あのときの言葉通りのことをしていた。つい先程も見た光景であったが、今度は客観的にではなく、主観的にそれを見、体験した。母がそうしていたように、わたしは仔を産んでいたのである。腰の動き、獣じみた声、何より産み落とした生き物――何から何まで、わたしは母と全く同じ行動をとっていた。
以前、マヤ先生はこう言った。忘れもしない、アルバート・フィッシュの一件の翌日のことだ。
「貴女はこれから、産み、増え、地に満ちるのよ。ここを使ってね。それから、ここを使って、子供を育てるの。お母様も、きっとそれを望んでいるわ」
そう、これは始まりなのだ。
二度瞬きをすると、今度は終末が見えた。わたしが地上を埋め尽くしていた。人の姿はどこにもなく、わたしと同じ黒山羊の巫女と、祝福されしものが、人類を完全に駆逐しているのである。これもまた、マヤ先生が見せた幻視である。しかし、さほど遠い未来の話ではないことを、わたしは確信していた。
三度目の瞬きを終えると、見覚えのあるブラックマン邸の景色に戻ってきた。わたしの身体はベッドに仰向けになっていた。見慣れたものとなった天井が見える。
「おはよう、アリシア」
「……」
起こしに来てくれたのはマヤ先生ではなく、マリアだった。見慣れた天井と、何よりもわたしにとって親しみ深い黒い聖母の顔が、わたしの視界に飛び込んできた。
「早くご飯を作って頂戴。貴女の作ったシチューを食べたいわ」
「……はい、お母様」
わたしは確かに、マリア・ブラックマンをそう呼んだ。彼女は否定するでもなく、それが自然なことであるかのように微笑んだ。
「おはよう、アリシア。昨日はよく眠れた?」
リビングへ行くと、マヤ先生がブラックマン氏がアーカム・アドヴァタイザーを広げて待っていた。ブラックマン氏は仕事で不在のようだった。
その日は三人で食卓を囲んだ。いつものマヤ先生、いつものマリア――否、お母様だった。つい先程まで、とびきり強烈な体験をしていたにも関わらず、わたしは日常が戻ってきたという実感を早くも感じていた。
だが、マヤ先生がもたらした鮮烈な体験、あれは夢だったのか――否、そうではない。わたしの下腹部に確かに感じる生命の気配が、今までの体験の全てが真実のものであると告げていた。マヤ先生が最後に贈り物として見せた、始まりの光景が、近い未来のことであるという確信があった。
然るに、以下の言葉を以て、わたしはこの話を締めよう。
「いあ! しゅぶ=にぐらす! 千の仔を孕みし森の黒山羊よ――」




