愛娘の父親離れ
「アリシア……なのか?」
「……うふふ」
父の表情からは、あらゆる種類の負の感情を読み取ることができた。驚愕、恐怖、絶望、憤怒、悲哀――それはそうだろう。ブラックマン氏は言っていた。父もまた、わたしとの距離感を測りかねているのだと。恐らく、わたしにも言ったとおり、娘と二人きりで話し合ってみることを勧められ、意を決してわたしに接触を図ってきたのだろう。その結果として、おぞましい魔物へと成り下がったわたしと対峙したのだ。
二人きりで話し合うことにはなったが、よもやこんな形とは、不幸なことだ。
「お前はナツキなのか、それともアリシアなのか?」
つい先程までわたしを悩ませていた問題について、今度は父親から問い詰められた。
仲が冷え切っていたとはいえ、付き合いは長い。つい先程までなら、アリシアとナツキの区別くらいはついただろう。だが、今はそうではないようだ――わたし自身にしてみれば、もはやどうでも良いことになりつつあるのだが、父にとっては重要なことなのだろう。
「まあ、お父様ったら。わたしとお母様の区別がつかなくなったの? わたしの方が、お母様よりも気品があるでしょう?」
「黙れ! わたしを父と呼ぶな、この化け物め――わたしが知っているアリシアは、そんな気の利いたジョークとは縁のない娘だったぞ」
仕事で留守にしがちだった割に、わたしのことは意外とよく見てくれていたらしい。
わたしには彼の血が一滴も流れていないことは明らかだったが、こういう部分は間違いなく父親だった。だからわたしも、今後共に父のことは父と呼ぼうと思っている。
本当にタイミングが悪い。もっと前――ウェンディをつまみ食いして、母と一つになる前であれば、和解の糸口になりえただろう。
もっとも、ブラックマン氏に相談に乗ってもらった直後に、父と呼ぶな、などと面と向かって拒絶されたら、もっと酷い形で狂気に陥っていたかもしれないのだが。
「お母様に似ましたからね」
「似ているだと? 同じの間違いではないのか?」
やはり、わたしと母の秘密には、とうの昔に気付いているらしい。当然だろう。そのためのDNA鑑定なのだ。その結果はわたしには知らされていないが、彼自身は知っているはずである。
「ええ。わたしにお父様の血は流れていませんから」
少し前なら、ブラックマン氏のお膳立てもあったことだし、親子間の距離を縮める努力をしたはずである。しかし、相手がわたしの変化に完全に気付いてしまっている以上、もはや和解はできないのかもしれない。
「そうだな。お前には、母さんの血しか流れていない。……DNA鑑定なんか、やるんじゃなかった」
母が言うには、マリア様に祈った結果生まれたのが、わたしだという。
今なら理解できる――要するに、ナツキ・グリーンウッドとアリシア・S・グリーンウッドは、全くの同一人物なのだと、遺伝子がそう述べていたのである。DNAが全く同じなのだから、似ていて当たり前なのだ。多分、わたしが最初から人間ではないことも含めて、そのとき完全に理解したのだろう。
父が離婚に踏み切らなかったのも、母の不義のようなありふれた事件が理由ではなかったのである。あの母を野放しにできないというのが、本心のどこかにあったに違いない。あるいは、それでもわたしが成人するまでは面倒を見るつもりだったのだろうから、何も知らないわたしに対する同情心のようなものはあったのかもしれない。
いずれにせよ、父のわたしに対する感情は、これではっきりした。やはりブラックマン氏が言ったとおり、わたしにどう接して良いのかわからなかったのだろう。単なる嫌悪だけではない。そこには怒りがあり、驚愕があり、失望があり、何より理解を超えたものに対する恐怖があって、それに愛着まで加味されているのだ。それが単純な感情であるはずがなく、普通の父親のように接することもまた、非常に困難だろう。
「これで懲りたでしょう。知る権利なんて、声高に主張するものじゃないわ。知らない方が良いこともあるのだから」
「まったくだ。後悔している。何も知らないままでいた方が、幸せだったのかも知れんな」
「くすくす」
わたしは微笑んだ。父にこうして笑顔を見せるのは、本当に久しぶりのことだ。
しかし、父はと言うと、かつてない程の激怒の表情を見せた。
「このあばずれめ、人間以下のけだものめ――アリシアに何をした?」
父はわたしの胸倉を掴み上げて言った。恐怖を振り払って、ただひたすら言い様のない激情をわたしに――いや、ナツキ・グリーンウッドに叩きつけたのである。
「私とアリシアは一つになって、大人になったわ。大人のキスも、男の人を喜ばせる方法も、全部覚えましたのよ」
わたしは動じることなく、にっこり笑って、紛れもない事実のみを述べた。その物言いは、母にそっくりであった。母が男の人を文字通り食い散らかすために誘惑する、あの蕩けたような笑みを、意識せずに形作っていた。
そう、わたし自身、取り返しのつかないところに来てしまっている。もはや人間とは相容れない怪物と化しているのだ――肉体的な問題だけではなく、精神的にも。
今こうしている間にも、わたしは新たな獲物と快楽を貪りたくてたまらない。その欲求を抑えて会話に応じることは、もはや苦痛でさえある。結局のところ、わたしの本質は理性の信奉者ではなく、本能にのみ忠誠を誓った獣なのだ。
「ねえ、お父様。あのときは貴方の子を産めなかったけれど、今ならちゃんとできるわ」
わたしの誘惑も、随分手慣れたものである。それが有効であるかはともかく、なかなか様にはなっているのではないか?
わたしの意思が、否、身体中の細胞全てが、熱い熱に侵食されてゆく。ああ――この人を食べたい。そうすれば、わたしを取り巻く人間関係に決着がつくに違いないのだ。グリーンウッド家のお嬢様でも何でもない、一匹の獣となって野に帰るのだ。
「黙れ、黙れ――アリシアの顔で、そんなことを言うな!」
しかし、この激情こそは、父のわたしに対する感情の正体であり、答えであった。幼少の頃、森の精達との不思議な体験よりも更に前、父がわたしに見せた愛情は、間違いなく真実のものだったのだろう。
「あの顔でなければ良いのね」
だからこそ、わたしは彼とは決別せねばなるまい。本当に――タイミングが悪い。あと一日早ければ、互いにとって不幸な結末にはならなかったものを。
今やわたしは、自分自身がどういう存在なのかを完全に理解していた。それに対し、父はまだ、本当に恐ろしい真実について知らないと見える。だからこそ、わたしの本当の姿を見せて、本当に相容れぬ存在であることを教えてやらなければ。この辺りが、まだわたしがナツキ・グリーンウッドと一つになりきれていない点でもある。母なら、間違いなく何も知らない父を食い散らかすだろう。
「駄目よ、アリシア」
背後から聞こえた声に反応して振り返ると、そこには美しい女性が立っていた。マヤ先生だった。今日は一段と美しく見える。玉虫色の瞳、白い肌、白い髪。そのように作った人形のような整った顔立ち。
「まずは立派に成長したところを、ちゃんとお父様に見てもらわないと」
「あら、ちゃんとお見せするつもりでしたけれど」
今やわたしも立派な黒山羊だ。お母様からすれば、まだまだ子供なのだろうが。
「そうではなくて、女の子としても立派になったでしょう? 自分で言ったことを忘れたの?」
マヤ先生はわたしの服を乱暴に引き裂いた。思えば、アルバート・フィッシュ然り、趙江然り、何人もの殿方の目に晒してきた素肌である。少し前までは、こんな形で素肌を晒したのなら、羞恥のあまり顔を真っ赤にしたものだが、今や恥ずべきことなどない。
「アリシア……っ!」
父の顔から血の気が引いているのが見てとれる。先程までわたしに向けていた怒りは、理解のできないものに対する恐怖によって塗りつぶされているように見えた。
多分、ウィルバーさんのような男性と引き合わせたのも、せめて信頼できる男性にわたしを任せようという親心からの行動だったのだろう。
「じゅるっ、ずず……んんっ」
「あ……んっ、お上手……」
わたしはマヤ先生の鎖骨を軽く噛み、舌を当てた。わざとらしく卑猥な音を立てて、彼女を味わった。
今までにない味わいだった。初めて聞くマヤ先生の嬌声も含めて、何もかもが新鮮だった。味については、今まで食べたエリザベート、ウェンディ、そして母と比較して、人間の部分が極端に少ない――否、全くないために、完全に違う味として認識されたのだろう。彼女の力がわたしの中で駆け巡る感触は、どんな麻薬でも経験できないであろう、甘美極まるものだった。癖になったらどうしよう。
今のこの行動を、ウィルバーさんが見たら、どんな顔をするだろう? 婚約者を差し置いて、こんなことをする許嫁の姿を見たとしたら、酷いショックを受けるに違いない。
「ねえ、アリシア。わたし、良い解決策を知っているわ」
行為の最中、マヤ先生はわたしの耳元でささやいた。何か名案があるらしい。思えば、今までマヤ先生が間違ったことをしたことがあっただろうか? 残酷ではあったけれど、その一方で、殺すのは決まって悪人であったし、わたしに対してお仕置きをするのも、わたしが悪い子だったときだけではないか?
「頑固なお父様でも、お母様の祝福を受ければ、きっとアリシアに対する誤解も解けるわ。お父様は、まだお母様と会ったことが無いでしょう?」
「そうですね。流石、マヤ先生ですわ」
何故、こんな簡単な解決策を思い浮かばなかったのだろう? お母様に全てを委ねれば、間違いなどありはしないではないか。
「やめろ……」
父は必死になって抵抗するも、マヤ先生の力の方が強く、素早かった。彼女は父をただちに押さえつけて抵抗を封じた。
父が虚弱という訳ではない。むしろ、歳の割には壮健であり、体力的には平均的な男性よりも大分優れているはずである。しかし、マヤ先生の力は筋力だけではない。彼女に触れられると、力が入らないのだ――どんな豪傑や怪物であろうと、例外ではない。現に、マヤ先生は肩しか掴んでいないが、それでも父は抵抗できないのだ。
「あら、逃げれば良かったのに。そうしなかったということは、期待していたのでしょう?」
「大丈夫です。痛くはしませんから。むしろ、わたしが今感じている快感を、お父様にも知ってもらいたいのです。男の人だと、少し感じ方が違うと聞きますけれど」
わたしは父の恐怖を和らげるため、そのように説明した。恐れることなど何もありはしないのに、父はひどく恐怖していた。
「イシュタル、神々の母、黒き聖母――いあ! しゅぶ=にぐらす! 千の仔を孕みし森の黒山羊よ!」
わたしはお母様の名を呼んだ。すると、すぐ近くにいたようで、ただちに現れた。
その瞬間、洗面所が真っ暗になった。光は何もないはずだが、わたしとマヤ先生、父の姿は闇の中に浮かび上がり、完全に認識できた。
ああ、お母様の鼓動と息吹を感じる。上等な揺りかごでさえ、かような安らぎをもたらすことはできないだろう。
「ご覧ください、お父様。わたしのお母様です」
「あ……? あ……?」
現れたお母様の姿は、美しかった。それを見た父は、感動のあまり失禁し、涎を垂らし、奇声を上げて歓喜を表現した。少なくとも、わたしにはそう見えた。多分、普通の人間の目には、恐怖のあまり発狂したようにしか映らないのだろうけれど。
父は闇の中から伸びてきたお母様の手に引きずられて、何処かへと消えていった。
「良い子ね、アリシア」
お母様の声だ。お母様に誉められた。非常に光栄なことだ。とても嬉しい。
次いでわたしは、頭を撫でられた感触を覚えた。父を引きずっていった手とは別の、しかし全く同じ形状の手だった。黒い、しかしほっそりとした、白魚のような優雅さを持った指。
気がつくと、わたしは元の洗面所に居た。父の姿はなかった。お母様に連れていかれたのだ。次に会うときには、わたしとお母様に対する理解を深め、前よりももっと仲良くなれるだろう。
「アリシア」
「マヤ先生……」
父は居なくなったが、マヤ先生は居た。
「体が火照ってしょうがないわ。貴女のせいなのだから、責任を取りなさい」
「……はい」
マヤ先生はそう言って、わたしに左手を差し出した。わたしは手首を握り、人差し指をくわえて口に含んだ。そして、一通りそれを舌で弄んだ後、これから思う存分そうするように、生命力を吸った。
「ん……大分、力加減がわかってきたわね」
「んん、ん、ん――」
わたしは欲望のままに、マヤ先生の生命力を貪った。ああ、やはり癖になりそうで恐い。美味もさることながら、人間の延長線上でしかないものの生命と比べて、流れ込んでくる力が質量共に段違いだ。マヤ先生の体の火照りが、こちらに伝わってくる。
「あふ……っ!」
「んん、ん……っ!」
物凄い熱だ。脳が焼き切れるかのようだ――マヤ先生とマリアに脳を摘出されたので、正確な表現ではないのだろうが、とにかく意識が飛びそうになるほど、頭に熱が集中する。
「あ、あ――!」
わたしは感極まって、口を離し、声を張り上げた。限界に達したのだ――極度の高熱とエネルギーが、わたしの視界と意識を奪い去ったのである。




