母の訪問
「ん……ぅ……はぁ……っ」
その日は、朝から体が妙に火照っていた。体の内側から湧き出る高熱のあまり目が覚めたと言うべきか。
急な喉の乾きを覚え、わたしは買い置きのミネラルウォーターに手をつける。冷蔵庫でよく冷やされた水は、どこか甘い味がした。口内の渇きはこれでどうにかなったが、体の火照りはどうにもならない。
事件以降、ある周期でこういう日がある。そういった日には、前述の通りよく冷えたミネラルウォーターを飲み、それから冷水のシャワーを浴びることで解決を図ることにしている。
それらが終わる頃には、丁度良い時間になる。ここからはいつも通り、朝食を作り、大学へ行って講義を受け、夕方まで図書館で調べものをする。努めて暗くなるまでには帰り、それから夕食の用意をし、食後のイブニング・ティーを堪能してから研究を再開。お風呂に入って就寝する。この基本的な流れが変わることはなかった。
 わたし、アリシア・S・グリーンウッドの体に変化が訪れたその日から、周囲の反応が少し変わった。
少なくとも、外見的な変化は赤い瞳だけだったから、これはカラーコンタクトによって誤魔化している。わたしのパスポートにあった写真を使って、色を合わせることはできた。
真紅の瞳を得てからの変わったことと言えば、視力が非常に高くなったことだろうか。以前は眼鏡が必要だったのだが、この目になってからは不要になった。また、この真紅の目は暗闇の中でも不自由なく見える。
世にも恐ろしい体験と、自分自身の体の変化に対する不安もあったが、次第に元の日常を取り戻しつつあった。
とはいえ、魔道書の研究は中断していない。脅威はまだ去っていないと、わたしは確信している。何故なら、屍食教典儀のページは未だ全てが揃ったわけではないからだ。趙江の一件の後、件の忌まわしき書物のページは増えていたが、まだ完全な形になっていないのだ。つまり、残りを持っている悪意ある存在がまだ残っている。真に善良な人間なら、あんなものは焼き捨ててしまうだろうが、それならそれで良い。だが、事態は悪い方向へ進むものと考えた方が良いだろう。
それはさておき、今、わたしは友人のアビゲイル・アームストロングことアビーと一緒にアフタヌーン・ティーを楽しんでいる。
「最近、すごく綺麗になったわよね、アリシア」
アビーが何の気なしに言った。これで相手がルースベン氏のような男性だったら、単なるリップサービスとして受け取り、「まあ、お上手」とでも返していたのだろう。
そう、周囲の反応の変化とは、要するにこういうことだった。以前と比べて美人になったとか、よく言われるようになったのだ。ブラックマン氏にまで謂われたくらいだ。ちょっと嬉しい。
実のところ、わたし自身の顔には、瞳の色以外は変化はなく、それもカラーコンタクトで隠している。化粧を含むファッションも特に変えてはいない。なので、急に綺麗になったと言われても、なかなかピンと来ない。
原因は眼鏡かと、最初は思った。真紅の目を得てからは眼鏡が不要になったので、外して生活するようになったが、綺麗になったと言われるようになったのもその時期だ。しかし、伊達眼鏡をつけても同じことを言われるので、結局、何が決め手となっているのかはわからない。
同性のアビーに言われるくらいなのだから、自信を持っても良いのかも知れない。
変化と言えば、わたしの友人にも面白い変化が訪れていた。
「あら、そう言うアビーこそ、昨日、男の方に声をかけられていたでしょう。貴女の方が、ずっと綺麗になったと思いますわ」
「あら、わかる?」
「ええ」
アビーは照れ臭そうにはにかんだ。
そう、かく言うアビーこそ、わたしと違って明らかに、そして急激に美貌に磨きをかけていた。
以前の彼女は、元々背が高いことに加え、太い手足と胴体の中にものすごい筋肉が凝縮された、完全なボディビル体型であり、女性としての魅力を完全にかなぐり捨てていた。
ところが、今は全体的に筋肉が細く絞られ、健康なアスリート体型になっている。顔つきは心なしか険がとれており、化粧の仕方もよく洗練されているので、以前のような威圧感はない。結果として、野性味のある美女と呼べるようになっていたのだ。
これにはルースベン氏も驚いており、次のようなコメントを残したという。
「凄いな。ガンマ線を克服したのか」
彼は有名なアメリカン・コミックのヒーローに例えて茶化したが、照れ隠しにしても少々やり過ぎである。彼はいつものように折檻をされた。さながらヒーローに打ちのめされる悪役のようだった。やはりデリカシーのないルースベン氏らしい。
「女の子はね、恋をすると綺麗になるものなのよ」
「まあ」
そして、それには実に意外な原因があった。
以前のわたしが本を友人としていたように、アビーもまた筋肉とレスリングが恋人だった。そのアビーが、自分が恋をしていると漏らしたのである。
となると、彼女が急に綺麗になった理由はわかる。意中の殿方の心を引き、繋ぎ止めるためには、美貌の維持と向上は有効な手段だろう。
「アリシアはどうなの? 気になる男の一人や二人くらい居るんじゃない?」
「それは……わたし、男の人とあまりお話をしないものですから、そういうのは……」
一方、恥ずかしながら、わたしはまだ恋というものを知らない。
両親の決めた許嫁が居るということは、恋愛の自由が無いことを意味する。そのため感情の側面における恋などというものは、とんと存ぜぬ。また、幼少の頃に全裸の魔術師に酷い目にあわされて以来、男性恐怖症のきらいがあったから、男の人に一目惚れするようなこともなかった。
このため、わたしはそもそも恋といものが、どんなものなのかを知らない。オックスフォード英語辞典と文学的な解釈に従うなら、それは誰かをいとおしく思う気持ち、相手に心を奪われている状態を指すのだろう。それらしい感情に心当たりがあるとすれば――いや、よそう。
「顔が赤いわ、アリシア。やっぱり、気になる人こ居るのでしょう?」
「秘密、ですわ」
わたしはニッコリ笑って誤魔化した。顔の紅潮は許嫁のせいではないのだが、それらは敢えて言う必要もあるまい。
今はまだアビーには秘密なのだが、その婚約者――ウィルバー・ウェイトリー・ジュニア氏は、近々こちらに来る予定があるとの連絡が、昨日あった。事前に言わずにその場で紹介した方が、驚いてくれるだろう。
そうしてガールズトークに花を咲かせていると、不意に携帯電話の着信音が鳴り響いた。
「ごめんなさい。少し失礼しますね……もしもし、グリーンウッドです」
『アリシア? わたし。ママよ』
母からだった。わたしは身構えた。わたしの警戒は、後述する、母の厄介な性質に由来する。
さて、わたしの母については何度か言及している。元日本人で、シュブ=ニグラスに関する儀式について完璧な手順を記した魔道の書を著した魔術師である。さぞ恐ろしい人物だと、貴方は思うかもしれない。
「……今、どこにいるの?」
わたしは恐る恐る尋ねた。
『――貴女の、後ろよ』
携帯電話の向こうからその声が聞こえた瞬間、わたしの右肩に締め付けるような力が加わった。肩を握る手は、爪の先が食い込むほど力強く、痛みを覚える。
「きゃあ!」
歴史に名を残すほどの変態に拉致監禁されたり、はらわたを引き抜かれたりといった出来事を経ても、こういう悪戯に驚くような、人並みの心臓はまだ残っているらしい。
振り向くと、そこには鏡があった――多くの人は、わたしと彼女を、双子の姉妹と思うだろう。ルースベン氏辺りなら、ドッペルゲンガーだと騒ぐかもしれない。つまり、わたし自身にそっくりな人ということだ。
「……もう、お母様ったら」
「えへへ、びっくりした?」
わたしと瓜二つの顔の女性。彼女こそはナツキ・グリーンウッド、あるいは黒森奈月といって、わたしの実の母である。
この行動からわかる通り、非常な悪戯好きである。恥ずかしながら、もう四十路はとうの昔に超えているのだが、未だに落ち着く気配はない。
「はじめまして、ナツキ・グリーンウッドです。いつも娘がお世話になっております」
「い、いえ、こちらこそ。アビゲイル・アームストロングです。お世話になってます」
母は握手を交わすべく手を差し出す。アビーがその手を握り返すと、母は手を引く。すると、手首から先が抜けた。
「きゃっ!」
これも母がよくやる悪戯である。このとき使う玩具の手は、かなり精巧に作られており、なかなか見抜かれない。
「お母様! 初対面の人に悪戯をしては駄目でしょう!」
「痛っ」
わたしは母を小突いて叱りつけた。
「ごめんなさい、アリシアよりは冗談が通じそうな人だったから、つい……」
「もう……それで、何故、こちらに来たのですか?」
来るときの事前連絡がなかったのは、どうせわたしを驚かせるためとかそんな理由だろう。
「実は、貴女の未来の旦那様が、近々こっちに来るっていうから、わたしも来たのよ。しばらくそっちでお世話になるけど、今日はちょっと用事があって遅くなるわ。ブラックマンさんには言ってあるから。それじゃあね」
「あっ、ちょっと……」
母は早口にまくし立て、それだけ言うと、嵐のように去っていった。
「……変わった方ね」
茫然自失から立ち直ったアビーは、やっと口を開いた。ルースベン氏に慣れているからか、変人への耐性はあるらしく、あからさまな憤慨の念が見られないのは、こちらとしては幸いである。
「すみません。母がご迷惑をおかけしました」
「いいえ。それより、許嫁なんてものが居たのね。ふーん……」
だが、アビーはわたしを弄るネタができたとばかりに追及してきた。わたしがアビーを驚かせようと、敢えてその存在を伏せていた許嫁の存在が、母の口から明かされてしまったからだ。
その日の会話は、わたしにとっては若干不本意な内容で盛り上がった。
その後、研究を終えて家に帰ると、マヤ先生は不在で、ナイ神父ことナイル・アーサー・ブラックマン氏が居た。
「おかえり、アリシア」
「ただいま、戻りました――そちらの荷物は?」
見慣れない荷物が置いてある。
「ああ、今、君のお母さんと、わたしの姪が遊びに来てるんだ。仲良くしてあげて欲しい」
母に加えて、ブラックマン氏の姪とも食卓を囲むことになるわけで、非常に賑やかになる。
「まあ! どちらにいらっしゃるのですか?」
「君の部屋に通しているよ。暫く同じ部屋で過ごすことになるかな。すまないが、不便をかけるよ」
「いいえ、お気になさらず。ちょっと、挨拶に行ってきますね」
わたしはブラックマン氏の姪に挨拶に行った。暫く同じ屋根の下で寝食を共にする仲になるので、粗相のないようにしなければならない。
「はい、どうぞ」
わたしがノックをすると、やはり聞いたことのない女性の声が聞こえた。
「失礼します」
ドアを開けると、そこにはわたしよりも三つくらい年下の女の子が居た。非常に印象深い、ブラックマン氏と同じ特徴を備えており、白人の顔立ちに浅黒い肌を備えていた。こうした異形を除けば、非常な美少女であり、マヤ先生にも匹敵する。プロムではさぞ目立つだろう。
「貴女が、ナイル叔父様が言ってたアリシアさんね」
わたしは下腹部の異様な疼きと、全身の異様な高熱を覚えた。理由はわからないが、夜中にも感じた謎の火照りが、マリアと対峙した瞬間に、より激しいものとなってわたしを襲ったのだ。
「マリア・ブラックマンよ。よろしくね」
「……はじめまして。アリシア・S・グリーンウッドです。よろしくお願いします」
わたしは体の火照りを極力隠し、努めて平静を装いつつ自己紹介をした。
しかし、その直後、マリアがいきなり抱きついてきたことで、わたしの理性は瓦解の一途を辿った。
「いい匂いがするわね」
「や……あぅ……」
冷静沈着であろうとするわたしの努力も空しく、彼女にわたしの体温と脈動を伝える羽目になった。彼女と体が密着したことで、わたしの心臓の鼓動が更に加速し、血が沸騰しているかのような熱っぽさを感じた。裸で抱き合うとか、そういった淫猥な意味を含んだスキンシップではないのだが、ひどく恥ずかしい。
同時に、わたしも彼女の体温と香りを感じた。初対面で、しかも年下の相手なのに、わたしにとってはどこか懐かしい、幼少の頃に母と一緒のベッドで眠ったときのことが思い起こされた。
「何故かしらね。貴女に惹かれるものがあるの」
マリアはわたしから体を離すと、屈託のない笑顔でそう言った。
結論を言うと、わたしもマリア・ブラックマンという人物に対し、ひどく惹かれるものがあったのである。
 




