アリシアの反撃(前編)
まだ二十年にも満たない人生しか歩んでいない中で、誘拐されたのはこれで四度目だ。いい加減、これで最後にしたいものである。もちろん、今回も生き残るという前提での話だが。
わたしが目を覚ましたのは、石造りの牢屋だった。窓はないが、鉄格子の向こうに灯りがある。薄暗く、じめじめとした地下牢のようだ。
向かいの牢屋は無人だった。否、人は居ることは居た。ただし、それはぼろ布と砕かれた白骨が散乱しているばかりなので、人数に入れていないというだけなのだが。
それから、看守の姿も一人見えた。革鎧と長剣で武装した、屈強な体格の男である。見たところ、人間のようだ――アルバート・フィッシュの件もあるから、本当に人間かどうか、まずは確認せずにはいられない。異様に曲がった背中とか、獣じみた顔つきとか、そういう好ましからざる兆候は見られない。
とはいえ、エリザベートの凶行に加担する輩であることには違いなく、やはり良心とか健全な魂とかを備えているとは思えない。
次に、わたしの首から下を見てみる。幸運なことに、捕まえてそのまま牢に放り込んだのか、服は意識を失う前のままで、以前の二件のように素裸にされてはいないようだった。また、手足が鎖で繋がれているようなことはなかった。とはいえ、鉄格子は頑強で、わたしの細腕でどうにかできるようには見えない。
そんな今の自分が持つ最大の武器は何かと考える。
試したことのない、効力の不確かな呪術による攻撃か? 確かに、牢屋の中から看守を殺すことはできるかもしれない。しかし、牢からの脱出には鍵を要する。ここで焦って魔術的な攻撃を看守に仕掛けると、たとえ成功したとしても、鍵がわたしの手の届かない位置に転がることになる。そうなると、いよいよ脱出の目処が立たなくなってしまう。したがって、まず看守をこちらに引き寄せる必要があった。
相手が本当にエリザベート・バートリなら、ただ待っているだけでも、わたしの血を浴びるために一時的に牢屋から出す可能性は高い。ただし、母とマリアはそれだけ危険に晒されるわけだから、そのような悪手をわざわざ選ぶことはあるまい。
そこまで考えると、自分が最低限持っている、女性としての色気だという結論が出てしまった。なるべく使いたくなかった手段である。
幸か不幸か、看守は男性だ。色仕掛けが通じるかもしれない。通じなければ、また別の手段を講じれば良いだけのことである。
色仕掛けなど、必要に迫られることもなかったので、考えたこともなかった。台詞やポーズ、その他の細かな動作などは、全て即興である。
「んぅっ……体が……熱いの……」
敢えて相手から見えるように、上着を脱ぎ捨てる。これでも、わたしにとっては大盤振る舞いである。わたしなりに秩序だったタイミングで看守の方に目配せすることは忘れない。
「あ……んっ、体が、火照って……あ……っ」
わたしはスカートをまくり上げて、下着が相手に見えるようにする。
わたしの誘惑が過激になるにつれ、看守の双眸に汚らわしい欲望の炎が燃え上がってゆく。
看守は耐え切れなくなったのか、鍵を開けて入ってきた。彼の行動は迅速で、すぐさまズボンのベルトに手をかける。
「ああ、逞しい騎士様……どうか、わたくしの体の火照りを冷ましてくださいまし……」
準備を整えた看守が、わたしの体に手を伸ばす。
そして、肌と肌が密着し――
「油断しましたね」
彼の命よりも、わたしの体及び貞操の方が価値があることが判明した。愚かな奴だ。よもやこんな手に引っ掛かるとは思わなかった。どうやら、わたしの魅力も案外捨てたものではないらしい。
わたしは看守の頭を両手で掴み、そのまま体重をかけて横に捻った。
すると、思ったよりも抵抗がなく、彼の首は曲がってはならない方向に曲がり、すぐに呼吸をしなくなった。頸動脈に指を当ててみるが、既に血の流れは止まり、かつて持っていた温もりの名残だけが感じられた。
利用するだけ利用して、用がなくなったら殺す。我ながら、まるで蟷螂のような振る舞いである。しかし、生き延びるためには必要なことなのだ。
男の首を捻った感触は意外なほど軽く、どうやら腕力が以前よりも強くなっているらしいこともわかった。内臓を引きずり出されても生きているくらいなのだから、わたしの体は既に人ならざるものになりつつあるのだろう。
しかし何より、殺人という行動を簡単に選んでしまった辺りを鑑みるに、わたしの精神こそが、もう後戻りのできないところまで来てしまっているのだと痛感する。以前の自分では考えもしなかったことだ。一年前の自分なら、こんな行動をとる勇気は無かっただろうから、ここで大人しく虜囚の身に甘んじ、なすがままにされていたに違いない。
わたしは脱ぎ捨てた衣服を再び身に纏い、動かなくなった看守から鍵を奪って脱出を図る。
同じ階には、わたしの他に客人は居ないようだった。少なくとも、わたしの知っている顔を持った遺骸を発見してしまうような悲劇には、今のところ見舞われていない。恐らくわたしの想像のとおり、ここではない別の場所で、吸血鬼伝説を生んだ血の饗宴が繰り広げられているのだろう。
さしあたって、わたしは地上を目指すことにする。
「ん……っ」
すぐ上の階には、居なくなった母が居た。
わたしは冗談で母は心配無用と述べたが、結局のところ、本当に心配する必要のない人物であることがわかった。
なにしろ、母はミイラ化した死骸に体を重ね、胸板に口づけしていたのである。その口を離すと、血の混じった唾液が糸を引き、妖艶な笑みを湛えていた。周囲には脱ぎ捨てられた衣服が散乱しており、いかなる手段で犠牲者を誘い出したかは明らかだった。一糸纏わぬ姿と、恍惚の表情も相まって、いよいよ淫靡な雰囲気を醸し出していた。
魔術や怪奇現象にすっかり慣れたわたしは、この状況に対する理解が早かった。
母は牢からの脱出にあたり、わたしと同じ手段で看守を誘い出したが、その後の看守への対応に大きな差異があったのである。わたしが護身術の応用で相手の首を捻って殺害したのに対し、母は尋常ならざる手段で搾り取ったのだ。母が跨がっているミイラも、かつては頑強を誇る男性であったに違いない。普通に血を吸ったくらいで、人間があんな姿になるはずがない。
「……あら、アリシア」
母がこちらに気付いた。紅潮した頬、口元から滴る血、まるでこちらを挑発するかのような扇情的な微笑み――どうもわたしは、母、ナツキ・グリーンウッドという人物の全容を理解しかねていたようである。十八年も一緒に暮らしてきたにも関わらず!
母の無事は嬉しいのだが、こんな姿を見たくはなかった。母の暗い側面を直視する心の準備はしていなかったとして、一体誰がわたしを責められよう?
「……吸血鬼の真似ですか、お母様」
「いいえ、淑女の嗜みよ。これでも、エリザベートよりは上品にやってるつもりなのだけれど。貴女もされたことがあるでしょう?」
わたしの心臓が跳ね上がった。マヤ先生やマリアに食べられたときのことを、余すところなく知られている。
「……どうしてそれを?」
「馬鹿ね。アリシアのことで知らないことなんて、わたしにはないのよ。それに、黒山羊と幻影の匂いが染みついているわ。貴女自身の雌の匂いも、随分きつくなってる。黒い巫女が現れるのも近いわね」
「いろいろ聞きたいことはありますけど……黒い巫女って?」
「向かいの人に聞いてみたら?」
母に促されるまま背後を見ると、丁度母が入れられていた独房の向かいに、奇妙な雰囲気の若い女性がいた。白人らしい顔立ちだが髪は黒く、長い。黒のロングヘアという組み合わせのためか、どこかわたし自身にもよく似た雰囲気を持っているように思える。首から下は何も着ておらず、その体に受けた様々な拷問の生々しい痕跡が露になっていた。
「……そこに、誰かいるのですか?」
彼女は檻に入れられているばかりか、手足は鎖で繋がれており、両目をくり貫かれている。まさしく同情に値する、無残な姿であった。
この女性は、生きているというよりも、生かされているという表現が適切であろう。体つきはまだ丸みを保っており、栄養状態にだけは気を使われていることがわかる。先の看守のことを思うと、この女性がどんなことをされたかが、容易に想像がつく。
彼女にこの仕打ちを強いた人物は執念深く、この上なく残忍だ。そいつはきっと、即時の殺害はあまりにも慈悲深いものだと考えており、執拗な苦痛を長引かせることを本分とする、まこと忌まわしき性根を持っていることが伺えた。
「ああ、黒山羊の匂いがします……あのお方、山羊とその黒い巫女が近いのですね! そこのお方、どうかわたくしを戒めから解き放ってくださいまし。わたくしは黒山羊に奉仕しなければなりません」
今の状態の彼女から得られる情報は限られているように思える。彼女が神聖視している黒山羊が指すものは想像がつくが、今の彼女の様子から見るに、解放したところで何ができるかはわからない。
その一方で、彼女を自由の身にすることの危険性もまた、やはり一目瞭然であった。正気を保っているように見えず、何より彼女の言う黒山羊を崇めていた危険な人物のことを思うと、彼女は拘束しておくべきなのだと判断せざるをえない。
ただ、手足を拘束されていても、悩ましく腰をくねらせることはできるらしい。黒山羊への奉仕という言葉には、明らかにいかがわしい意味を含んでいた。
「……貴女が黒い巫女ですか?」
わたしは恐る恐る尋ねた。彼女は明らかに精神の均衡を崩しており、こちらの言葉が通じるかどうかは甚だ疑問だった。
彼女は恐らく、エリザベートの共犯者の一人、ダルヴァリだろう。彼女は森の巫女とされており、彼女こそが母の言う『黒い巫女』に違いないと、わたしは思っていた。言葉の端々から、神々の母に対する純然たる信仰心が伺えるので、ドロテアではなくダルヴァリだという推測が立ったのである。ちょっとした方針の違いから、こうして幽閉され、慰みものになっているのだろう。
「いいえ、黒い巫女はもっと、お母様によく似ておられます。千の仔を孕みし森の黒山羊に」
彼女の証言から、黒い巫女の意味は概ね理解できた。
要は、黒い巫女とはシュブ=ニグラスの大司祭であり、かの大神に仕える小神であり、黒い仔山羊の中でも卓越した存在なのだろう。
わたしはそれに心当たりがあった。それらしい存在に会ったことがある。幼少の頃に一度だけ見た、あの『ハンノキの王』が、それらしい特徴をまさしく備えていたのである。
「行きましょう、アリシア」
「……」
服を着終えた母に促される。わたしとしても、すぐにこの場を離れたかった。
ダルヴァリはやはり危険な人物で、かつてはエリザベートと共に虐殺を行っていた女なのだ。悪いことに、今の彼女が冒されている狂気は、その当時のものよりも更に酷いものかもしれないという懸念もあった。
「もうちょっとしたら、自由になれるわ――この子のお陰でね」
母はそう言って、わたしの頭を撫でた。かく語る母の不吉な含み笑いは、悪戯小僧のそれによく似ていた。




