マグナ・マーテルへの呼びかけ
思えば二十年にも満たない人生のうち、既に三度も誘拐されている。やはり二度あることは三度あるものだ。
わたしの意識の覚醒を促した第一の要因は、臭いだった。単に血の臭いがするというだけではない。以前、人間の屠殺現場に監禁されたが、そのときと同じ臭いだった。死体安置所の臭いなのだろう。
重い瞼を開けたとき、わたしは何処とも知れぬ森林にいることを知った。わたしはやはり裸にされていて、石の祭壇に設けられた柱に縛りつけられていた。何もかも、幼少の頃の忌まわしき記憶の再現だった。
「黒き聖母、マグナ・マーテル――大地母神は生贄を求めている!」
続いて、趙江の声がわたしの意識に渇を入れた。それに習って、食屍鬼どもが歓声を上げた。太鼓を狂おしく連打する者、調子の外れた異様な笛を奏でる者も居た。
彼らは熱狂にとりつかれていた。ディオニュソス(ギリシャ神話における酒の神)の信者が繰り広げる乱痴気騒ぎを、更なる暴力と流血とで過度に彩った、極彩色の世界が繰り広げられていた。
何より、視覚的な刺激に勝るものはなく、寝覚めに見る映像としては最悪のものが見られた。
それは食屍鬼どもの厨房と食堂とでも言うべき、凄惨な殺戮と食人の現場であった。人間の屠殺現場に居合わせたのは初めてではないが、何度見たところで、到底慣れるものではない。
ここは忌まわしき遊戯場でもあったようで、食屍鬼どもの肌には、引っかき傷や痣など、犠牲者の抵抗の痕跡が見られた。無力ながらも抵抗を続ける犠牲者を弄んでいたのだろう。
酸鼻を極めるとはまさにこのことだ。犠牲者はいずれも残酷な方法で殺害されたばかりか、食屍鬼どもの『食べかす』が時間によって腐朽し、更に酷いことになっている。
また、犠牲者の頭部だけは、彼らにとって何らかの意味があったのか、悪趣味なオブジェとして陳列されていた――それがために、愛すべき友人の変わり果てた姿にショックを受けるはめになった。眼球がくり貫かれ、腐敗が進んで崩れかかった顔ながら、それがマーガレット・オルブライトだと、一目でわかってしまったのである。
チェイテ城(血の伯爵夫人エリザベート・バートリの居城)の催しにご招待とは恐れ入る。またとない貴重な経験だ。できれば一度たりとも遭わずに済ませたかったところだが。
「お目覚めですか、アリシアさん」
趙江はわたしが目覚めたことに気付くと、こちらに。幼少の頃にわたしにトラウマを植えつけた魔術師と同じく、彼は全裸だった。食屍鬼も全裸だったが、人間の身で彼らと同じ畜生の身分に落ちた、趙江の方が、何倍もおぞましいもののように思われた。
「我らが女神の聖像を持て!」
彼が声を張り上げると、二匹の食屍鬼が布を被った人間大の物体を運んできた。
「御覧ください」
趙江はその物体にかけられた布を取り去る。
わたしはあっと声を上げた。物心ついたときから慣れ親しんだものがあったのだ。
黒い聖母像。趙江が見せたそれは、わたしの実家にあるものと同様に、やけに瑞々しい生気を帯びているように感じられる、なんとも不思議な彫像であった。
聖母像はおびただしい生き血を吸っていた。血で汚れている筈なのに、それは決して汚らわしいものではなく、むしろ神聖なもののように思えた。
「この黒い聖母は、イエスの母マリアよりも古い大地母神なのです。キュベレ、イシュタル、カーリー等、これらマグナ・マーテル、即ち神々の母とその血族たる黒い女神は、しばしば血を好んだ――」
趙江はフルートに口をつけず、キーを素早く押さえた。すると、笛に仕込まれていた刃が飛び出た。フルートに刃物を仕込んだ暗器だった。特定の順番でキーを押さえると刃が飛び出す仕組みになっているようだ。
刃物の切っ先がわたしの腹部を撫でると、冷たい金属の感触が肌を刺激する。
「貴女のもたらした資料は素晴らしいものでしたよ、アリシアさん。血塗られたカーリーやアナトの祭祀の様式、イシュタルの失なわれし『聖なる娼婦』の秘儀、大いなる神々の母と交信する方法、彼女たちの聖なる御使いをお招きするにあたっての適切な供物と祭儀――しかし何より」
趙江が手で合図すると、半狂乱になって泣き叫ぶ女性が連行されてきた。やめて、助けて、等の哀願の言葉を発していた。わたしと同じく、衣服を乱暴に剥ぎ取られ、生まれたままの姿になった美女が、食屍鬼に拘束され、必死に身をよじっている。
趙江が刃の付いた笛を振るうと、彼女の喉が裂かれ、鮮血がほとばしった。黒い聖母がその血を浴びると、ますます像に宿る不可思議な生命力の輝きが、心なしか増したように思える。
女性が力なくうなだれると、食屍鬼はその亡骸を離した。勢いよく前のめりに倒れた死体が、鈍い音を立てた。
「大いなる『黒い聖母』をこの世界にお招きする方法が記されています。わかりますか、この価値が? 最も偉大なる生命に触れることができるのですよ」
血の生贄は、全て黒い聖母像へと捧げられていたのだ。
わたしは先日の紅茶占いの結果を思い出す。『変化。残酷な敵。栄光』――早くもその意味を理解した。残酷な敵はすぐそこにいて、わたしをその毒牙の餌食にしようとしている。
こうまでストレートに未来を予知できるということは、わたしにはどうやら類稀な占いの才能があるのかもしれない。
「貴女自身も素晴らしい。気付いていますか? 貴女自身の魅力に。貴女の美しさの前では、月も光を消し、花も恥じらうことでしょう。こんな安物の女とは、それこそ比べ物になりません」
趙江はわたしに対する賛辞の言葉を述べながら、事切れた女性を蹴飛ばし、踏みにじった。そして、その血塗られた手でわたしの顔に触れる。その手の血は、まだ温かみを保っていた。
「首から下はなお極上です。豊かな母性を表す胸、括れた腰、形の良いお尻。女性特有の生命力に溢れた体――」
また彼は、わたしの体のあちこちを、いとおしそうに撫で回す。鎖骨、胸、腹、尻、へそ、腰骨、太股、ふくらはぎ、足裏。徐々に体の下の方に、その汚らわしい手と視線を向けてゆく。わたしの体が余すことなく、下卑た視線に晒され、耐え難い屈辱と羞恥の念が呼び起こされた。
趙江がわたしの足の裏を撫でながら、視線を上に上げた。その後に立ち上がった。
「貴女ほどの女性が純潔を保ったままとは、まさしく奇蹟。神に捧げるのでなければ、是非とも組み伏せて傷物にしたいところなのですが」
とうとう容易に殿方に見せてはならぬ部位を見られたという事実と、彼のいかがわしい欲望を象徴するおぞましい器官の脈動に、わたしは吐き気を覚えた。それに対するトラウマを克服するのは、まだ遠い先のことになりそうだ――もし、こんな状況で生き延びることができるのならではあるが。
ここで猥褻な行為に及ばないのは、彼なりの自制心なのだろうが、殺戮を自粛するようなことはないようなので、どちらにしても危機には変わりない。
「最後の供物、偉大なる神々の母が召し上がるディナーのメイン・ディッシュには、貴女こそが相応しい。何から何までお世話になりました」
フルートに仕込まれた刃が、わたしの目を穿った。
森にわたしの悲鳴がこだました。両の目を抉られた激痛が、それまで溜め込んでいたわたしの恐怖を吐き出す引き金になったのだ。
それで終わりではなかった。わたしの腹部に鈍い痛みと、冷たく尖った金属が体内に侵入する感触が後に続いた。他の犠牲者と同様、腹を裂かれ、その中身を引きずり出されたのである。
そこから先は、ただ苦痛の中で死を待つばかりであった。自分の体から急速に生命力が失われてゆく。呼吸が弱まり、悲鳴を絞り出すことさえ叶わない。間もなくわたしは死ぬのだろう。そこに至るまでの苦痛に満ちた時間が、ひどく長く感じられた。