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白い姫君と黒い巫女  作者: 標準的な♂
花嫁は誰の手に
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鏡の魔物

 ウェンディが去って、しばし一人で佇む。日は沈み、陽光はそろそろ蛍光灯の灯りを頼りにせねばなるまい――と、言いたいところなのだが、わたしの瞳が赤色になってから、暗闇でも問題なくものを見ることができる。まるで夜間に活動する吸血鬼がそうであるように。


 しかし、その熱が冷め、改めて自分の行いを省みると、世にもおぞましい事実が明らかになる。母の知られざる一面――吸血鬼の如き魔性を垣間見たときの、何倍もの自己嫌悪を覚えたのだ。しかも今度は、わたし自身が行ったことで、その相手は敵ではなく友人ときている。


 鏡が恋しい。そこに映っているわたしが鬼畜の類ではなく、人間の姿であることを確認しなければ! さもなくば、わたしは本当に身も心も化物になってしまったのかという不安から逃れることはできない。


 わたしは洗面所に向けて、慌ただしく駆け出した。こんなときばかり身体が軽い。


「……っ!」


 映っているのは、見慣れたわたし自身の顔だった。赤い瞳を除き、造形としては何一つ変わったところはない。だが、それでも、鏡に映っているその顔からは、以前のわたしには到底持ち得ない、人外の色気と威厳が備わっているように見えた。このように書くと、ナルシシズムをこじらせていると思われるかも知れないが、鏡に映る顔が自分の顔として認識できないほどに違和感があるのだから、こう表現したところで、自分自身を褒めているという感じがしないのだ。


「あ……あ……」


 わたしは思わず拳を振り上げた。自らの姿が映る鏡を叩き割らねばならぬという衝動に駆られたためだ。鏡に映る()()()が恐ろしい!


「アリシア」


 しかし、背後に立つ何者かに、振り上げた手を掴まれた。非常に強い力で、びくともしない。


「駄目よ。他人の家のものを壊しては。マヤ先生やブラックマンさんに迷惑になるでしょう」


 完全に自由であるはずの首も動かない。振り向くのが恐いのだ。鏡に映るその姿を確認しているにも関わらず、直接その顔を見ることが非常に恐ろしい。


 無論、()()()の顔は毎日見ているし、その声は誰の声よりも馴染み深い。他のどんな人物の声よりも、その顔と声はよく知っている。


「……お母様? お母様なの?」


 そう、わたしにとって最も馴染みのある声は、英語の発音の癖とかも含めて、完全に母の声である。わたしと同じ顔を持つ母親だ。これも馴染みの深い顔である。


 問題は、わたしも母と全く同じ声で話すことだ。正式な検査を行ったことはないが、恐らく声紋も完全に一致する。だから、意識して話し方等で雰囲気を変えてきた。こと日本語で話すときは、努めて母とは口調や語尾で意識して差別化を図ってきた。そうしないと、付き合いの浅い人間では全く区別ができないからだ。


「さあ? わたしがアリシアで、貴女がナツキかもしれないわね」


 彼女はくすくす、と悪戯っぽく笑い、曖昧な返答で誤魔化した。母が悪戯に成功したときの会心の笑みである。しかし、チェイテ城の地下牢で見た母の姿と、つい先程のわたし自身の振る舞いとを見比べると、わたしの背後に居る彼女が母であると、自信を持って断言できない。彼女の言うとおり、()()()()()()()()()()()()()()()


「……貴女は、誰なのですか?」


 わたしは質問の仕方を変えてみた。とはいえ、イエスかノーでしか答えられないような質問さえ誤魔化すくらいなのだから、まともな返答などは期待できそうもない。


「貴女が一番よく知ってるのではなくて? 何度も会ったでしょう? 付き合いも長いですし――ずっと、貴女を育ててきたからね」


 彼女は所々、わたしと母の口調とを織り交ぜながら話し、ますますわたしを混乱させた。本当に誰だかわからない。ナツキのようであり、アリシアのようでありもあり、そのどちらでもない別の誰かのようでもあった。わたしのよく知る姿と声を持つ、全く未知の存在だった。


 一昔前なら、自分自身のことはよく知っていたつもりであったし、母のこともよく理解していると、自信を持って言えた。以前のわたしならば、母がこういうことを言い始めたら、わたしをあまりからかうんじゃないと一喝し、目の前の相手の額をしたたかに打ちすえたことだろう。母がふざけていると断定できたためだ。


 だが、今はどうか?


 母については、最近になって、知らないことが急激に増えた。わたしは忘れはしない。夢魔の如く男の人と肌を合わせ、その精気を貪り、文字通り食い物にして殺したところを、わたしは見てしまったのだ。


 わたし自身もそうだ。そう、エリザベート・バートリを、母と全く同じやり方で吸い尽くし、貪り食らったのである。しかも今度は、友人をも毒牙にかけようとしていたのだ――およそ人間の所業と呼べるものではない。肉体だけでなく、精神的にも化け物になりつつあるようだとは、以前も思ったが、事はもっと深刻で、文明社会での居場所を失うのも時間の問題でしかない――いや、そんなことは認めたくない!


「わたしが用意したディナーはいかがだったかしら? 若くて瑞々しい果実だったでしょう? それとも、エリザベートみたいに、もう少し熟したものがお好み?」


 二種類しか食べ比べたことがないのでわからない――という言葉が喉から出かかったのを、ぐっと堪える。もっと酷い返事さえも思いつく上に、それがわたしの偽らざる本心だからだ。つまり、あんな出涸らしよりもウェンディの方が美味しかったと。しかし、それを口にしたが最後、わたしの人間性の最後の砦は、跡形もなく陥落することだろう。


 わたしは目眩を覚えた。わたしの人間性と獣性が戦っている。だが、獣が人間を打ち負かすことは、最早時間の問題でしかないだろう。武器を持たぬ限り、人は獣に勝てぬのだ――わたしの人間性は、強大な獣に対抗しうる武器を持っていないのだ。


「それとも、()()()()()なんかどう?」


 わたしの理性に危機が差し迫っている――わたしの顔をした怪物が、わたし自身を毒牙にかけようとしているのだ。そして、わたし自身も彼女を求めている。心臓の昂りは、恐怖によるものだけではなかった。


「見て。わたしの体を」


 目を逸らさなければ。残ったなけなしの理性が命ずるがままに、わたしは目を背けた。いじらしい抵抗だったに違いない。


 しかし、視界を自ら封じると、今度は衣擦れの音や、彼女の匂いがよりいっそう強く感じられた。


 頭がくらくらする。いや、どうして目を逸らす必要があるのか。ただの同性の体、幼少の頃に見慣れた母の体ではないか、何を恐れる必要がある――わたしは内なる囁きに負け、薄目を開いた。


「――ッ!?」


 見てしまった。それそのものは全く恐ろしいものなどではないにも関わらず、わたしにとっては特別な恐怖たりえた。


 同じなのは、顔と声だけではなかった。首から下――胸の膨らみ、腰の括れ、ヒップライン、太股やふくらはぎの肉付き、ほくろやシミのない白磁の如き肌――全て、わたしと完全に一致していたのだ。仮にわたしの体を味わい尽くした殿方が居たとして、彼女の体との区別はできまい。


「ほら、食べ頃よ。ウィルバーさんよりも、一足先に――ふふっ、わたしの体と命、ちょっと味見してみませんか?」


 鏡像の魔物は、わたしの声を使って、娼婦か何かのように誘惑する。既に降伏していたわたしの理性は、それでとどめを刺されて死に絶えた。


 食べ頃とはよく言ったものだ。ウェンディの瑞々しい生命力には感動を覚えたが、あれは少し痩せすぎて、物足りない。ところがどうだ、目の前にある肉ときたら――ウェンディよりもよく実った果実であろうことは、恐らく誰の目にも明らかであろうが、それがこんなにも蠱惑的に見えるとは。わたし自身の体であるにも関わらず!


 わたしの頭がかっと熱くなるのを感じた。もはや灯りに集まる羽虫も同然に、彼女の誘いに応じてしまう。心が折れるのは早かった。その行いの卑しさは言うに及ばぬが、せめて雅な表現を用いるならば、花に留まった蝶の如く彼女に口づけをした、としておこう。


「れろ……んちゅっ、あふぅっ」

「ん……っ、ちゅっ」


 わたしの理性や人間性、及びそれらへの固執も、思ったより脆弱なものであった。わたしの体が覚えていて、しかも味をしめているのだ。忘れることなどできようか。初めて他者の生命を貪ったときの興奮、背筋を走る快感、体を駆け巡った心地よい熱を。


「んむっ、んぁ……」

「んぅ……っ、ふふ、お上手」


 舌と舌とが絡み合う感触と、互いの唾液の味を存分に楽しんだ後、わたし達は口を離した。二人の唾液が混ざり合った液体が糸を引く様は、お互いがキスの感触を名残を惜しむ欲望を表しているかのようだった。


「ちゅっ、んっ、んむぅっ、じゅるっ」

「こら、音なんか立てて、はしたないわよ。でも、良いわ」


 今度は血液を味わう。一度開き直ると、最早、羞恥心などは劣情に味付けをするスパイスに過ぎなかった。だからわたしは、とびきり汚ならしい、恥ずべきやり方で目の前の相手を貪った。


 そう、ウェンディのときとは違って、歯止めのきかない欲望に身を任せ、ひたすら目の前の生命をしゃぶりつくしたのだ。相手がどうなるとか、今後のことだとか、そんなことを考える余地はなかった。


 行為の途中からは、目の前が真っ暗になった。何か目の前で火花が散るような光景が一瞬見えた後、わたしは完全に盲目になった。だが、わたしの眼前にいるものがどういう顔をしているのか、その息遣いと声とでわかったので、さほどの問題はなかった。


 何かが溶けてゆく感じがする。ふわふわとした浮遊感が芽生え始めると、段々と自分のしていることさえ曖昧になってゆく。


「――大きくなったわね、アリシア」


 行為のクライマックスに、わたしは声を聞いた。それは間違いなく母の声だった。


「……」


 心地よい浮遊感から解放され、わたしの視界が回復すると、彼女の姿は幻であったかのように消え失せていた。しかし、熱を伴う激しい体験の後には、わたしの失われた半身と巡り合ったかのような満足感があった。


 再び、洗面台の鏡を見る。


「うふ、うふ、うふふ……」


 そこに映る自分自身――恍惚の笑みを湛えた、浅ましい魔物へと成り下がったアリシア・S・グリーンウッドへの嫌悪感は、最早なかった。自分自身の魅力を再発見したような感じがして、むしろ嬉しかった。


 しかし、無粋にも恍惚感に水を指す者がいた。


「うふふ……あら、お父様。見ていらしたの?」

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