復活の日
 チュン、チュン、という鳥のさえずりが、目覚まし時計の代わりとなった。カーテンの隙間から差し込む陽光は温かで、冬の到来を感じさせない。直前の体験さえなければ、上々の目覚めである。
結局、わたしは生きていたらしい。目をくり貫かれ、腹を裂かれ、とどめとばかりに心臓すらも抜き取られた――夢でなければ、生きているはずはない。
しかし、心臓を摘出された後の記憶が確かにある。視覚的な情報は無いものの、はっきりと覚えている。血と死の臭い、食屍鬼どもの歓声、悲鳴、あの趙江の壮絶な最期。何より、肌と本能で感じられた、女神の気配――全てが鮮明な記憶として保たれていた。
それすらも夢と考えることは容易い。わたしが生きていることが、あの出来事が全くの夢であったと証明する、何よりの証拠となるであろう。
瞼を持ち上げると、いつもの見慣れた天井があった。再び目を閉じ、瞼の上から親指で押さえると、確かに眼球の存在が感じられた。目は無事のようだ。
次に、切り裂かれて中身を引きずり出された筈の腹部に触れる。寝間着越しではあるが、内臓を摘出されて空洞になってはいないことは確認できた。乳房、肋骨も同様である。
やはり、あれは夢だったのだろうか。
結論は出なかったが、わたしはベッドから身を乗り出し、いつも通りに台所へ向かうことにする。あれが優芽であれ現であれ、わたしはいつもの通り、マヤ先生やブラックマン氏の為に朝食の用意をしなければならない。
四肢はいつもよりも軽やかに動いた。体が軽く感じられたのだ。いつになく体の調子が良い。
「おはよう」
マヤ先生は既に台所で待っていた。それまで読んでいたアーカム・アドヴァタイザーから目を離して、こちらに笑顔を向ける。
「おはようございます。今日は早いですね」
「ええ。今日は、特別な日だから」
彼女は含みのある笑みを浮かべている。特別な日という言葉に、わたしは反応する。
何の日だっただろう。思い当たる節は、あの悪夢のような出来事と、わたしが何故か生き長らえていることしかない。
「先にシャワーを浴びてきなさいな。朝食はその後よ」
ああいった悪夢の後は、ひどく汗をかく。マヤ先生の指摘の通り、わたしの体と衣服は、汗でじっとりと湿っていた。薦めに従い、シャワーを浴びることにする。
脱衣場で服を脱ぎ、首から下を見下ろすが、やはり異常は見られなかった。長年――と言っても、まだ二十歳にもならない――馴れ親しんだわたしの体には、あらゆる意味において、傷痕は見られなかった。
わたしはシャワーを浴び、汗を洗い流した。温水の心地良さを暫く堪能した後、脱衣場で水滴を拭った。
わたしは髪が長いので、手入れには気を使う。乾かすときは慎重に、ある程度の時間をかける。幸い、今日はかなり早起きだったから、その時間はたっぷりある。
わたしは下着だけ着用した後、洗面台の前に立つ。
しかし、そのとき、わたしは見てしまった。鏡に映る、わたし自身の顔を。それを見たわたしは驚愕した。
わたしの瞳の色が、まるでマヤ先生のものと同じように、ルビーの如き真紅へと変わっていたのだ!
わたしは自分自身が行った占いの結果を思い出す。『変化あり。残酷な敵。栄光』――既に、そのメッセージの全容が理解できつつある。今はまだ、目の変化しかわからないが、この分だと、あのとき抜き取られた内臓にも、何らかの変化が訪れているに違いない。
「アリシア」
不意に、真後ろから声がした。ほとんど耳元で聞こえる、囁くような声を。
わたしの背後に、マヤ先生が立っている。
彼女は戸を開けずに脱衣場に入ってきていた。まるで最初からわたしと隣接していたかのように。
背中に柔らかいものが触れている。それは温かな体温、すべすべとした感触も併せ持っていた。マヤ先生の肌と、わたしの肌が密着していた。彼女もまた、わたしと同じく、一糸纏わぬ姿だった。
「マヤ先生、何を――」
「決まってるじゃない。朝御飯を食べに来たの。メイン・ディッシュは――貴女よ」
後ろから両肩を押さえられ、首に刺すような痛みが走った。以前と同じ、体の中の何かが吸いとられるような、名状し難い感触がそれに続いた。
「んっ、あっ、はぁ……っ」
ただ、今回はそれだけではなく、体の中に何かが入ってくる感覚もあった。体は以前よりも更に熱く火照っている。以前の体験よりも激しい、まるで体にガソリンを注ぎ込まれ、それが燃焼しているかのよう。その心地良い熱は、明らかにシャワーの温水によるものではなかった。
「前より熟してきたわね。不純物が減って、芳醇な味わいが深くなっているわ」
マヤ先生は、ワインの品評にも似た感想を口にした。実のところ、ここまでの意味は、概ね理解できた。あれは夢ではなかった。わたしの目や内臓は、確かにあの儀式の課程で摘出されたのだ。あれらは彼女にとって不純物だったのだろう。
では、今のわたしの体の中には、一体何が詰まっているのだ?
その疑問に対する唯一の手がかりは、わたしが意識を失う直前に感じた、何かがわたしの腹部を這い回る感触だ。わたしの欠けた部分を埋め合わせるかのような――
「ごちそうさま」
マヤ先生はそう言って、わたしの肩から手を離した。手足に力が入らず、自分の体を支えることもできなくなったわたしは、尻餅をつく。
全身が弛緩していた。頬を唾液が濡らしている。あのときと同じで、きっと、酷い顔をしているのだろう。その場にへたりこんだことで、顔が洗面台よりも下の位置にあったから、自分のみっともない顔を見ることにはならずに済んだ。
「つまみ食いも、程々にしないとね。貴女のお母様に怒られてしまうわ」
母――ナツキ・グリーンウッド、もしくは黒森奈月――思えば、母も謎の多い人物である。趙江は非常に強力な魔術師であった(本人が言うには、少なくとも三千年も生き長らえてきた)が、その彼をして、最高の資料と言わしめる程のものを、自ら編纂したのだ。
途端に、わたしは十八年間も馴れ親しんできた母が恐くなってきた。母には母の、何かとてつもなく恐ろしい計画があるのではないか――そう思えてならないのだ。
「貴女はこれから、産み、増え、地に満ちるのよ。ここを使ってね。それから、ここを使って、子供を育てるの。お母様も、きっとそれを望んでいるわ」
マヤ先生は聖書の一文を引用した言葉を耳元で囁き、わたしの臍の辺りを撫で、次いで乳房に触れた。要は、人並みに男の人と付き合って結婚し、子供を産み、育てる――確かに、普通の母ならそれを望むだろう。孫の顔を見たいと思う親心はよく理解できるし、叶えてやりたいとも思う。
しかし、マヤ先生の言葉には明らかに含むところがあり、わたしが今考えているようなものではないように思える。
「あふ……っ」
わたしの口から、艶っぽい声が漏れ出た。感覚に対する様々な刺激のために、思考にノイズが入る。まだ考えるべきことは山ほどあるのに、それらが考えられない。
体が熱い。意識が朦朧とする。マヤ先生の言葉を十全に理解するだけの意志が保てなくなりつつある。
「貴女は賢い子だから、お母様の考えは理解できるようになるでしょう。そう遠くないうちにね」
「あ……あ……」
わたしの役目? お母様がそれを望んでいる――何を? 産み、増え、地に満ちることを?
それらの意味をよく考えるだけの心の余裕は、もはやわたしには残されていなかった。身体中を駆け巡る熱の奔流が脳にまで達し、わたしの理性を塗り潰してゆく。
「んぁ……っ」
わたしの体が完全に弛緩し、もはや座ったままでいることさえ叶わぬようになると、仰向けに倒れた。そんなわたしの顔を、マヤ先生が覗きこんでいる。
わたしを見下ろすマヤ先生の顔――確かに笑っていた。白い髪、肌、睫毛。あまりに整いすぎて、ぞっとするほどの美貌――何より美しい、玉虫色の瞳。しかし、首から下――形の良い鎖骨と、そこから更に下――あれは見た目こそ完璧な、どんな人間の女性のものよりも無欠の人間の形をしてはいるが――いや、それ以上はきっと見るべきではない、ましてや考えたりするべきではないものだ。
わたしは脳髄を焼く高熱に身を任せ、意識を手離した。
 




