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白い姫君と黒い巫女  作者: 標準的な♂
黒い聖母
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アリシアの反撃(後編)

 階段を登るにつれて、次第に血の臭いが濃くなってゆく。吸血鬼の気配がどんどん近付いているのを肌で感じる。


 皮肉なことに、吸血鬼の気配と同時に、太陽の温もりもまた近付いている。薄暗い地下牢から地上へと向かっているのだから、当然と言えば当然である。


 吸血鬼に近付くにつれ、わたしの心臓の鼓動も早く、そして激しいものになってゆくのを感じる。目的の達成と大きな危険が同時に近付いている緊張感によるものだろう。決戦を目前にした名だたるバンパイア・ハンター達も、このような気分だったのではないだろうか。


「懐かしいわね」


 突然、母がそう呟いた。


「わたしも、子供の頃は結構冒険したものよ。わくわくするわ」


 わたしは幼少の頃はお転婆で鳴らしたものだが、どうやら母も同様らしい。母の場合は、家庭を持った今でこそ、野山を駆け巡って冒険するようなことこそないが、日々の悪戯っぽい笑み等から、そういう本来の性分が見え隠れするのだ。


 こんな恐ろしい場所でなければ、もっと思い出話に花を咲かせたことだろう。わたしも、母の幼少の頃の冒険譚には興味がある。


 不思議なことに、わたしはともかく、母は何があっても大丈夫な気がする。先程の吸血鬼そのものの行為を見たからだろうか。しかし、吸血鬼は心臓に杭を打ったり、首を切り離せば死ぬが、他方、母はそれでは殺せないように思えてならない。無論、いくら魔術を得意とする母とて人の子には違いなかろうから、実際にはそこまでせずとも死ぬのだろうが。


 大きな扉の前にたどり着いた。扉の奥から微かに音が聞こえてくる。この奥には、きっと地獄が広がっているのだろう。ダンテが潜ったそれとは違って、洒落た警告の文面などは一切見当たらないが、第六感が鳴らす警鐘がその代わりになった。


「アリシア、()()()()にお祈りをしなさい」

「……はい」


 吸血鬼を前にして聖母への祈りをするのは、さほど間違った行為ではあるまい。奇しくも、この先の部屋に囚われているのは、恐らく母と同時に姿を消したマリア・ブラックマンであることが予想される。


 わたしは母と共に、聖母への祈りの祝詞を唱える。わたし自身、キリスト教徒としての信仰心はもはやほとんどなく、ただ食事前の慣習と同じように、()()()()()へ祈りを捧げただけであった。そう、食前とまったく同様に……


 また、母に至っては、


「アスタルテ、カーリー、大いなる神々の母(マグナ・マーテル)、富める大地の黒き聖母よ――いあ! しゅぶ=にぐらす! 千の仔を孕みし森の黒山羊よ! 黒き巫女がならした土地を祝福し、千の仔らに祝福あれ!」


 アヴェ・マリアに捧げる祝詞を唱えた舌の根も渇かぬうちに、神々の母(マグナ・マーテル)、シュブ=ニグラスへの祈りの文句を高らかに叫んだ。既にわかっていたことだが、彼女もまた、大いなる地母神の信奉者なのだ。


「いあ! しゅぶ=にぐらす! 千の仔を孕みし森の黒山羊よ!」


 わたしも同じ文句を口にする。わたしもまた、あるべき信仰心が完全に失われてしまっていたのである。幾つかの魔道書を読んだが、いろいろな呪文に、この一文が見られる。シュブ=ニグラスを讃える祝詞なのだろう。どのような効果があるかは、それこそ神のみぞ知ることだ。

 わたしは扉を開けた。城の中心部に位置する大広間のようだ。


「これは……」

「まあ、悪趣味」


 多くの資料がチェイテ城の恐怖について語る。しかし、直接それを見ることに比べれば、それらは何の衝撃ももたらさないであろう。


 酸鼻とはまさにこのことで、無惨に打ち砕かれ引き裂かれた死骸が床を埋め尽くし、ろくに足場もない有り様である。臭いはもっと酷く、鉄錆と未消化物と腐肉が混ざった、およそこの世にあっては最悪の部類に属する臭いが充満していた。このような地獄の中で正気を保つことは不可能だろう。


 何度見ても、こういう場面はあまり気分の良いものではない。本来なら、恐怖のあまりに失禁し、そのおぞましさに嘔吐し、あるいはショックによって気絶するといった反応が典型的なものだろうが、慣れというものは恐ろしいもので、そうはならなかった。


 花も恥じらう乙女としては残念なことだが、こういう血なまぐさい饗宴に類するものは、これが初めてではないのだ。この前の趙江の件もそうだし、アルバート・フィッシュの精肉場も、幼少の頃に見た本物のサバトも、それに類する血と暴力の宴である。とっくの昔に、わたしは血や臓物を見ても何とも思わなくなっていた。噛み続けたガムは味を失うものだし、何度見ても感動が得られる映画は稀なのだ。恐怖も同様である。


 先程、これほどの地獄の中で正気を保つことは不可能だろうとは述べたものの、わたしの心はまだ十分な冷静さを保っていた。しかし、逆に言えば、こんなものを見ても平然としていられる人間は、そもそもおかしいのだ。したがって、わたしの心もいよいよ狂気に侵されつつあるのかもしれない。


 屍の山から生存者を探してみると、これまた愉快ならざるものが目に入り、眉をしかめる。


 宴の中心、生まれたままの姿で互いの体を絡ませている二人の魔女は、全身を返り血で赤黒く染めている。一種のトランス状態にあるようで、尋常ならざる精神に基づく奇声――性的興奮によるものではない、荒々しい呪文の詠唱――を上げ、その音でもって宴を彩っていた。


 また、二人の魔女には食屍鬼の群れが従っており、相変わらず汚らわしいやり方で、この饗宴を楽しんでいた――自らの本分である、人食いというやり方でだ。


 これら食屍鬼どもは、恐らくエリザベート・バートリの犯行に荷担した者達の成れの果てなのだろう。中には後世に名を残した下男のツルコ、執事のヨハネス・ウィバリーといった面々が混じっているのかもしれない。


 わたしは()()に酷いトラウマを持っていたから、主犯の二名が女性なのは有り難かった。()()を見ると、反射的に怯む。


「お召し上がりください」


 小振りな壺に注がれた白い液体を、エリザベートはゆっくりと時間をかけて飲み干す。


 その液体は一見するとミルクのように見えたが、多分、単なる飲み物ではないのだろう。エリザベートの様子は只事ではない。単に上質のミルクを味わっている人間の顔ではないのだ。何か特別な効能のある霊薬であることは明らかだった。何より、わたしの体があれに反応している。


 わたしは牢に繋がれたダルヴァリを思い出す。身体中に痣のある裸体――執拗に責められた形跡のある部位が胸部であることと、あの白い液体との因果関係について思い立ってしまった。とりとめもない妄想と言えばそれまでだが、ダルヴァリの柔肌の薄皮一枚を隔てた()()について思い当たる節があるので、一笑に伏すことなどできない。


 しかし何より、あの飄々(ひょうひょう)とした母でさえ憤怒の相を見せるものを見つけてしまった。エリザベートの足下に……


「ああ……! マリア!」


 胸を切り裂かれ、変わり果てた姿のマリアを発見するに至り、わたしもまた、かつてない激怒に支配された。単に親しき者の仇に対する怒りだけではない。神聖なるものを汚した輩へ罰を与えねばならぬという使命感が、沸々と沸き起こったのである。


 この冒涜的な邪教の輩を生かしてはおけぬ。言葉を交わさずとも、母とはそれで意見が一致した。


「黒い巫女をお招きする儀式を邪魔しおったな! もう少しだったものを!」


 魔女ドロテアと思しき女性もまた、怒りのあまり激昂する。だが、正義は我々にある。


 黒い巫女は、このような狂気の儀式によって召喚されるようだ。少なくとも、ドロテアの知識が正しいのなら。


 彼女は主君であるエリザベート・バートリの中に黒い巫女を見出だしたらしい。この血の儀式は、エリザベートに黒い巫女を宿す儀式なのだろう。ダルヴァリとの意見が分かれたのは、恐らくそういうことなのだという推測が立つ。


 恐らく、ドロテアにもわからないのだ。黒い巫女なる存在が如何なるものなのかを。


「麗しき千の生贄が、黒き巫女を呼ぶのだ。エリザベート様が黒い巫女となる。シュブ=ニグラスの祝福を受けし、この地球で最新にして最も美しき旧支配者グレート・オールド・ワンの誕生を刮目せよ!」


 エリザベートが逮捕された時点で、その犠牲者は六百人を数えたとも言われている。しかし、千を超えたという話は聞かない。忌まわしきことに、まだ足りなかったのだろう。


「いあ! しゅぶ=にぐらす! 千の仔を孕みし森の黒山羊よ!」


 多くの恐ろしい呪文や邪神への祝詞に含まれる一文を、やはりドロテアは唱えた。


「いあ! しゅぶ=にぐらす! 千の仔を孕みし森の黒山羊よ!」


 わたしも魔女ドロテアと同じ呪文を唱えていた。その奥義を知りつつ、使うまいと心に決めていた呪文を、わたしは激情が命ずるままに、荒々しく唱えた。


「黒い巫女の目覚めを阻む痴れ者どもを殺すのだ!」


 ドロテアはこのように唱え、いずれ現れるものに命令を下した。神々の母(マグナ・マーテル)の聖なる子ら、黒い仔山羊を召喚し、使役するつもりのようだ。自信を持ってそうしている以上、それまではこのやり方で上手くいったのだろう。


「サテュロスの描く真紅の門よりお招きする! 我が生贄を照覧あれ!」


 一方、わたしの呪文はこのように続いた。従えるのではない。仔山羊達はあくまで使者にして代理人であり、捧げた生贄を受け取りに現れるだけなのだ――少なくとも、わたしはそう解釈している。


 呪文は功を奏した。その生き物は現れた。われわれの狙い通りに。


 それは床に描かれた()()()()を潜り抜けてこちらにやってきた。最初に長くのたうつ黒いロープが幾つも束になったような形状の触手が現れ、次に緑色の涎を滴らせた口が見えた。全貌が明らかになったとき、怪物はその姿からは想像もできない優雅な足取りで蹄を鳴らした。


「見よ、わたしは神々の母(マグナ・マーテル)の力の一部をものにしたのだ。黒い仔山羊よ、その痴れ者を始末するのだ!」


 怪物は蹄の音を鳴らしながら、こちらへと歩み寄ってきた。蹄の音以外には何の音もなく、それでいて素早い。反応の遅れた食屍鬼どもの何匹かが踏み潰されたが、生き物は意に介した様子はない。


「ああ……ッ!」


 やがて、怪物は声を上げた。極度の興奮と歓喜、肉体的快楽に対する生理的反応、それら全ての入り交じった声を。


 それが怪物に相応しい、この世ならざる声であったなら、わたしが感じる恐怖も半減していたことだろう。


 その声が恐ろしいと思ったのは、何もわたしだけではなかったようだ。自らのしもべとして呼び出したはずのドロテアは、わたし以上の恐怖に見舞われた。


「ひ……っ」


 ドロテアは短い悲鳴を上げ、尻餅を突き、半狂乱になって後ずさった。魔女は触手に捕まり、今度は長く甲高い悲鳴を上げる。もはや彼女にできることは何もない。あるとすれば、空しく叫ぶことくらいだろうか。


「ああ! わたしを解放してくれたことに感謝します」


 次に黒い仔山羊の口から発せられた声は、確かに意味を持つ言葉だった。そう、その声は明らかに人間のもので、それがこの怪物のキメラめいたおぞましさに拍車をかけていたのである。わたしが恐怖を覚えた原因はこれだった。


 しかも、先程まで幽閉されていたことを臭わす言葉、何より、聞き覚えのある声――これらの要素が、怪物の正体をただちに明らかにした。


 怪物――森の巫女ダルヴァリだったものが、そのロープ状の触手を鞭のようにしならせ、振りかざした。


「何故!」


 どうして自分がこんな目に。多分、ドロテアはそう言いたかったのだろう。


 しかし、考えてみればわかることだ。千の仔山羊を幽閉し、あろうことか虐待したのだから。常人には決して真似などできぬ偉業には違いないが、それが母なる女神の怒りを招かぬはずがない。


 ドロテアは森の巫女の緑色の涎の滴る口に運ばれていった。その後は推し量るべし。こうして長い年月を生き永らえた魔女は滅びたのである。


 乱痴気騒ぎを繰り広げていた食屍鬼たちもまた、同じ運命を辿った。違うことがあるとすれば、鞭のような触手に打ちのめされて死ぬか、捕らえられて食べられてしまうか、踏み潰されて死ぬか、そのくらいであった。


「ひっ、ひいいいッ!?」


 エリザベートは半狂乱になって逃げ出した。同情はできないが、気持ちはわかる。頼れる手下の全てが失われたのだから。


「マリア……」


 わたしはマリアの亡骸の手を取った。まだ温もりが残っている。


 既に犠牲者がこうして出てしまった以上、ハッピーエンドはもはやあり得ないが、せめて諸悪の根源に然るべき報いを受けさせねばならぬ。


 母は何も言わず、わたしの肩に手を置いた。そのときのわたしは、頬に涙でも伝っていたのかもしれない。


 狩りも終わりが近付いている。

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