饗宴の果てに
昔の日本には切腹という刑が存在したという。ルースベン氏が語るところによれば、切腹またはハラキリとは、近代以前の日本における極刑の一つで、小刀で自分の腹を切り裂いて死ぬことを強制されるというものである。その際、せめて無様に苦しまぬようにと、介助者が刀で首をはねて即死させる。これを介錯という。
切腹における介錯の重要性を、わたしは身をもって痛感していた。腹を乱暴に切り裂かれ、その中身の臓物を引きずり出されたのだ。もはや苦痛の中で死を待つばかりで、いっそ速やかに死を賜ることこそ、この上ない慈悲に違いなかった。
幸か不幸か、わたしはそのような慈悲に預かることはなかった。生きたまま解体される、世にも恐ろしい状態を認識しながらも、決して意識を失うことはなかった。目を除く感覚器官は無事で、耳、鼻、肌で周囲の状況を把握することができた。
そのため、わたしは笛の音を聞くことができた。聞き覚えのある、冒涜的なフルートの調べだ。
彼女が近付いてくる。
「これはこれは、ミス・ウェイトリー」
マヤ先生が来た。しかし、趙江がそれに気付く前に、わたしは彼女の来訪を確信していた。
あのときと同じだ。冒涜的なフルートの音色こそ、マヤ先生が現れる先触れなのだ。
囃し立てていた食屍鬼どもも、マヤ先生の到着を知るや、一斉に静まり返った。どうやら彼らは、アルバート・フィッシュよりは、マヤ先生の正体に関する理解と洞察があるようだった。
「ウェイトリーの姫君が、どんなご用で?」
「面白いことをしているようだったから、ちょっと立ち寄ったのよ」
趙江はわたしよりもマヤの先生のことをよく知っているようだ。あるいは、わたしが知らなさすぎるだけなのかもしれない。
「貴女が言うと、冗談に聞こえないから恐い。して、われわれの邪魔をするので?」
「いいえ。でも、その子を捧げるの? 神々の母――シュブ=ニグラスに、アリシア・S・グリーンウッドを?」
マヤ先生はもったいぶった言い方で尋ねた。わたしのフルネームを強調している。その意図はわからないが。
「ええ。既に神に捧げるための下ごしらえを終えたところです。最高の供物でしたから」
「それは、困ったわね。その子の作る料理は、創作中華以外は美味しいから、少し惜しいのだけれど……」
アルバート・フィッシュに対する問答と同じことを言っている。あのときと同じく、わたしを助けに来てくれたのだ――そう思っていた。
「ミス・ウェイトリー、ここは見逃してはくれませんか? わたしはこのときを三千年も待ったのです。星辰が揃い、最高の生贄を供えました。しかも命の輝きを得た『黒い聖母』もある。千の仔を孕みし森の黒山羊をお招きするにあたって、最高の条件が揃っています。この期を逃せば……」
「面白そうね。やってみたら?」
しかし、趙江が頼み込んだところ、あっさりと承諾した。
希望が絶望に変わった瞬間だった。ニヤリ、と笑う趙江の顔が眼に浮かぶ。
「助けて……」
わたしは殆ど最後の力を振り絞って、かすれた声で助けを求めた。
「大丈夫よ。痛いのは最初だけ。そのうち気持ち良くなるわ」
頬に口づけの感触がした。マヤ先生は耳元でそう囁くが、どう大丈夫なのか、全くわからなかった。最初どころか、まだ生きているのが不思議なくらいの深手を負っており、その苦痛に悶えている最中だ。
「嫌……」
「いあ! しゅぶ=にぐらす! 千の仔を孕みし森の黒山羊よ!」
幼少の頃と全く同じシチュエーションだ。違うのは、貫かれた場所が心臓であったことだ。それでわたしの人生に終止符が打たれる――その筈だった。
しかし、未だ闇の中に横たわっている感覚はあれど、視覚以外の五感は生きており、周囲の聞き、死の臭いを嗅ぎ、口内の血を味わうことができた。依然として苦痛に苛まれながらも、まだ考えることはできる。それも、自分でも不思議なくらい、明瞭な意識を保ったまま。心臓を穿たれた感触をたっぷり堪能した者など、恐らくわたしの他にはいまい。
胸を切り開かれ、わたしの心臓が摘出されると、何かの気配をすぐ近くに感じた。目が見えなくとも、何かがそこに現れたことはわかった。物凄く大きな存在がいる。その姿を見ることは叶わなかったが、間違いなく彼女はそこに居た。あの御方が現れたのだ。
最初は食屍鬼どもの歓喜にうち震える声が聞こえた。自分達が奉じる偉大なる神の降臨に立ち会えたことの、至上の喜びをかんじていたのだろう。
しかし、すぐに歓声は悲鳴へと変わった。強い顎の力で骨ごと噛み砕かれたような、異様な咀嚼音。続いてけたたましい断末魔の悲鳴。それが何度も繰り返された。
わたしの目を覆う闇の向こう側には、きっと凄惨な地獄絵図が繰り広げられているのだろう。
「……何故だ」
趙江の声には焦燥の念が感じられた。予想外の出来事なのだろう。彼にしてみれば、最高の条件を揃え、最高の準備をし、最高の供物を神に捧げたのに、その神は激怒でもって応じたのだ。
「ああ、大いなる女神よ! 神々の母よ!」
そう、もし儀式が本当の意味で失敗していたのなら、その後には静寂が続く筈であって、このような阿鼻叫喚の地獄がもたらされることはなかったのだろう。
「いあ! しゅぶ=にぐらす! どうか怒りを静めたまえ!」
趙江と、その配下の食屍鬼どもの生き残りが、一斉に同じ文句を唱和した。自らが奉じる神の偉大さに対する畏怖の念ばかりが、その動機ではない。彼らは畏怖とは異なる、純然たる恐怖のために打ちのめされていた。
そう、神々の母をお招きすることには成功したのだ。ただし、現れた彼女は激怒していた。彼らにとっての予想外の出来事とは、神の怒りであった。
視覚を失っても、無数の耳障りな悲鳴により、何が起こっているのかは理解できた。具体的な手段を想像するのは恐ろしいが、ともかく趙江の配下の食屍鬼どもを滅ぼしているのだ。
盲目となったわたしにも、神々の母――シュブ=ニグラスの存在を間近に感じられる。彼女が自らの信者が犯した罪に怒り、罰を与えんとしていることも。
「何故だ!」
趙江の嘆きがこだまする。轟音の中でも、それははっきり聞き取ることができた。
「やっちゃったわね」
マヤ先生は言った。見えないが、きっと満面の笑みだったに違いない。彼女は最初からこうなることを知っていたのだろう。
「道を極めた仙人とは思えない失敗ね。あの子があんな資料を持っていることに、疑問を持ったことはないの? グリーンウッドの名前に聞き覚えは? あの子の異常な生命力に違和感を覚えたことは? そもそも――アリシアが何か確認した?」
マヤ先生の説明は以上のものだった。わたしには理解できない。しかし、わたしの体のことに関して、マヤ先生が知っていて、わたし自身が知らないことがあるのだろう。そして、それがシュブ=ニグラスの怒りを招いたことだけは間違いない。
「ああ――」
趙江がマヤ先生の説明をどれほど理解していたのかは、わたしにはわからない。しかし、彼はわたしよりは多くを知っている筈だ。その嘆息からは、自身の最悪の過ちを悔いていることと、既に諦めの境地に達していることがわかる。
「神々の母よ! いあ! しゅぶ=にぐらす……」
力無き祈りの文句、それが趙江の意味ある最後の言葉だった。あとは悲鳴と咀嚼音が聞こえるだけで、それも次第に聞こえなくなった。わたしがたった今味わっているのと同じ、極めつけの苦痛を堪能した末に、彼は死ぬのだろう。その光景を直視せずに済んだのは、ある意味では幸運だったのかもしれない。
全てが終わった後、わたしの耳には寂しげな風の音と、マヤ先生が現れる兆候であるフルートの音が聞こえた。
次第にわたしの意識が遠退いてゆく。この微睡みが、単なる睡魔なのか、それとも永久の眠りの前触れなのか――いずれわかることだろう。もっとも、内臓の尽くを摘出された状態なのだから、普通ならば後者なのだろう。
しかし、内臓を引きずり出されて空っぽになった腹部に、何かが蠢く感触を覚えた。ヌルヌルした、恐らく見るべきでないものが這い回っている――マヤ先生の言ったことは本当で、この感触が不自然なほどに心地よかった。
わたしの意識はそこで途切れた。