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白い姫君と黒い巫女  作者: 標準的な♂
黒い聖母
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黒山羊の夢

 やはり、あの蜂蜜酒を飲むと、不思議な夢を見るらしい。あの蜂蜜酒自体にそういう効能があるのだろう。


 わたしは今、セヴァン谷にある小さな町、我が故郷ゴーツウッドの地を踏んでいる――寝る前は遥かアメリカはアーカムに居たのだから、まあ、これもこの前黄金の蜂蜜酒を飲んだときと同じ、あくまで夢なのだろう。


 奇妙な形ではあるが、こうして故郷の土を踏むのは、実に半年ぶりだろうか? 


 しかし、実を言うと、わたしはこのゴーツウッドという町があまり好きではない。なにしろ食事が不味い。しばしばイギリス人は味音痴で、連中の作る飯はマズいという風評がある。わたし自身も、少し前に日本を旅行し、次いで米国での食事を味わった今、それを痛感している次第である。


 だが、そうした事実を差し引いても、ゴーツウッドにある店で出てくる料理は、輪をかけて酷い。今はインターネットというものが発達しており、田舎の個人経営の店の評判さえ容易に調べられるのだが、ゴーツウッドには評判の良い店がほとんどない。


 もし、ゴーツウッドに来る機会があったら、是非、駅前にある『ステーション・カフェ』で軽食をとってみると良いだろう。そうすれば、わたしが言ったことの意味がわかるはずだから。


 わたしはゴーツウッドを飛び出してアーカムへ留学しているが、いっそのこと、アメリカに帰化してアーカムに住もうかと、本気で検討している。この辺は、父とウィルバー氏に相談してみよう。


 話は逸れたが、わたしはそのゴーツウッドにいる。駅を出てすぐに見える、町のシンボルである奇妙な鉄塔――あんなものは、世界中どこを探したって、同じものはないだろうから、間違いなくここはゴーツウッドだ。


 あの鉄塔が何のために建っているのか、わたしは知らない。ローマからやってきたテンプル騎士団が建てた遺物としか知らない。


 だが、夢の中のゴーツウッドは、わたしが知るゴーツウッドとは、少々様子が違った。


「ようこそ、ゴーツウッドへ!」


 人懐こく話しかけてきた男性を見て、わたしはぎょっと目を見開いた。


 以前、黄金の蜂蜜酒を飲んだときに出てきた怪物と、全く同じものが居たのだ。つまりそいつは、赤黒い肌の巨人で、角があり、獣の下半身を持つ、ギリシャ神話のサテュロスに悪趣味なアレンジを加えて悪魔的な姿にした、あの恐ろしい悪意に満ちた闇の妖精だったのだ。その顔は細部までよく覚えているが、やはり顔の作り、その声さえも全く同一のものだった。


「美味しいお店をお探しですか? お泊りでしたら、『セントラル・ホテル』一択ですよ」


 しかし、その闇の妖精は、あのときとは打って変わって、ひどく親切で、人懐っこい様子である。彼の言う通り、『セントラル・ホテル』がゴーツウッドで最も上等な宿泊施設である。


「いいえ。久しぶりに実家を訪ねようと思いまして」

「実家――ああ、グリーンウッドのお嬢さん! まあ、大きくなって……」


 確かに久しぶりだ。幼少の頃にわたしをさらって以来か。しかし、彼に名前を名乗ったことはないはずだ。わたしが名前を明かしたのは、アリスと名乗った森のニンフだけだったはずだ。


「ええ、お久しぶりです。道はわかりますよ。地元ですからね。ご親切に、ありがとうございます」


 わたしは恐ろしい闇の妖精に別れの挨拶を述べる。


 彼に話したように、わたしはひとまず実家に帰ることにする。寄りたい店などは特にないので、まっすぐに帰路につく。


「あら、ひょっとしてアリシアちゃん?」


 帰る途中、聞き覚えのある声がしたので振り向くと、そこには先程の悪魔的なサテュロスじみた化物が正常に見えるような、世にも恐ろしい異形の怪物がいた。つまりそいつは、わたしがよく知る木々の精霊であり、蔦のような触手と蹄のある脚を持つ、『黒い仔山羊』であった。


 声そのものは、近所でパン屋を営んでいるフローラおばさんのものだったから、これには驚かされた。


「フローラおばさん! 化粧を変えられたのですか?」

「ええ、わかる?」


 間違ってたらどうしようかと思ったが、少なくとも夢の世界におけるゴーツウッドでは、この生き物がフローラおばさんらしい。


「最近、不審者がうろついているみたいなのよ。アリシアちゃんも気をつけてね」

「はい。お気遣いありがとうございます」


 わたしは軽い世間話を済ませた後、フローラおばさんらしい『黒い仔山羊』に別れを告げた。


 思えば、わたしの心臓も随分強靭になったものだ。あんな、いかにも恐ろしげな怪物を相手に、不自由なく普通の会話ができたのだから。


 ここまで来て、ゴーツウッドはこんな町だったかと自問する。あの町全体に漂う、どこか陰鬱な雰囲気がまるでない。しかし、正常な人間の姿をした生き物も見られず、町の風景は人間の社会から完全に隔絶された、妖精達の隠れ里といった風情であった。


「すみません。道をお尋ねしたいのですが」


 次にわたしに話しかけてきたのは、少なくとも見た目は普通の人間に見える。年の頃は四十代だろうか、中年の女性で、若い頃はさぞ美人ともてやされたであろうことが伺える貴婦人だった。


「……どちらへ行かれるのですか?」

「グリーンウッドさんの家をお尋ねしたいのですが」


 我が家への客人。しかし、この顔はどうも良くない。確かに美人には違いないのだが、ある極悪人、つまり肖像画におけるエリザベート・バートリによく似ており、どうも印象がよろしくない。


 それに、人間の姿が見られない中で、少なくとも現時点においては、わたしを除く唯一の人間が彼女だ。とすると、フローラおばさんの言っていた不審者とは、逆説的に彼女を指すということになる。


「それでしたら――」


 以上のような理由から、なんとなく嫌な予感がしたので、わたしは彼女が道に迷った挙句に警察署に辿り着くように仕向けてやった。


 そのグリーンウッド家は、ゴーツウッドにあっては歴史ある名家である。明らかに周囲よりも大きな館には、かつての栄華の名残が見られた。懐かしの我が家は変わりなくそこにあった。古めかしいレンガ造りの屋敷は、見間違えようもない。


 ただし、庭に植わっている木は、明らかに木ではないものに変わっていた。蹄のついた太い足、いくつものロープ状の触手、牙のある口を備えた、奇怪な生き物――『黒い仔山羊』、あるいはわたしが『ハンノキの王』と呼んでいる存在だった。


 このような偉大な木々の精霊は、町のあちこちで見られた。余所の家の庭の木も、メイン・ストリートに植えられていた街路樹も、全てこの生き物とすり変わっており、ゴーツウッドの風景をますます異界めいたものにしていた。


 呼び鈴を鳴らすと、母が出てきた。彼女だけは何の異形も見受けられず、完璧な人間に見えた。


「ただいま」

「あら、おかえり。帰るなら連絡ぐらい寄越しなさいな」

「すみません。お母様が驚く顔が見たくて」

「もう……誰に似たんだか」


 顔も含めて、間違いなく母に似たのだ。父には似ていない。


 いつもは母が悪戯をして、わたしがびっくりさせられるのだが、たまには逆でも良いだろう。


「最近、ゴーツウッドも物騒なんだから。不審者がうろついているそうよ。外を歩くときは気をつけてね。本当だったら、駅についた時点で連絡して欲しかったのだけれど……何事もなくて良かったわ」


 不審者どころか、そもそも人間の形をした生き物が一人しか居なかったのだが……まあ、そこに触れるのはよそう。藪をわざわざつついて蛇を出すこともあるまい。


「お父様は、今日もお仕事ですか?」

「ええ」


 それは助かる。わたしは父とは不仲である。どうも父という感じがせず、向こうも恐らくわたしを娘とは思ってはいないのだろう。彼にとってのわたしは、グリーンウッド家の血筋を残すための手段にすぎないに違いない。夢の中でまで見たい顔ではない。


「そういえば、魔術の勉強を始めたのでしょう。どう、順調なの?」

「ええ。お母様が送ってくれた資料は役に立っています」

「そう、良かった。そういえば、一つだけ向こうに送れなかった資料があったの」


 それはこの前母が送ってくれた資料と同じ小冊子で、題名は『ゴーツウッドの秘伝』とあった。


「今のアリシアには役立つと思うわ」


 母が送ってくれた資料の中には、少なくともゴーツウッドのことは含まれていなかったはずである。


 まだ意識が覚醒の世界へと引き戻される気配はないので、この小冊子の中身は暗記して土産としよう。あくまで夢なので、これらゴーツウッドに伝わるという秘術のうち、現実世界において有効な知識がどれだけあるのかは疑問だが、創作活動のネタくらいにはなろう。


 ページをめくると、まずゴーツウッドの名物の奇妙な鉄塔の由来と、それが建てられた意味について書かれていた。要約すると、この鉄塔はこの辺りにキリスト教以前から伝わる古代の地母神をまつる儀式のためのものだという。その地母神は、恐らく趙江が神々の母(マグナ・マーテル)と呼んだ存在と同一のものと思われる。


 その他にも石像に命を吹き込む儀式とか、神々の母(マグナ・マーテル)の御使いをお招きする儀式とかが記述されていた。


 最も興味深く有用なページには、『真紅の輪』というサブタイトルが添えられていた。これはイギリス全土に伝わる不吉な黒い犬の伝承と関わりがあり、その中でも特に猟犬としての性質を持つものが持つ狩りの技術を模倣したもので、要するに空間を越えて遠く離れた場所に瞬時に移動することができるというものである。恐ろしい『猟犬』どもは『真紅の輪』を用いて、どんなに遠くまで逃げた獲物も追い詰めて殺し、その魂を主人に捧げるというのである。


 もし現実に使用可能なら、この『真紅の輪』は本当に有用な魔術である。わたしはこの儀式の手順を暗記する。


「そうそう、忘れ物よ。貴女が大事にしてたでしょう?」

「これは――ええ。ありがとうございます」


 母から、幼少の頃に森のニンフから貰った石の笛を受け取った。敢えて実家に置いてきていた宝物だが、いざ手元にあると安心する。


 しかし、あまりに五感が鋭敏に働くので忘れていたが、これは夢だ。夢の中でこうした宝物を受け取っても、現実には持って帰ることができないではないか。


 この辺りで、わたしの意識は覚醒の世界へと引き戻された。


 わたしが目を覚ましたとき、まず最初に驚かされたことが一つある。わたしの手には例の石笛が握られていたことだ。


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