チェイテ城の饗宴
わたしはドロテアが使っていた儀式用の短剣を拾い、逃げるエリザベートを追った。
彼女はただちに廊下まで逃げた。少なくとも、黒い仔山羊の巨体には廊下は狭すぎるから、それで今しばらくはダルヴァリの追跡は逃れられるだろう。だが、わたし自身は逃がすつもりはない。
「もう逃げられませんよ」
「ひい、ひいい……」
思えば、捕まって悲鳴を上げてばかりだったが、今回ばかりは、何の因果か、悲鳴を上げる獲物を狩りたてて追い詰める立場に回った。これが果たして成長と呼べるのか、それとも、もっと恐ろしい変化なのかは、今のわたしには見当もつかない。恐らく後者に違いないのだろうが、マリアをその手にかけた悪逆無道なる輩を誅滅すべしという熱意が、そのときのわたしを酔わせており、その場ではそんなことは考えていられなかった。
「ぐゆん・あそぞ・ぐやしえ――やぐ・さは――くぎおぶ・ぎばぶ・ぬごず――やぐ・さは!」
わたしが呪文を唱えると、エリザベート前のめりに転倒した。それ以後、起き上がろうと試みるも、やはり上手くいかない。犠牲者の手足を不自由にする呪文と伝えられたのだが、本当に効果があるとは。
とはいえ、吸血鬼は結局のところ、人間の延長線上に過ぎないので、きちんとコツを理解していれば、精神同士の戦いに打ち勝って、こうした呪文をかけることは、さほど難しくはないようだ。
「ゆ、許して……」
「それで貴女が奪った命が、マリアさんが戻ってくるなら、喜んでそうしましょう」
わたしは、彼女の手足の腱をナイフで切った。すると悲鳴が上がったが、これで満足するわたしではなかった。呪文だけではいずれ回復するかもしれないので、吸血鬼退治の作法の一つ、つまり手足の腱を切断してからの埋葬がどれほど効果的か試すことにした。結果、その効能の確認とはならずも、少なくとも今までの悪行三昧の報いとしての苦痛を与えることには成功しているので、わたしの心は幾分か満たされた。
「あはは、凄い声」
母も一緒になって、嬉々として血の制裁に参加した。無邪気かつ残酷に笑ってはいるものの、彼女の瞳の中の憎悪の炎は只事ではない。彼女の手にも、わたしと同じ儀式用の短剣が握られていた。
しかし、わたしももはや母を非難する資格はない。わたしはなおもナイフを振り上げ、突き立てる。母はより凶暴なやり方で、エリザベートの体を痛めつけた。その度に甲高い悲鳴が上がった。
「そこまで」
わたしが思うままに憎き仇の体を切り刻んでいると、後ろから声をかけられ、その手を掴まれた。
「もう、アリシアもお母様も、張り切り過ぎよ」
マヤ先生だった。彼女はそう言って、エリザベートを包み込むように抱き起こした。穏やかな笑み。それは普段わたしや他の家族に接するときと同じものの見えた。
「ちぇっ。マヤ先生が止めるなら、しょうがないですね」
母は玩具を取り上げられた子供のように舌打ちした。心なしか、その発言はわたし自身の口から発せられたかのように思えた。こういうときに、マヤ先生が止める側に入るのは、アルバート・フィッシュや趙江といった前例からすると、少々おかしなところがある。いつも嬉々として悪党を殺していたからだ。母が標的にならないか不安である。
「こちら側なら、わたしの目が届かないと思った?」
しかし、この言葉にはぞっとした。やはり、彼女もまた、狩りを楽しんでいた。そして獲物にとって最悪のタイミングで現れた。
「エリザベート。お母様に代わって、貴女の罪を裁いてあげる。不信心の罪、ドロテアと一緒になって黒い巫女の顔に泥を塗った罪、何よりお母様に刃向かった罪を」
マヤ先生はそう言って、わたしを食べるときにそうするように、手足を絡ませた。
「ねえ、知ってる? ドロテアのしたことは、無駄ではなかったのよ。むしろ、ドロテアの黒い巫女の召喚の儀式は大成功。ダルヴァリと、他の食屍鬼には気の毒だけれど」
マヤ先生が、エリザベートの耳元で囁く。その口は残酷な真実を告げた。あの血の饗宴は、彼女達にとって無駄ではなかった。そして、だからこそ自分の破滅が不可避のものになったのである――なんという因果であろうか。
黒い巫女とは誰なのか――わたしは、これまでで妖怪じみた姿をわたしに見せてきた母、ナツキ・グリーンウッドがそうなのではないかと思っていた。
「黒い巫女はまだお休みのようだから、彼女に代わって、わたしが代わりにお母様の言葉を伝えます」
しかし、どうもそうではないらしい。黒い巫女とは、わたしの目には見えない霊的な存在なのかという仮説が立った。
とはいえ、今のわたしにとって重要な関心事は、エリザベートがどう破滅するのか、という、点だった。今なお、わたしの怒りはおさまっていないのである。
「最後だから、特別にわたしに謁見することを許す――お母様は、そう仰っているわ」
マヤ先生の瞳が玉虫色の輝きを見せ、エリザベートの瞳を覗きこんだ。次に、その胸に銀色の鍵状のものを突き刺した。すると、先ほどまではあれほど赤く爛々と輝いていたエリザベートの瞳が、みるみるうちに光を失う。また、それまで浮かべていた恐怖の表情さえ失われ、完全に能面のような無表情になってしまった。
「……あー、あー?」
しばらくして、エリザベートは意識を取り戻した――否、この状態をそう言って良いのかはわからぬが、ともかく彼女は再び口を開いた。しかし、もはや意味のある言葉ではなかった。単なる、知性を欠いたうなり声である。
間違いなく、マヤ先生の助けでお母様を見たことによって、精神を破壊されたのだろう。
こうなると、あとは食事――もっと適切な表現をするなら、彼女達への生贄として饗されるだけである。
「黒い仔山羊のミルクでここまで育ったのね。黒い巫女への生贄として」
マヤ先生は、わたしに対してそうしてきたように、右肩を甘噛みした。
「おっ、おっ、おっ、おっ、おっ、おおお……?」
上ずった嬌声、知性の感じられない濁った瞳、だらしなく垂らした涎。理性を完全に欠いているため、せめて慎ましやかに声を抑えようとか、こういう声が殿方の好みであるとか、そういった意思による制御から完全に離れた、原形質の快感を表現する声であった。
それらはひどく既視感があった。獣のような声、息遣い、あの腰をくねらせる浅ましい振る舞い――それは、わたしがマヤ先生に食べられているときと同じものではないか。それを理解すると、彼女の姿はまるで鏡を見ているかのようで、ひどい嫌悪感を催した。
「貴女もこちらへ来なさいな、アリシア」
「アリシアも、食事の作法を学びなさい」
マヤ先生のみならず、母までもが、罠にかかった蝶を貪る蜘蛛が如く、エリザベートに群がっていた。そして彼女達は、わたしにも饗宴に加わるよう促したのである。
血の味は本来、鉄の味に過ぎず、つまり健常な精神を持った人間には不味いと思えるものである。ところが、目の前の人達と来たら、それが甘美なるアムリタ(インド神話に伝わる霊薬)か何かであるかの如く、厳かに、味わうに値する美味としてそれを観賞していた。
「こうするのよ」
母もまた、エリザベートの肉付きの良い太股に噛みつく。何かを吸うような音がする度、理性を破壊されたエリザベートが、オットセイみたいな声を上げる。
わたしはそれを見て――本当なら、目を逸らて遁走するべきだったのに、わたしはまるで催眠術にかけられたかのように、ゆっくりと足を進めた。
エリザベートは、傲慢なる悪の女帝とは思えぬほどに畏縮している。この上ない恐れが、ありありと伝わってくる。人の精神から言葉を解する機能を取り去ってしまうほどの恐怖は、お母様を見るという、言語を絶する体験によるものだったのだろう。見れば、目からは完全に光が失われており、もしかすると、失明もしていたのかも知れぬ。単に目にしたものが恐ろしいからといって失明することが、果たしてありうるのだろうか?
「こ……こう、ですか?」
異常な状況であるにも関わらず、わたしはマヤ先生に誘われるまま、エリザベートを味わう。
わたしが舌先でエリザベートの頸動脈辺りに触れ、次いで口をつけ、吸いつく。じゅる、という湿った音がすると、彼女はそれまで以上に激しく痙攣した。
「おお、お……おっ、おっ!?」
すると、エリザベートの潤いのある肌がかさかさに乾燥し、深い皺が刻まれ始める。みずみずしい二の腕が、まるで乾物のように渇き、萎びてゆく。若さと美貌を追い求めた彼女にとって、最も恐れる形での破滅の予兆が見られた。顔は見ないでおいてやるのが、せめてもの慈悲なのだろう。
変化が訪れたのは、彼女だけではない。わたしの心臓が強く脈打ち、体に急激に高熱が発生する。
「あら、がっつきすぎよ。もっと上品に、味わって食べなさい」
「んあ……?」
わたしは返事をするために一時的に口を離す。しかし、イエスと明瞭に発音することは、ついぞできなかった。視界と意識の両方が、どこかぼんやりとした靄の感じがする。そして本能的に思った。すぐに食事を再開せねば、と。
このように、わたし自身も、全身を駆け巡る未知の快感に翻弄され、エリザベートのことを笑えぬ有様だったのである。
マヤ先生のお叱りもまともに耳には入らず、わたしは引き続き、淫らで汚ならしい音を立てて、吸血鬼の生命を貪った。マヤ先生と同じやり方で食事をとるのは初めてなので、加減がよくわからない。
「おほぉ……っ!」
バートリ夫人は一際甲高い声を上げた後、糸が切れた人形のように、がっくりと力なくうなだれた。わたしと彼女は、同時に達したかのように思えた。エリザベートは、えもいわれぬ快楽の奔流に意識をかき乱され、そのために失神したように思えたが、そうではなかった。彼女は血と魂を吸いつくされ、事切れていたのだ。
それに気付いたのは、恍惚感に満ちた異様な断末魔を聞いてから、ワンテンポ遅れた後のことだった。
「じゅるっ、ちゅうっ、んん……っ」
わたしは彼女が動かなくなってからも、暫くその血、と言うより残った中身を吸い続けた。やがて、どれほど搾っても何も出ないまでに干からび、砂を噛み締めるような感触に変わったことで、ようやくわたしは吸うのをやめた。それだけ夢中になって、彼女を貪り食らっていたのである。
口を離すと、わたしの行為がもたらした結果が視界に入った。かつては人間だったものと思われる、しかし人間の死体というよりは、何かの干物と呼ぶに相応しいものが眼前にあった。昔、日本を旅行した際に食べた、干し柿によく似ていた。無惨に萎びて縮んだミイラが横たわっている。かつて誇った美貌は見る影もない。
乙女の血をすすって生き永らえた吸血鬼が、こうして複数の美女(せっかくだから、自分もそのうちの一人に数えておく)に血と精気を吸い尽くされて滅びるとは、なんとも皮肉なものである。
「あはっ」
無惨な死体を前に、わたしの口から漏れ出た声は、恍惚の色を多分に含んだ、甘い吐息だった。自分でも驚くほど、淫らな嬌声だった。今の自分はきっと、貞淑とは甚だ無縁の、蕩けた表情をしているのだろう。以前なら、こんな酷い状態の死体を目にすれば、悲鳴を上げていたであろう。
だが、当時の心情を思い起こすに、この行為に対する罪悪感や嫌悪感は、わたしにはなかった。少なくとも、ただちに罪の意識に苛まれるようなことはなかった。
「ああ……」
わたしはここで、貴重な友人の言葉を思い出す。
「古典的な吸血鬼文学のように、人間として知恵と勇気を振り絞った末に勝つなら、それで良い。けれど、強力な魔術とか、そういう力技で吸血鬼を殺すようなことがあれば、そいつはもう、吸血鬼よりも手に負えない怪物だ。人間でありたいのなら、そうなってはいけない」
あのときのルースベン氏の警告は、思えば今の結果に対する警告だったのだろう。あるいは、予言だったのかも知れない。
そう、わたしは結局のところ、吸血鬼を力でねじ伏せ、その血をすすり、貪り喰らって滅ぼした。単に看守を殺した時点でなら、まだ自己の生命を守るための、不可避の殺人であったと言い聞かせることはできた。だが、もう駄目だ。後戻りはできない。同情に価しない相手とはいえ、わたしは快楽のために文字通り食い物にして殺したのである。
「ああ……!」
そう思うと、全身を駆け巡っていた恍惚感は幾分か冷め、いよいよ自分が人ならざる化け物へと身を落としたという事実が、途端に重くのしかかってきた。
それでいて、まだ先ほどの淫らな食事の行為がもたらした熱が体に残っており、下半身が脈動する感覚に至っては、未だに弱まらない。恐怖で冷めていく体と、恍惚で火照ってゆく感触の両方を、わたしは同時に味わっていた。
「……やっぱり、アリシアほどの珍味ではないわね。ありふれた味だこと」
マヤ先生の品評は、簡潔にして明確なものだった。
「口直しが必要ね。物足りないし」
マヤ先生の矛先がこちらへ向いた。
バートリ夫人がされたことも、これからわたしがされようとしていることも、結局のところは同じなのだ。マヤ先生やマリアの匙加減次第で、わたしもバートリ夫人と同じ末路を辿りうることを忘れたときが、真の破滅なのだろう。
わたしは目を閉じ、自分のこれからの運命を、マヤ先生に委ねた。
「もう、アリシアったら、がっつきすぎよ。わたしの分が残ってないじゃない……ちょっと、躾が必要ね」
わたしが極度の恐怖と性的興奮を同時に味わうという、至極奇妙な感覚に浸っていると、不意にひどく懐かしい感じの声を聞こえた。
それは明らかに、マヤ先生の声ではなかった。
わたしは思わず目を開ける。マヤ先生と、母の後ろ――そこに居たのは、紛れもないお母様だった。




