父との再会
目覚めたとき、わたしはベッドの上であった。見慣れた天井は、確かにブラックマン邸のものだ。
体が重く、熱っぽい。体が重いと感じたのは、四肢に力が入らないからで、なかなか容易には起き上がることができない。それでも、上半身のみ身を起こすことはできた。
「アリシア! 気がついたか」
目覚めて最初に視界に飛び込んできたその男性は、ありふれたハンサムな男性とは違う、敢えて言うなら線の細い美形であった。この眉目秀麗な殿方こそ、わたしの婚約者であるウィルバー・ウェイトリー・Jr.である。
ウィルバー・ウェイトリーと聞いて、眉をしかめぬラヴクラフティアンは居るまい。実際のところ、ダニッチの名家であるウェイトリー家の末裔という点が共通しており、またJr.という名前からもわかる通り、ウィルバーという名前の人物も実在している。
無論、彼の父であるウィルバー氏は、ミスカトニック大学図書館に盗みに入って番犬に食い殺されるような人ではないし、そもそも未だ健在である。わたしも実際に会ったことはあるのだが、ダニッチの怪で描写されるウィルバー・ウェイトリーのような、異常な容貌ではなかった。特に背が高いということもなく、山羊を思わせるような悪魔的な顔をしている訳でもない、ごく普通の人だった。
ウィルバー・Jr.という人物に不満があるわけではない。むしろ、わたしなどには勿体無いほどの好人物である。先に描写した通りのハンサムな男性で、気は優しくて力持ち、わたしの趣味や夢に理解があり――といった具合で、悪い部分が全く思い浮かばない人物なのだ。普通に知り合った仲であれば、わたしも自然な気持ちで彼を受け入れたことだろう。
「……お久しぶりです、ウィルバーさん。ごめんなさい、ご迷惑をおかけして」
ここでわたし、アリシア・S・グリーンウッドという個人を取り巻く環境について、再度の説明をしよう。多分、説明していない事項もあると思う。
わたしはイギリス西部のセヴァン谷の田舎町、ゴーツウッドに生まれた。グリーンウッド家はゴーツウッドにあって、ローマ人が移り住んで以来の歴史ある名家だという。経済的には裕福な部類で、何不自由なく育った。
ただし、なまじ歴史ある名家だけあって、幼少の頃に婚約者を決められるということもあったようで、わたしがそれに当てはまった。このため、何不自由なくとは述べたものの、恋愛の自由だけはなかった。その中で、ウィルバーさんのような男性と巡り会えたことは、大変な幸運と言えよう。
「突然倒れたって、マヤから聞いたから……医者が言うには、単なる貧血らしいけれど、大事に至らなくて良かった」
貧血――それは違うと、わたしは断言できる。生まれてこのかた、病気とは無縁なのだ。見た目は華奢で病弱そうに見えると言われるが、こう見えても、運動神経も体力も人並み以上なのだ。もっと褒めてもよろしい。
確かに血と生命力を吸われてはいたが、それが原因で気を失った訳ではない。もっと別の原因があることを、わたしは確かに知っている。耳の穴から舌を差し込まれ、文字通り頭の中をかき回され、脳を食べられていたことを。
とは言うものの、マヤ先生とマリアに脳味噌を食べられていました、などとは口が裂けても言えない。わたしはまだ、アーカム・サナトリウムの世話にはなりたくない。あまり変なことを言ってウィルバーさんに心配をかけることも、わたしの望むところではない。
「お父様……」
また、ウィルバーさんはわたしの父、ジェームズ・R・グリーンウッドを伴っていた。確かに、以前、母がウィルバー・Jr.が来ていると言っていたが、父も来ているとは思わなかった。
「迷惑をかけおって」
ウィルバーさんのそれとは対照的に、父の言葉は冷たかった。本来なら、そこは迷惑ではなく心配という言葉を選ぶべきである。曲がりなりにも文筆家を志す身としては、そういう細かい言葉の選択も目につく。
ただし、父との不仲のことを考えると、やはり、彼の心情としては、迷惑という言葉の方が正しいのだろう。
「……はい、申し訳ありません」
そこが一度目についてしまうと、わたしもささやかながら反抗心を顕にする。いかにも他人行儀でよそよそしい態度で、事務的に謝罪をするのは、これが初めてというわけではないし、この点を咎められたことは、今までなかった。
このように、わたしと父の仲は、親子とは到底思えぬ程に冷えきっていた。
こうした不仲については、これは以前述べた通りである。やはり父は、わたしのことを自分の娘とは思っていないようなのだ。
その疑惑を覚えたのは十歳の頃で、確信に変わったのは十二歳の誕生日、もっと衝撃的な証拠を突きつけられたのは十五の頃だ。
第二次性徴が始まり、わたしの顔と体つきが大人びてきて、日に日に母に似るにつれ、父の態度が冷淡になっていった。化粧や髪型といった、容易に差異を出すことのできる要素を除けば、今や寸分違わず同じ顔である。父親の特徴は何一つ受け継がれていない。
十五歳の頃に遺伝子鑑定をしてみたところ、結果はわたしの予想通りだったらしい。父は口をつぐんでおり、直接的には何も言わなかったものの、その反応が全てを物語っていた。わたしと父の間には、血縁関係はないと判明したのだろう。
これは常識的に考えるなら、母の背信行為であり、離婚騒動にも発展しかねない重大な問題に違いないのだが、その事実が明らかになってから三年を経た今なお、そうなってはいない。無論、幼少の頃に比べると、明らかに夫婦仲が冷えきっているのはわかる。
ただ、どうも父の態度は、単にわたしが母の不義の結果として産まれた子ということだけが理由ではないように思える。
また、奇妙なことに、わたしの真の父親だという人物の話は、全く聞いたことがない。恐らく、これこそが父の態度の原因に違いないと思っている。
「……わたしは席を外そう。ウェイトリー氏とは、積もる話もあるだろう」
父はわたしが目を覚ましたことを確認すると、逃げるように退室した。
「……ごめんなさい」
「君が謝ることじゃないよ……なんとか、和解できると良いね」
ウィルバーさんについては、父とは完全に切り離して考えるようにしている。父とは不仲だが、その父が紹介してくれたウィルバーさんは、非の打ち所のない殿方である。わたしには勿体ない。
「そういえば、マヤ先生とはお知り合いなのですか?」
呼び捨てにしていたので、もしやと思って訊いてみた。
「ああ。どうも遠縁の親戚らしい。何度か会ったことはあるよ。変わった子だね。ブラックマンさんの話だと、お父さん似らしい。彼女の父親には会ったことはないけれど」
どことなく、マヤ先生に雰囲気が似ているが、これは決して故なきことではないようだ。ウィルバーさんはマヤ先生と同じく、ダニッチの名家の末裔であるらしい。
それからわたしは、ミスカトニック大学の学友のこととか、日々の講義のこととか、今現在執筆中の小説のこととかを話した。対するウィルバーさんも、仕事上の近況のこととか、昔のマヤ先生のこととかを話してくれた。
「それじゃあ、明日にも来るよ」
「ええ。お待ちしておりますわ」
ウィルバーさんと、楽しかった時間に別れを告げた。大分、長いこと話し込んでいたようで、窓からオレンジ色の光が射し込み始めていた。
「ウィルバーさんはお帰りになられたの?」
ウィルバーさんが、まるで見計らっていたかのようなタイミングで、母がお見舞いに来た。元々ブラックマン邸で寝泊まりしていたのに、こちらが後に来るのも変な話だが、故なきことではない。要は、わたしとウィルバーさんとの水入らずの時間を邪魔すまいという気遣いだったのだろう。あるいは、単に父を避けていただけかもしれないが。
さて、つい先程も述べたばかりだが、遺伝子鑑定というものがある。しばしばニュース等でも取り上げられる技術で、何年も育ててきた子供が実子ではないことが明らかになったといった話が、しばしば話題になる。
かく言うわたしも、恐らくはそうなのだろう。父の態度は明らかに自分の娘に対するものではない。
「先程、お父様も来られました」
「知ってるわ。あれで貴女が心配なのよ」
「……」
わたしと父の距離は遠く、隔てる溝はあまりにも深い。お互いのことをよく理解し合うような仲ではない。少なくとも、わたしは父の考えがよくわからないし、恐らく父もわたしの考えをわからないのだろう。母の言うとおり心配しているのか、それとも本人が言うように迷惑だと思っているのか、理解しかねるのだ。
「お母様」
わたしは父との仲について悩んだとき、必ず母に投げかけるようにしている疑問がある。
「わたしは、誰の子供なのですか?」
この質問をしたのは、これが初めてではない。遺伝子鑑定の結果が出て、父が部屋に籠ったその日にも尋ねたことだ。
「何を言っているの? アリシアはわたしの子よ」
母の返答は、やはり三年前のあの日と同じであった。何度訊いても、返ってくる答えは必ずこれだ。暖簾に腕押しとはこのことである。わたしが求めている答えではない。それはわかっている。
確かに、母が言うとおり、わたしがナツキ・グリーンウッドの娘であることだけは、疑いようもない。十五の頃には、二人で並んで町を歩けば、大抵は姉妹として見られたものだ。今では、並んで歩くと双子の姉妹として見られる始末である。そんな二人の間だから、何らかの血縁関係があるのは明白である。
そう、本当に瓜二つなのだ。本来なら、父からも何かしらの要素を受け継いでいて然るべきなのだが、わたしときたら、母以外の誰にも似た部分が無いのである。お陰で、本当の父親がどんな人物だったのか、想像することさえできない。ただ、ジェームズ・R・グリーンウッドの娘ではないこともまた、明らかである。
「子宝に恵まれないものだから、マリア様にお祈りをしたの。そうして産まれたのが、アリシア、貴女よ。どうか健やかな子供を授かりますように、っていう願いが通じたのね」
母の説明はこうだった。この答えもまた、わたしが十五歳の頃に聞いたものである。
当然、そんなことを聞かされたところで、単にはぐらかしているだけとしか解釈はできない。少なくとも、一度目はそう思った。聞いた当時は十五歳。こういう話を信じるには、歳をとりすぎているし、今ほどオカルトに造詣が深くはない。
しかし、数々の不思議な体験を経た今、この言葉は本当に真実を述べているのではないか、という疑惑も生まれた。マリア様という言葉が真に指すものについて、思い当たる節があるのだ――事実だとすれば、あまりに恐ろしいことだが。
「本当に、アリシアは健やかに育ってくれたわ」
母の言葉をそのまま信用するなら、わたしの誕生に際して、何らかの儀式を行ったことが断定できる。そして、その儀式は十二分に成功を納めていると言えるだろう。なにしろ、内臓を引きずり出されようと、脳をぐちゃぐちゃにされようと、わたしは何事もなく健やかに日々を過ごしてきているのだから。
「大変だったわね。心細かったでしょう」
母はそう言って、わたしを抱きしめ、頭を撫でた。わたしの頭を撫でる母の手は、夢で出会ったあのニンフと同じ、わたし自身の手のように感じられる体温、肌の張り、弾力を持っていた。
「マヤ先生に脳味噌を食べられたのでしょう。なかなかできない体験ね」
「……どうして、それを?」
わたしの心臓が、驚きのあまり跳ね上がった。
「前にも言ったでしょう。アリシアのことでわからないことなんて、何一つ無いんだから」
それは明らかに、単純な洞察力によるものではなかった。母は知っているのだ。あの淫らで残酷な饗宴を、よりにもよって、実の母親に見られていたのか。脳を食べられながら悶えるわたしの痴態を。
目の前には、わたしと全く同じ顔があった。
「早く良くなってね、アリシア。お母様も心配していらっしゃるわ。もう少ししたら、夕食を持ってくるから、それまでゆっくりお休み」
「……はい」
わたしは色々なことを確認するべく動きたかったが、生憎、まだ手足の痺れは残っており、まだベッドからは離れられそうにない。わたしは母の言葉に渋々従うほかなかった。




