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白い姫君と黒い巫女  作者: 標準的な♂
花嫁は誰の手に
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夢見る仔山羊

 わたしが気を失った後、黄金の蜂蜜酒を飲んだときのような、不思議な夢を見た。


 奇妙なほどの明晰夢で、わたしは大地を踏みしめる感触、木々を揺らす風の音、耐え難い悪臭、血と恐怖で彩られた極彩色の惨状を、全て完璧に認識できていた。感覚は第六感も含めて十全に機能しているようだった。


 わたしは血と獣の臭いが充満する薄暗い森の中で、一人(たたず)んでいた。目の前に広がっているのは、まさしく悪夢そのものの光景であった。


 辺りには食い散らかされた山羊や牛の残骸が散乱しており、恐ろしい姿の闇の妖精達が群れをなし、カトリックが非難したようなサバトの光景が繰り広げられていた。目の前の光景は、それが地獄のものであると錯覚させるには十分な迫力があったが、石造りの祭壇の上に横たわっている、子供の死体こそは、わたしにとびきりの恐怖をもたらした――幼き日の自分自身の死体が転がっていたのを見て、単に死体を見るよりも強いショックを受けたのである。


 わたしを殺した悪い魔法使いも、全身の血液を漏れなく吸い尽くされ、干からびた骸を晒していた。正直に言えば、彼はわたしにトラウマを植えつけた張本人であり、また、エリザベートの一件で何度も見た種類の死体であったから、その死を悼む気持は芽生えなかったし、さほどの驚きもなかった。


 そこまで見て、あの夢の続きだと理解した。森の妖精達と遊び、そして妖精達の残酷さを思い知った、あの夢である。


 恐ろしい妖精達は、リーダーだったであろう魔術師の死さえ気に留めず、血生臭い饗宴をなおも続けていた。彼らがやっていることは、趙江やバートリ夫人の配下の食屍鬼と変わらなかったのだが、連中でさえ、首領が破滅すると恐慌に襲われたのだが、彼らはそうではなかった。


 しかし、これらの血生臭いサバトの光景でさえ、恐怖のフルコースにおいては、メイン・ディッシュたりえなかった。


 闇の妖精達の多くは、角、蹄、異様な赤黒い肌、並外れた巨体といった異形を備えてはいたが、どれも人間との類似性を持っており、完全に理解の及ばない存在ではないように見えた。しかし、そんな妖魔どもの中にあって、恐らく彼らを従えているであろう()()だけは、人間との類似性が欠片も見られない、名状しがたいものであった。


 ()()に似た存在としては、以前、黄金の蜂蜜酒入りの紅茶を飲んでから見た、夢の中のゴーツウッドの街中によく見られた、あの触手と蹄を備えたクリーチャーが真っ先に挙げられる。街路樹の代わりに存在し、ゴーツウッドの街中を闊歩していた、あの木々の精霊――魔道書において『黒い仔山羊』として説明されている存在と同じ特徴を幾つか備えていた。


 ただし、より巨大で、より力強く、より色々な器官を備え、より恐ろしい姿に見えたので、明らかに別の存在とわかる。幸いにして、わたしがつい最近読んだ本の中に、この存在について的確に表現した資料があった。ダレット伯の『屍食教典儀』である。


 かの忌まわしき書物から引用するなら、それは獣のように見え、木々のようにも見え、ギリシャ神話に伝えられる美しいニンフのようにも見え、人間の女性のようにも見え、何より彼女自身の母によく似ている――わたしの記憶において最も恐ろしく、最も美しく、何よりも偉大な存在である()()()によく似た、しかしずっと劣る存在だった。それでも、()()()の姿を直接見たことのない信者にしてみれば、彼女が単なる代理人とは、夢にも思うまい。無論、常人の感覚には刺激が強すぎることは否めず、それは悪夢の中以外では断じてその存在を許されるべきでないと、半狂乱になって否定するに違いない。


 ダレット伯が書き残したとおりの姿の生き物を見て、これこそがかの『黒い巫女』であると、わたしは確信した。彼女の足下に転がる乾物のような死体――儀式の主導をとっていた黒魔術師は、実のところ、このサバトの実質的な支配者ではなく、『黒い巫女』の代理人に過ぎなかったのだろう。彼女こそがサバトの女王なのだ。


 『黒い巫女』は、祭壇の上に放置されたわたしの死体を一瞥する。彼女の目がどこにあるのか判然としないのだが、ともかくそうしたように見えた。


 彼女は無数にあるロープ状の黒い触手で、幼少のわたしの死体の腹部の傷を撫でた後、わたしの方へと向き直った。


「あら、こちらに来ていたの?」


 あのときの夢と異なるのは、こちらを認識し、話しかけてくる存在が居ることだった。


 『黒い巫女』が、その外見にふさわしい、地獄の悪霊めいた低い声ではなく、明らかに人間の女性のものとわかる声で話したことは、かえってそのおぞましさを引き立てていた。


 だが、何より――


「久しぶりね、アリシア。元気だった? わたしのこと、覚えてる? ああ、この姿だと判りにくいわね」


 年経た樹木のような巨体が、みるみるうちに内側へと収縮し、段々と人の形になってゆく。脚、臀部(でんぶ)、腰の括れ、乳房の形状、それらを覆い隠す薄衣――その人物の体格はわたしと同じくらいで、見覚えがあった。


「アリス」


 こうして、戦慄に値する事実が明らかになった。妖精にまつわる美しい思い出を象徴する、アリスと名乗る森のニンフと、この世にも恐ろしい『ハンノキの王』が、同一の存在だと気付いてしまったのである。


 薄衣を(まと)った黒い髪のニンフ、アリスが、わたしの方へ歩いてきた。不自然な光のため、手と手が触れ合うほどの距離まで近付いても、その顔を判別することはできない――あのときは、このニンフの顔がうろ覚えだから、顔がぼやけて見えたのだと思ったが、そうではなかった。


 わたしの本能が知っているのだ。その顔は()()()()()()()()()なのだと。


「……お久しぶりです」


 わたしは覇気のない声で応じた。知るべきではない真実を知ってしまった今、もはや童心に返ることなど、できそうにない。


「良いのよ、そんなに畏まらなくても。赤の他人ではないのだから」


 畏まる――そう、わたしは確かに、彼女の本当の姿が、本能的な畏怖の念を呼び起こすようなものであることを知っている。


 普通の人間が、あの恐ろしい『黒い巫女』と対峙して、果たして正気を保っていられるだろうか? たとえ、今は見目麗しい(顔は確認できないのだが)ニンフの姿をしていたとしても、その正体が、かの『無名祭祀書』ですら恐ろしくて記述を避けた形跡が見られるような怪物であることを知っていたのなら、きっと面と向かって受け答えすることなどできはしないだろう。


「そうは言っても、もう、わたしも子供ではありませんから」


 わたしは努めて平静を装い、アリスとの会話に応じた。


「そうよね――こことか、もう十分過ぎるくらい、大人だものね」

「きゃっ!?」


 突然背後に回られ、胸を強く掴まれた。これには、わたしも反射的に悲鳴を上げてしまう。


「ちょ、ちょっと、やめて、ください……」

「んー、随分大きくなったんじゃない? 男の子の注目の的でしょう?」


 わたしは弱々しい拒絶の言葉を口にした。しかし、アリスの手は止まらず、ますます嫌らしい手つきで揉みしだいた。


 その後、手は胸から離れ、体のあちこちを、まるで品質を確認するかのように、丁寧に、じっくりと時間をかけて触り始めた。触れ、撫で、掴み、揉む。それを繰り返す。他の誰かであれば――それが可能な相手であるなら――すぐに振り払って逃げるところなのだが、不思議と抵抗する気にはならなかった。


「……本当に、大きくなったわね」


 服越しにアリスの体温が伝わってくる。体温はわたしとほとんど同じらしく、手の感触も、まるでわたし自身の手で触れているかのような感触だった。


「かわいそうなアリシア。()()()()に苛められたのね」


 アリスはそう言って、最後にわたしの頭を撫でた。まるで、子供に対してそうするかのように。


 思わぬところで、思わぬ人物の名前が出てきたことに、わたしは驚いた。まさか、アリスの口からマヤ先生の名前が出てくるとは思わなかった。


「マヤ先生をご存知なのですか?」

「ええ、それはもう。わたしも若い頃は貴女と同じで、マヤ先生の慰みものだったわ」


 謎の多い、そもそも知っていることなどごくわずかしかないマヤ先生の、知られざる一面が判明したものの、かえって謎はますます深まるばかりであった。


 このニンフがいつから生きているのか――多分、わたしよりもずっと年上であることは間違いなく、百年か、千年か、あるいはそれ以上の年月を生きてきているであろうことは、想像に難くない。そんなニンフが、まだ若かった頃にマヤ先生と関係を持っていたという事実は、彼女の正体を掴む手がかりになることは、間違いなかった。


 思えば、『黒い巫女』の存在にばかり気をとられていたが、もっと身近なマヤ先生の正体について深く追及しようと思ったことはなかった。確か、最初に彼女の餌食になったときに、深い追及は危険だと判断したのではなかったか。


「マヤ先生とは、どういった関係ですか?」

「んー、ちょっと答えにくいわね。憧れの人ではあるけれど、色々、恥ずかしいこともされたし……」


 アリスは顔をほんのりと紅潮させて、恥じらうような仕草を見せた。わたしがマヤ先生にされたことを思えば、確かにこの反応は正しいのかもしれない。彼女が明らかに人智を超えた存在であると知っていたのに、その表情からは、少なくともわたしと同じくらいには、人間味があるように思えた。


「あの……」


 もっと知りたいことはあった。しかし、言いようもない恐怖に物怖じして、わたしはそれを尋ねようか迷った。


「貴女が『黒い巫女』なのですか?」


 わたしは決断し、恐る恐る尋ねた。彼女が『黒い巫女』であるという確信を持っていたし、目の前の存在が本当に恐ろしいものであることも知っていたが、それでも訊かずにはいられなかった。


「何を言っているの、アリシア?」


 するとアリスは、きょとんと首を傾げた。まるで、わたしがそれを知らないことが信じられないとばかりに。


 それに応じて、主導をとっていた魔術師が死んでもなお、流血と性の忌まわしきサバトの儀式を続けていた妖精達が、一斉に行為を止めて、()()()を向いた。


「『黒い巫女』なら、()()に居るでしょう?」


 アリスはそう言って、わたしの方を指さした。彼女の言葉を信じたわたしは、背後にアリスの他にも『黒い巫女』居ると思って、振り返った。


 ――そこで、わたしは目を覚ました。

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