マリア様の憂鬱
「遅い」
その日は、朝からマヤ先生の不機嫌に晒された。そのはけ口として、彼女はわたしを標的に定めている。
蛇に睨まれた蛙とは、まさにこのことだった。目をそらすことも、ましてや背を向けて逃げ出すことなどできはしない。無論、何故相手が怒っているかを知っているから、引け目もあるのだが。
こうなってしまった原因は、他でもないわたしにある。いつもは決められた時間に起き、マヤ先生の朝食を作るのが日課なのだが、その日に限って三十分ほど寝坊をしたのだ。
言い訳をするなら、いつもはちゃんと鳴る目覚まし時計が、その日に限って機能しなかったこと。後で知ったことだが、これは母のささやかな報復であった。夜中にわたしの目覚ましの時刻を弄ったのである。休日だったのが不幸中の幸いだった。流石に母にもそのくらいの分別はあるのだと信じたい。
「アリシアがお寝坊さんなものだから、ひどくお腹が空いたわ」
わたしは身震いした。マヤ先生の瞳が玉虫色に輝いている。赤い瞳が玉虫色に輝くとき、そのとき見せる表情がどうであれ、彼女は怒っているのだ。
マヤ先生はそれまで読んでいた新聞をテーブルに起き、わたしの方へと歩いてきた。その歩みは明らかに人間に可能なものではなく、歩幅に対して進む距離が長い。まるで、空間を歪めているかのような――
逃げられない。どんな逃走手段を講じても、彼女は一歩で追い詰めることができるのだろう。それ以前に、あの恐ろしい玉虫色の瞳から、目を逸らすことさえできない。
「――悪い仔山羊には、躾が必要ね。わたしの食事も兼ねて」
マヤ先生はにっこりと笑った。心臓が止まるかと思った。この笑顔はいけない。先生がなまじ美人であるだけに、内側に怒りを秘めた笑みというものは、本当に恐ろしい。そもそも彼女自身の恐ろしさの一端を知っているのもあるのだが。
「こっちへ来なさい」
マヤ先生は、ぞっとするような低い調子の声でそう言うと、ものすごい力でわたしの手を引き、そのまま洗面所まで連れていかれた。
洗面台の前に立たされると、躾が始まった。鏡にはわたし達の姿が映っている。
「んっ!?」
まず最初に、わたしの唇が、マヤ先生の唇によって塞がれた。ヌメヌメとした、ざらざらとした、柔らかいものが、口内に侵入してくる。舌を絡ませ、唾液が混ざり合い、湿った音を立てる。口を通じて、わたしの中の何か――恐らく、生命のエネルギーのようなものだろう――を、淫らなやり方で吸い取っていたのだ。
マヤ先生が口を離すと、お互いの唾液が混じりあった液体が糸を引いた。
「いいこと? これは躾なのよ。お寝坊さんの仔山羊に対する、ね」
マヤ先生は繰り返し、これが躾であると説明した。
「悪いのは頭かしら?」
失礼な。そんなこと、ないもん。
その直後、マヤ先生は今度は耳の穴に口づけした。
すると、脳を直接かき混ぜられたかのような――マヤ先生の舌が、頭の中にまで侵入してくるかのような、まったく未知の刺激がわたしを襲った。
「あっ? んおっ?」
これにより、自分でも予期せぬ種類の声が出てしまう。以前とは明らかに違うものを吸いとられていることがわかる。
実のところ、このような行為は何度か経験しているが、その際、自分の何が吸いとられているのかは、未だ判然としない。ただ漠然と、自分の中の何かが吸いとられているという認識だけがあった。恐らく、吸われているものも毎回違うのだろう。
不意に全身が弛緩し、手足に全く力が入らなくなる。立っていられるのは、マヤ先生に支えられているためだ。
「御覧なさい。貴女は獣なのよ」
「あっ、あっ、あっ、あっ、あっ、あああ……?」
マヤ先生は一旦顔を離して、わたしを鏡に向き直させた。
鏡に映っているのは、浅ましい獣だった。だらしなく緩んだ表情で、恥も外聞もなく涎を垂らし、ただ刺激を貪るだけのけだもの。鏡に映るその姿に、人としての尊厳が残っているようには、到底思えなかった。
これが――わたし?
これを見るや、わたしは激しい自己嫌悪に陥った。
わたしは貞淑な女性として振る舞っているつもりだ。十五を超えたくらいからは、一人前の淑女として恥ずべき振る舞いは戒めてきた。また、婚約者が居る身としては、高い貞操観念を保っておくのが礼儀と教えられてきたし、わたし自身も常に心がけている。わたしは父とはあまり仲が良くないが、貞操観念に関することは、意見を同じくする数少ない事項だ。
そんな女が、ちょっと普段は味わえないような刺激を味わっただけで、普段の澄まし顔も何処へやら、目の前の餌を貪る家畜が如く振る舞うのである。笑わば笑え。
だが、何より、恐ろしい事実が見えた。血と唾液以外の何かが混ざった、汚ならしい膿のような液体が、耳の穴から流れ出ていた。
マヤ先生は再び、わたしの耳に口づけをした。麺類をすするような、あまり上品とは言い難い湿った音と共に、中身が吸い出されてゆく。
「……何やってるの、マヤ姉」
わたしが今味わっている奇妙な興奮とは別に、純粋な驚きのために、心臓が跳ね上がった。声のした方を振り向くと、そこには黒い髪、黒い肌の、しかし非常に美しい少女――マリアが居た。
「あ……見ないで……」
マリアに見られた。わたしが家畜みたいな品のない声を上げ、浅ましくマヤ先生の与えるものを求める姿をだ。多くの女性は、自分がけだもののように振る舞う姿を見られることを望んだりはしないだろう。
「躾よ。この子ったら、休日だと思って寝坊するものだから」
「へえ……」
それを聞くや、マリアの顔に満面の笑みが浮かぶ。ひどく母に似ていた。昨日の悪戯好きで子供っぽい一面を見て、今もこうして吸血鬼めいた側面を垣間見るに至り、ますます母との共通点ばかりが思い浮かぶ。
「何で、そんな面白いことを独り占めしようとするの? わたしも混ぜてよ。良いでしょう? 昨日のこともあるし」
やはり、昨日のことを根に持たれている。とはいえ、それは言葉の上だけのことだろう。彼女の中で昨日の出来事が占める割合は、さほど大きくないように思える。むしろ、最初に言った、面白そうだから自分も混ぜろという主張が真実なのだろう。
「マリアが言うなら、しょうがないわね」
マリアはマヤ先生の同類でもあった。そういえば、以前、マリアにも一度だけ吸われた覚えがある。あのときは、異様に火照った体を冷ます、一種の癒しがもたらされたが、今回は違った。
「仔山羊はどう仕上がったのかしら?」
マリアがわたしの鎖骨の辺りに舌を這わせると、急に刺すような痛みが一瞬だけ走った。噛みつかれたのとは違う、何か細い針のようなものを刺されたような、奇妙な痛みだった。また、前に彼女に吸われたときとは逆に、今度はそこから熱が広がる感じだった。
「……上出来よ。前より純度がちょっとだけ高くなってる。この子ったら、極上の雌山羊に仕上がりつつあるわ」
口から一筋の鮮血を垂らしたマリアが、わたしの血をそのように評した。
「お褒めに預かり光栄ですわ。お母様の為ですもの。不純物を取り除く作業は任せてくださいな」
「見上げた心がけね。わたしも手伝うわ。残りはどこ?」
わたしの推測では、マヤ先生がわたしから吸いとったものは、血や生命力といったものだと思っている。現に、母が同じようなことを他人にしたとき、残っていたのは血と生命を完全に失ったミイラであった。
しかし、この二人の会話を聞いていると、どうも問題はそんなに単純ではないらしい。何かもっと、わたしにとって大事なものが奪い去られているような、そんな気がしてならないのだ。
「ここよ。この子、あまり頭が良くないから」
「かわいそうに」
マヤ先生は、わたしの頭をコンコンと軽く小突く。こんな状況だというのに、実に直接的な表現で馬鹿呼ばわりされ、ひどく腹が立った。
お母様、雌山羊、不純物――わたしは明らかに、人間が知るべきでない真実に近付きつつあった。当初は魔術の使い手や怪物から身を守るために、魔術の知識を求めたらだけだったはずだ。しかし、もはや取り返しのつかない深みに、わたしはいるのだろう。
「マヤ姉は手緩いのよ。躾なら、もっと激しくしないと。どうせ不純物なんだから、乱暴に吸い出しても問題ないでしょう」
「それもそうね」
なんですって! これ以上、激しくするというのか! ただでさえ、常人には味わえないような激しい刺激を味わい、未知の感覚に翻弄されているというのに、これ以上のものとは……
「これ以上は、駄目、です……わたし、壊れちゃう……」
わたしはやめるよう哀願した。これ以上は耐えられないと。しかし、わたしの懇願は、二人の悪魔の嗜虐心を更に刺激するだけであった。
「あら、そう。おあいにくさま、アリシアにはもっと壊れてほしいのよ」
そう言うマリアの笑みの質は、悪戯好きな妖精といった風情から、もっと悪意のあるものへと変わっていた。
「わたしも、もっと乱れるアリシアが見たいわ。いつものお澄まし顔も良いけれど、そういう人が一皮むけば獣も同然っていうのも、それはそれで、なかなか趣があると思う」
マヤ先生は、淫猥な言葉でわたしを嬲 る。本来なら血を吸われて血の気が引いているはずなのに、羞恥のあまり、頭にかっと血が昇る感じがした。
マリアもまた、わたしの耳に口づけする。右耳がマヤ先生、左耳がマリアといった具合だ。そして、両耳から中身が吸い出される。
「あ……!」
目の前で火花が散ったように思えた。そこからは何も見えず、何も聞こえない――わたしは二人の責めに屈し、あるいは脳を全て摘出されたために、意識を失ってしまったのである。




