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白い姫君と黒い巫女  作者: 標準的な♂
花嫁は誰の手に
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山羊の森のアリシア(中編)

「アリシア」


 母は立ち上がって、こちらを見据えた。ウサギのそれに似た赤い瞳からは、何か例えようのない禍々しさが感じられた――他でもない、わたし自身の目がそうであるように。


「横になって」


 先程まで母が()()()の子を産み落としていた祭壇の上で、言われるままに仰向けになった。


 その日は雲ひとつない晴天だった。夜空には月や星々がよく見え、その輝きの美しさを余すところなく堪能することができた。まるでこれから行われる聖なる儀式と、わたしが本当の意味で大人になる瞬間とを祝福しているかのようだった。


 また、星を見ることで、運命に関する幾つかの有益な情報を読み取ることができた。ブラックマン氏の薦めのとおりに学んだ甲斐があり、黒い巫女としてどのように生きればよいのかという指針も得られたのである。


「アリシア」


 ()()の触手がわたしの身体を撫でた。その全容は見えないが、恐らく見たことのある生き物だ――何度か夢に見た、あのハンノキの王の姿に違いなかった。ただ、触手は髪の毛の束のような質感で、その肌触りはわたしが毎日手入れをしている自分自身の髪の毛と完全に一致していた。


 そして何より、その声――母と同じ、つまりわたしと全く同じ声で話すことから、この触手の持ち主の正体は明らかだった。あからさまに人間の姿をしていないが、それは母、ナツキ・グリーンウッドその人なのだ。


 もし、わたしに人間らしい心が残っていたのなら、この生き物を見たとき、この上ない恐怖を感じていただろう。その恐怖は、他人とは決して共有できないものだ。単にその姿や生態が恐ろしいというだけではない。ましてや、この生き物が尊敬に値する偉大な存在で、人間を容易く破滅に追いやる力を持っているからでもない。わたしにとって何より恐るべきことは、自分自身が()()と全く同じという事実である。人間の心では、到底耐えうるものではないだろう。


 しかし、今のわたしには、そのような事実に対する恐怖心はなかった。これまでわたしがされたことや、他人に対してしたことを通じて、自分が怪物そのものであることを、当たり前のこととして受け入れたためだ。


「服を脱いで」


 母が優しく、しかしはっきりとわたしに命じた。それに対して、わたしはこう答えた。


「――お母様が、その手で脱がせてくださいな。悪い男の人みたいに、乱暴にして。その方が興奮しますから」


 母がクスリと笑った気がした。わたしの答えに満足したらしい。わたしの受け答えも、この短期間で随分と堂に入ってきている。『無名祭祀書』によれば、黒い巫女は森の妖精達と深い関わりがあるとされているが、後に参照した別の資料では、スクブスやエムプーサといった夢魔の伝承の元になったのではないかと推測していたが、さもありなん。確かに、()()()と黒い巫女の関係は、リリス(アダムの最初の妻で、悪魔、特に夢魔の祖とされることが多い)との子らである夢魔リリムの関係に似ている。近年の研究によると、そもそもリリスもまた起源の古い地母神であり、()()()との結びつきがあって然るべき存在なのだ。われわれシュブ=ニグラスの娘である黒い巫女と、リリスの娘達であるリリムとを結びつける研究者の考えは、実に正鵠を射ていると言えよう。


 話は逸れたが、少し前まで嫁入りを控えた貞淑な娘として振舞っていたわたしが、先述の夢魔の如く淫靡に振る舞うのは、自分自身でも驚くべきことだ。しかし、わたしの本質が人間よりもケダモノ、あるいは植物、そしてそれら以上に()()()に近いことに由来していることを考えれば、淫らな振る舞いも当たり前のことなのだ。黒い巫女は豊穣と多産を司る地母神の眷属であり、()()()のことを別にすれば、繁殖が最も優先順位の高い行動である。


「そう? じゃあ、お言葉に甘えて――ちょっと乱暴にするわ」

「きゃっ」


 母の触手がわたしの服を引き裂き、下着が露出した。自分で挑発しておいて何だが、いざ乱暴にされると、ちょっと恐い。しかし、これから起こる出来事に対する期待は、それを上回っていた。


 母は次に、下着を乱暴に引きちぎり、わたしの胸を鷲掴みにした。その手には握り潰さんばかりに強い力が加わっており、さしものわたしも苦痛を覚えた。しかし、実母に乱暴にされているという事実が、どうにも倒錯的な興奮をもたらすことも事実だ。


「あら、随分と発育が良いのね。男の子の注目の的だったでしょう?」


 また、母はわたしのバストサイズを確認した。わたしの身体はやや早熟で、十歳の頃に胸の膨らみが現れ始めて以来、かなりの頻度で新しい下着の購入を迫られていた時期があったことを思い出す。


 わたし自身、今まで男の子の視線はあまり意識していなかった――むしろ、敢えて意識しないようにしていたが、思い起こせば、わたしを見る殿方の視線には、顔ではなく胸に向けられるものが多々あったように思える。


「あら、お母様も同じものをお持ちでしょう? これでお父様をものにしたの?」

「そうよ」


 そうなのか。男って単純だなあと思いつつも、多分、事実はもう少しドラマチックな出会いと恋があったのだろうと推測する。さもなくば、父は色香に惹かれたがために破滅した、あまり同情には値しない人間ということになってしまう。仮にも二十年近くも自分を養ってくれた父を、そういう視点では見たくない。


 全ての衣服が脱がされ、生まれたままの姿で仰向けに寝転ぶ。石のひんやりとした感触と、夜風の冷たさが心地よかった。しかし、誰かに見られているかもしれないと思うと、羞恥と興奮で体がかっと熱くなる。


「大丈夫よ。()()()は、どんな男の人よりも優しくしてくれるから」


 母がそう言うと、不意にわたしの頬を黒い手が触れた。先程までそこには確かに居なかったが、今やその気配は色濃く感じられた。


 ()()がいる。()()()が来られたのだ。


「あ……」


 黒いことを除けば、わたしのものと殆ど変わらない、女の子らしい細腕であった。彼女の手の動きはあくまで繊細で、痛みは無いが、少々くすぐったい。他人にこのように身体を触られることは、本来はとても不愉快なのだが、不思議と嫌な感じはしない。()()()に触れられているのだから。


 それが誰の手なのかは明らかだったが、そもそも、この黒い手にはそもそも見覚えがある。その肌の色、マニキュアの好みは、わたしがよく知っているものだった。薬指にはめられた銀無垢の指輪だけが、わたしの記憶と違っていた。


「やっと仕上がったのね、わたしのアリシア」


 手ばかりではない。この声も印象によく残っている――否、この声ばかりは忘れてはならない。この方に最初に出会ったときに覚えた、下腹部の疼きと全身の高熱も同様に。


「アリシアは誰にも渡さないわ。ウェイトリーの小倅になんか、渡すものですか。勿論、マヤ姉にもね」


 その顔がわたしの視界に入ってきたとき、彼女が誰なのかがはっきりした。マリア・ブラックマン、否――()()()が耳元でささやいたのである。


 わたしが彼女と出会ったときに現れた身体の変調は、要するに、マリア・ブラックマンが黒い聖母、()()()だったためだ。彼女の眷属であるわたしは、()()()と直接出会ったことで、意識せずとも全身の細胞一つ一つが歓喜の雄叫びを上げたのだろう。


 つまり、趙江がわたしを生け贄に捧げて行なった儀式は、実は失敗などしておらず、完璧に成功していたことになる。なにしろ、彼の目論見通り、ちゃんと()()()が黒い聖母として現れたのだから。


「受け取ってくれる?」


 ()()()の黒い手が、わたしの薬指に自身のものと同じ指輪をはめようとしていた。この指輪は婚約指輪であり、わたしが()()()に忠誠を誓った証でもある。


 そういえば、わたしには婚約者が居た。そういえば、などという表現をするあたり、もうわたしの心の中にその婚約者の存在はないのだろう。ウィルバー・ウェイトリー・ジュニア氏――ダニッチの怪の混血児とは似ても似つかぬ好青年。本来ならば、わたしの薬指に指輪をはめるのは、彼の役目だったのだ。


 しかし、もはや彼は、黒い巫女たるわたしの伴侶に相応しくない相手だ。わたしもまた、彼のような男性の妻としては相応しくないだろう。もっと相応しい女性を探した方が、きっと幸福を掴めるに違いない。


 彼のことは忘れよう。そう、それがお互いの為なのだ。お互いにとって幸せになるには――


「駄目だ、アリシア! そいつを受け取ってはいけない!」


 男の人の声がした。はっとしてそちらを向く。


 ウィルバー・ウェイトリー・Jr.が、われわれのあられもない痴態を見て、この世の終わりでも見てしまったかのような恐怖の表情で、慄然として立ち尽くしていた。

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