蘇る恐怖
わたしはナイルさんのアドバイスの通り、一人での行動は極力避け、アビーやルースベン氏と行動を共にするようになった。二人にも奇妙な気配のことは話した。彼らは頭ごなしに否定したりはせず、事情と心境を察してわたしに協力してくれた。
「それはいけない。送っていこう」
例えばルースベン氏はわたしを家まで送ってくれた。幼い頃に決められた許嫁などという存在がもしなかったら、この男らしさと親切さに、わたしの心はあっさりと射抜かれていたに違いない。
「スタンガンくらい買っておきなさい」
また、アビーはごろつきに絡まれたわたしを助けてくれたこともあった――彼女と一緒に居るときは、大半のごろつきは威圧に負けて寄ってこない。あの太い腕を見れば、彼らの気持ちは理解できよう。
しかし、わたしが誰かと居るときであっても、やはり視線は感じる。身の周りのものが無くなったりといった、直接的な被害こそまだないが、不気味な気配は常につきまとった。それが何処の誰かが分からず、姿を現すようなこともなかったので、わたしの神経は徐々に過敏になっていった。窓を拭く魚っぽい顔の清掃員さえ、何か不埒な意図を持った人物に見えたほどである。
アーカムがアメリカの他の地域の平均と比べて治安が良いという幻想を打ち砕かれたのは、渡米から丁度一ヶ月ほど経った頃で、こちらでの生活にも慣れてきた頃だった。
犯罪発生率等の統計的なデータに従うならば、確かにアーカムはロサンゼルス等に比べれば遥かに安全だという結果が出ているが、自分が恐ろしい事件に巻き込まれたという事実は、それを忘れさせるに十分だった。
極力一人になるなという助言は忠実に守ったつもりだったが、そうはいかない場面も幾つかある。お花を摘みに行ったときのことだ。これは流石に他人を付き合わせる訳にはいかない場面のひとつで、心強いアビーもここまでは同行をお願いしなかった。そして、事が実際に起こって、わたしの恐怖と不快感がクライマックスに達したのもこのときだった。
「美しいお嬢さん、美味しそうなお嬢さん……」
トイレの個室に入った瞬間、隣から耳を覆いたくなるような、不快な歌声が聞こえてきたのだ。最悪なことには、この嫌らしい声の主は、しわがれて聞き取りづらいが、間違いなく男性のものであった。どうやって侵入したのかは分からないが、ともかく脅威はそこにあった。
わたしは鞄の中に忍ばせておいた護身用のスタンガンに手をかけ、変質者に備えた。
「――っ!?」
上を見上げる――個室同士を隔てる仕切りの上から身を乗り出すそいつを見た瞬間、背筋が凍りついた。
犬に似た獣じみた顔、かぎ爪を備えた手を持ち、体毛はない。ゴムのような鈍い光沢の肌はカビや土で汚れている――ぞっとするような生き物だが、なお悪いことに、それは手足の長さや胴体のバランス等において、人間との類似が多く見られた。明らかに人間ではないにも関わらず!
「美しいお嬢さん、美味しそうなお嬢さん……」
そう、声の主はこの生き物だった。見た目通りの汚らわしい存在で、いかがわしい欲望に従って生きる唾棄すべき亜人の化け物である。
恐怖というものは、身体に大小様々な影響を及ぼす。しかし何より、往々にして判断力に対して致命的な悪影響をもたらす。今、わたしの手には心強いスタンガンがあったにも関わらず、それを有効活用するよりも前に、なんとか怪物から逃れようと、個室からの脱出を図ってしまったのが敗因であった。怪物の攻撃を許してしまったのだ。背後から組みつかれ、何かしらの薬品を嗅がされたのだろう。薄れゆく意識の中でそれを理解したときには、既に後の祭りであった。
異様な臭気が鼻を突き、わたしの意識を夢の世界から引き戻した。
目を覚ますと、そこは窓のない、コンクリートがむき出しになった、薄汚い部屋だった。蛍光灯だけが光源だった。
まず、わたしの状態を確認してみよう。手錠をかけられ、壁に縛りつけられている。足には枷がなく、立ち上がることも座ることもできる。しかし、いずれにせよ、ここから逃げ出すには手錠をどうにかするか、さもなくば手を切断するかしないといけない。また、わたしの衣服は全て取り除かれていた。そればかりか、わたしの肌が不審な水気を帯びていた――いかがわしい趣味を持った輩に素肌を曝してしまっているという事実は、わたしに酷い羞恥と恐怖、何より耐え難い嫌悪感をもたらした。
まだ意識がぼんやりとしていたが、寝ぼけ眼で見た光景の中には、わたしに更なる恐怖の発作をもたらすものが散見された。たとえば、床のあちこちに散見される不穏な汚れ――乾いて焦げ茶色になっていたが、それは明らかに血だった。 胸の悪くなる「食べ残し」などは、もっと直接的で雄弁な証言者である。こうして、わたしのように囚われた者達の末路は明示された。
また、テーブルや食器棚、それに冷蔵庫があった。テーブルの上にはティーセットが置かれていた。妙な生活感があるそれらの品については訝しげに思ったものだ、こんな部屋にあって唯一上品な感じのティーセットだが、これも吐き気を催す趣味に用いられるものであることがすぐに判明する――それについては、『彼』が行動で示してくれた。
「ヒヒ、お目覚めですかな、お嬢さん!」
突然の声にびっくりして、わたしが声のした方向を振り向く。奇妙なことに、声は下から聞こえた。
「美しいお嬢さん、美味しそうなお嬢さん……」
目覚めて最初に聞いた音は、呪文のようにぶつぶつと呟く声だった。不快な、実に嫌らしい声だった。言葉の内容もそうだが、とにかく耳障りな声だった。
声が下からしたのは、そいつがわたしの足をいとおしそうに舐めていたからだった。
声の主はあのときの怪物ではなく、口髭を蓄えた初老の男性だが、背中がひどく曲がっており、極度の猫背だった。何より、人間の体臭とは思えない、獣臭さとも違う、もっと胸の悪くなるような臭い――そうだ、わたし自身は嗅いだことはないが、これは死の臭いに違いない。もっと言うなら死体安置所なんかが、こんな臭いを放っているのではないだろうか。とにかく酷い臭いだった。
「わたしはフランク・ハワード。短い間だが、お見知り置きを」
男はそう言って自己紹介した。足を舐めながらだ! 彼のことを説明する上では、名前よりも、後述する異常な性癖と本質の方が重要であった。
「お嬢さん、どうかわたしに恵みをおくれ」
男はわたしの足の裏からふくらはぎ、それから太股に至るまでを丁寧に舐め始めた。この位置からだと、嫁入り前の娘が容易に異性に見せてはならない部位も、彼には丸見えで、彼はそれを物欲しそうに凝視していた。
わたしは酷い羞恥の感情を覚え、恐らく顔は真っ赤に紅潮していたことだろう――恐怖も同じくらいに感じていたから、もしかすると、青ざめていたかもしれない。
加えてわたしの肌が濡れていた理由を理解したときの、この不快感は言いようもない。
わたしは胸のむかつきを覚え、反射的に男に蹴りを入れた。男性特有の急所を狙ったつもりだ。狙い通り、男は長い長い悲鳴をあげ、悶絶し、床に転がり、のたうち回った――しかし、想像を絶する苦痛を与えたはずなのに、途中から恍惚を含んだおぞましい喘ぎ声を発するようになった。
そして、どういう作用なのかはわからないが、わたしの蹴りは真実を覆い隠す霧を打ち払ったらしい。地面にうずくまった男の姿が、あの亜人間の怪物になっていたのだ。
怪物はよろめきながら、近くにあったテーブルに置いてあったティーカップを手に取り、再びわたしに擦り寄ってきた。
「……脚を自由にしておいた理由だが」
やっと喋られるまでに回復した怪物が、何か言い始めた。
「君にある程度の抵抗を許すことで、君のその美しいおみ足で蹴ってもらうためだよ。君が疲れて動けなくなったら、わたしは晩餐の準備にかかろう」
理解を超えた倒錯した性癖。この化け物はわたしの汗やその他諸々を余さず味わおうとするような変態であり、しかもサディストであると当時にマゾヒストでもあった。多分、この様子だとカニバリズムにも造詣が深い様子でいらっしゃるようだ。
となると、抵抗をやめた瞬間にわたしの運命は決する。
「君は女性だから、あの独特のナッツに似た感触を味わえないのが残念だが」
化け物はわたしの脚を撫でさすり、頬擦りし、再び長く湿った舌で舐め回す。どうもわたしの脚に多大な思い入れがあるようだった。蹴りを入れたからだろうか。しかし、どれだけ考えようとも、わたしにはその動機を真に理解することはできないように思える。
「君は柔らかくて美味しそうだ。これで蹴ってくれなくなるのは非常に名残惜しいが――」
しかし、この部屋の床を見れば、少なくとも彼の最終的な目的だけは明白だし、嫌でも後に待ち受ける運命が分かる。
当然、わたしもこの化け物を寄せ付けまいと身をよじり、蹴りを入れた。しかし、それがどれだけの意味を持つかは怪しいところだし、しかも蹴る旅度に怪物は喜ぶばかりだった。
「お嬢さん、申し訳ないが、聖水のお恵みをいただけませんかな、ヒヒヒ」
しかし、痛みに慣れたのか、蹴りを入れてもすぐに這い寄る。調子に乗った化け物は、ティーカップをわたしの両太股の間に添え、吐き気を催す趣味を満たそうと試みたのであった。そうしながらも、嫌らしい動きの舌でわたしの太股を舐めることは忘れない。
よもや、こんな輩の慰みものとして一生を終えることになろうとは!
そこはわたしと怪物しか居なかったが、騒がしかった。窓のないコンクリートの部屋は音がよく響く。わたしの悲鳴と、怪物の嬌声と嘲笑う声、それに場違いなフルートの調べが、これから始まる恐ろしい饗宴のバックグラウンド・ミュージックを奏でていた。