ディナーは貴女
母が去ってしばらくした後に入ってきたのは、ブラックマン氏だった。
「最近、夜遅くまで頑張っていたからね。だけど、あまり無理をしてはいけないよ。林檎、剥いてきたから」
「ありがとうございます」
ブラックマン氏は声を荒げて怒るでもなく、一定の包容力を保ちつつ、わたしを嗜めた。夜更かしが祟って倒れたわけではないが、特に反論する理由もない。貴方の養女と姪に脳を食べられたから倒れました、などと説明するのも気が引けるからだ。
思えば、少なくともアーカムに来てからは、ブラックマン氏が父親代わりであったように思える。彼に対して感じた父性は、わたしの実に父に対するそれよりも深みがあるように思えた。
「そういえば、ブラックマンさんは、マヤ先生にどう接してこられたのですか?」
これは気になったところだ。二人の間に親子らしい上下関係は希薄なように見えるが、仲は良好に見える。対立することがあるとすれば、コーヒー派か紅茶派かくらいのもので、言い争ったり、ましてや暴力を振るったりといった険悪さとは縁が無いように見えた。
「実の子供と同じように接したよ。うちは子供が多かったから、慣れたものさ。まあ、未だに自立しないのはマヤくらいだけどね」
「それは……」
わたしは思わず苦笑いしてしまう。確かに、彼女はあらゆる意味で偉大な存在のように思ってはいたが、生活能力だけは欠けているのだ。書斎の手入れが行き届いていることを考えると、やってやれないことはないのだろうが、自分からやる気にならないのであれば、それはできないのと同じだ。いつまで経っても、きっとブラックマン氏にとっては可愛い一人娘みたいなものなのだろう。多分、マリアにも同じように接してきたのだと思う。
ブラックマン氏のことは尊敬している。彼はマヤ先生にも、わたしにも、柔和な態度を崩さない。その彼が、相手によって接し方を変えるような人物だとは、あまり考えたくないし、想像もできない。
「とはいえ、最初は知り合いの娘ということで気を遣ったものだよ。実は、彼女の父親に会ったことがあってね」
「そうなのですか?」
「ああ。彼女はお父さん似だよ」
マヤ先生がお父さん似だという話は、ウィルバーさんからも聞いていた。その証言もブラックマン氏からの情報のようなのだが。マヤ先生の父親というのが、どんな人なのだろうと興味がわく。マヤ先生は神秘的な雰囲気の美人だから、その父親は線の細い美形なのだろうか? むしろ、本当に人間なのか?
気になるところではあるが、ブラックマン氏が敢えて気を遣ったとまで言うくらいの人なのだから、相当厳格で恐ろしい人なのかもしれない。
そんなマヤ先生の父は、彼女が産まれた頃にはもう失踪していたという。美しい女性に育った姿を今のマヤ先生の姿を目にすれば、さぞ喜ぶことだろう。
「ひょっとして、お父さんのことでお悩みかな?」
「どうしてそれを?」
「君のお父さんに会ったから。どう接して良いかわからないといった感じだったよ。多分、君も同じ悩みを抱えているんじゃないかと思ってね」
思い起こせば、少なくとも幼少の頃までは、確かな親愛の情を注がれていたはずである。それが、自分の実の娘ではないという疑惑が生まれたことで亀裂が入り、遺伝子鑑定の結果を突きつけられたことで崩壊に至ったのだ。とはいえ、自分が育てた娘には違いないのだから、単なる嫌悪感以外の感情もあろう。
わたしも同じだ。そのような感情に晒されて思春期を過ごしたのだから、父とのあるべき距離感というものがわからない。その一方で、わたしをここまで育ててくれたのは、紛れもない父なのだ。度し難い極悪人という訳でもないのだから、嫌いにはなりきれない。
「一度、お父さんと二人きりで腹を割って話し合ってみたらどうかな」
そんな訳で、至極真っ当なアドバイスをいただいた。確かに、お互い口をきくことさえ敬遠しているという現状を打破するには、こちらから歩み寄って話をするのが一番だ。これ以上悪化するような関係でもないはずだから、そう思えば気が楽である。
「ありがとうございます、ブラックマンさん」
「どういたしまして。ちょっと不作法だったけれど、迷える子羊を導くのは神父の役目だからね。気にしなくて良いよ。それじゃあ、夕食までゆっくりお休み」
「はい。一度、父と話をしてみます」
そうしてブラックマン氏が去った後、すぐに急激な餓えと渇きに見舞われた。先程、林檎をご馳走になったばかりだというのに、ひどくお腹が空く。水気のあるものを食べたばかりだというのに、とにかく喉が渇く。
窓から射し込む光が、徐々に淡いオレンジ色に変わってゆく。時刻は午後六時を回ったくらいで、休日だとそろそろ夕食の支度をする頃合いである。普段でも、確かに最もお腹が空くのこの時間帯なのだが、今日はいつになく酷い空腹を覚える。
そんな折、コンコンとドアをノックする音がした。
「入るわよ」
母は先程、食事を持ってくると言っていたが、ドアの向こうから聞こえる声は、母のものではなかった。しかし、確かに聞き覚えのある声である。ウェンディ・ネーデルマンという、大学の知り合いのそれだった。
「はい、どうぞ」
入ってきたのは、人形めいた風貌の、どこか影のある印象を受ける少女であった。歳はわたしと同じ十八のはずだが、見た目はそれよりも随分幼く見える。艶やかな黒い髪、雪のように白い肌、小柄で華奢な体つきは、健康的な色気こそ欠くものの、いかにもか弱い乙女といった風情であり、それに加えて人形のように整った顔立ちの美少女だったから、かえって殿方の保護欲を刺激する魔性を備えているように見えた。なお、わたしの方がスタイルは良い。
「あら、ネーデルマンさん、いらっしゃい。どうしてここに?」
「どうしても何も、さっき連絡したじゃない。風邪をひいたって?」
「……」
やられた。わたしの携帯電話に彼女からの着信があって、母が代わりに出たのだろう。母は容貌ばかりか、声すらもわたしと同じなのだ。わたしになりすますことくらいは容易で、過去に何度もそういう悪戯をされている。
ふと、わたしの嗅覚を心地よい香りがくすぐった。柑橘系というのか、とにかくある種の果物のような香りだった。
「あら、香水を変えられたのですか?」
「ええ。フルーツ系のに変えたわ。不評みたいだから、明日には変えようと思うけどね」
「そう……」
果実のような香りを感じ取ると、わたしを苛む飢餓感は、よりいっそう激しいものになってゆく。匂いの元は、間違いなくウェンディである。果物のような香りを出す香水はよくあるし、最初は彼女がそういう品を使っているのだと思った。
「どうしたの、アリシア」
「……っ!」
しかし、単にフルーツ系の香りを出す香水を使っているだけのようには、到底思えない何かがあった。普通、香水の香りを嗅いで食欲をそそられるということはない。
「あ、そうだ。お腹空いてると思って、サンドイッチを買ってきたのよ。夕食にはちょっと物足りないかもしれないけど」
ウェンディの言葉も、もはや彼方。どうやら食事を持ってきてくれたようだったが、林檎をいただいたばかりだというのに、もう極度の空腹を覚えたのだから、サンドイッチくらいで満たされるとは思えない。
わたしは見比べる。ウェンディと、彼女が持ってきた食事とを。サンドイッチはあくまでサンドイッチだったが、ウェンディからは瑞々しい果実のような香りがし、確かな生命力を感じた。
そう、わたしは理解してしまった。母が持ってくると言った食事とは、要するに、このことなのだと。現に彼女は、母の手によってここに招かれたではないか。
「……いいえ。夕食は貴女よ、ウェンディ」
「きゃっ!?」
わたしはウェンディの手を引き、ベッドに彼女を押し倒した。
黄昏時の柔らかな陽光が、彼女の肌を照らす。白い肌にほんのりと赤みがさし、それをオレンジ色の光が彩っている。
落日の様は、まるでお日様がわたしの浅ましい姿から敢えて目を逸らそうと気を遣っているかのようだ。
「……アリシア、ちょっと変よ。どうしてしまったの? やめて。こんなの、良くないわ」
「あら、口ではそう言ってるのに、抵抗しないの?」
ウェンディの言うとおり、わたしはおかしいのだろう。だが、わたしの言うとおり、彼女の抵抗も弱々しく、されるがままも同然だった。本来なら、こんなことをされたら、必死になって抵抗して然るべきである。あるいは、本気で抵抗しているのかもしれないが、わたしの力が遥かに勝っていて、弱々しい抵抗のようにしか感じられないだけなのかもしれない。
いじらしく、嫌々と首を振る様に、わたしは嗜虐心をそそられた。
「良い子ね。大丈夫、痛くはしないから」
わたしはバートリ夫人に対してそうしたように、彼女の首筋を甘く噛み、舌先を頚動脈の辺りに当てた。舌の先から何か素晴らしいものが流れ込んでくる感触を覚える。この感触を味わうことで、わたしはようやく食事らしい食事にありつけたような心地がした。やはり、食事は血の通ったものに限る。
ブラックマン氏の差し入れの林檎で満たされなかった理由がわかった。単なる食事では、この多幸感が味わえないためだ。バートリ夫人で味を占めてしまったのだろう。
「ん……」
どのような快感がもたらされたのか、ウェンディの口から甘い声が漏れた。わたしがマヤ先生にそうされていたときの感触――あのときは未知なる刺激だと思っていたが、あれは気持ち良かったのだろう。
わたしは口を離した。言葉を紡ぎ、獲物を嬲るために。
「悲鳴を上げたかったら、上げても良いのよ」
「――っ、――っ!」
ウェンディは必死に声を圧し殺し、切なげな吐息を漏らしている。悲鳴を上げても良いと言ったけれど、彼女はそうしなかった。そうすれば助けが来るかも知れないにも関わらず。
「ん――」
「んぅっ!?」
次にわたしは、ウェンディの唇を奪った。舌と舌を絡ませ、彼女の口内を蹂躙する。ウェンディの血と生命力が、わたしの体に流れ込んでくる。
「んっ、ンンン――!」
ああ、口を塞いでおいて良かった。もし彼女の口を自由にしていたら、きっと凄い声を上げていただろう。聞かれたら面倒なことになる。
ウェンディの体から力が抜け、ベッドにぐったりと横たわっている。息は荒く、頬は上気し、目は潤んでいる。
「はぁ、はぁ……もっと……」
息も絶え絶えの状態ながらも、ウェンディは更にわたしを求めた。
しかし、これ以上したら、エリザベート・バートリがそうなったように、見るも無惨な死体になるだろう。
そうしてしまうには惜しい。彼女の生命力は、何百年も無駄に生きながらえた吸血鬼のような出涸らしではなく、新鮮な果実なのだ。それも、数日置けば元通りになる。一口に食べてしまうのは、もったいない。
「ごちそうさま。今日は、これで終わり」
よって、わたしはウェンディを解放した。彼女は血と生命力を吸われて衰弱しているはずなのに、彼女の頬にはほんのりと紅がさしている。
「……誰にも、内緒よ」
わたしはウェンディに言った。静かだが、強く、有無を言わせぬ力のある、冷たい声――普段の自分からは、考えられないような声である。その場に鏡はないが、きっと笑っていたに違いない。
「……はい」
ウェンディは短く返事をし、おぼつかない足取りで部屋を出て行った。そのとき、彼女はわたしの方を一度だけ振り返った。焦点の定まらない瞳、ほんのりと紅潮した頬、拭われていない涎。
――いけない。あんな扇情的な表情を見せられては、おかわりが欲しくなってしまう。
「ああ……」
わたしの口からも、艶っぽい溜め息が出た。心地よい微熱を感じ取ったわたしは、自らの頬を撫でた。やはり、いつもよりも暖かい感じがした。




