表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白い姫君と黒い巫女  作者: 標準的な♂
復活の日
12/36

リリパットとの出会い

 気を取り直して、わたしは作業を再開した。自分自身にとって重要なこと、つまり超常の脅威から身を守る術を学ばなければならない。昨日と今朝の出来事で、少なくともグール以上の脅威となりうる『ハンノキの王』の存在が身近に感じられたためである。


 昨晩から研究していた『無名祭祀書』から、特に森の女神と樹木の精霊についての内容を中心にノートをとったのには、いくつか訳があった。その一つは母が送ってきた、『イシュタルの血脈と山羊の印』に『聖母マリアとマグナ・マーテル』といった、母自身の手作りの小冊子だった。その他の資料も、全て地母神に関する資料である。これらの内容は実に偏っており、『無名祭祀書』における一部の記述――シュブ=ニグラスとその眷族の祭儀に関する資料と一致するのだ。母がこれらの『母なる神』の資料をまとめて送ってきたことには、きっと理由があるはずだ。


 わたしが持つ知識によれば、まずイシュタルとは、非常に起源の古いバビロニアの女神である。イシュタルが世界各地の神話における女神の性質に影響を与えた形跡を持つことは疑いようもない。それにマグナ・マーテルとは、大いなる神々の母、差し詰め大地母神とでも言うべき意味である。


 また、聖母マリアと聞き、わたしの実家にも聖母像があったことを思い出す。食前と食後には、必ずマリア様にお祈りを捧げていたものだ。ただし、十字架に磔にされたイエスに祈りを捧げたことは一度もない。父も母も、どういうわけかそうしていたので、わたしもそれに習っていた。思えば奇妙な風習である。これは一度、父の一族であるグリーンウッド家や、母の実家の黒森家についても調べてみる必要がありそうだ。


 加えてわたしは、あの忌まわしき夢からインスピレーションを受けた。夢の中で全裸の魔術師が唱えていた呪文である。試すわけにもいかないが、彼と同じことをすれば、『ハンノキの王』を招来することができるかもしれない。実際に、かの木々の精霊は、母なる女神への生贄を受け取りに現れる代理人であり、それらと交渉するための儀式は、既に『無名祭祀書』で示されていた通り、あの全裸の魔術師の行なったものと、寸分違わぬものなのだ。


 万が一、『ハンノキの王』の力を利用できるならば、グールの群れごときであれば、容易く屠ることができよう。だが、それは安易に手を出すべきものではない。フィクションにおけるお約束について語るのも滑稽な話だが、ああいった危険な存在を制御できるなどと思い上がることは、破滅への一歩を踏み出すことと同義なのだ。現に、わたしに霊感とトラウマをもたらした、あの忌まわしき全裸の魔術師がそうであったように、何らかの未知の理由によって破滅を賜ることがありうるのだ。要は、いつ暴発するかわからないような銃を手にしたくはないというだけのことである。なので、あの呪文を使うのは、本当に追い詰められたときだけにするべきだろう。


 しかし、研究すれば研究しただけ、新たな謎、疑問、知るべきことが増えてゆくのは、困ったものである。学問とはそういうものなのかもしれない。


「大地母神にまつわる神話に興味がおありですか?」


 こうして地母神に関する研究を進めていると、一人の子供に声をかけられた。変声期を迎える前のボーイソプラノらしい声が印象的だった。


 振り向いたときにそこに居た少年は日本人、いや中国人か、顔立ちは典型的な東洋人のそれだった。全体的に小綺麗にまとまった顔立ちで、誰もが絶賛するというほどのものではないものの、少なくとも故郷ではそこそこの美少年で通っていたのだろう。


 なにしろ、この人物を見かけたのはつい先ほどのことだったから、彼のことはよく覚えていた。つい先ほど、『ネクロノミコン』を閲覧しようとして断られ、癇癪を起こしていた少年である。彼の整った容貌よりも、その行動の方が印象的だったと言っても良かった。


 彼はわたしが持ち出した考古学や民俗学の本の偏りから、わたし自身の目的と興味をすぐに察知していたらしい。その落ち着いた様子と観察力から、すぐに相手が単なる子供ではなく、飛び級でミスカトニックにまで上がってきた天才少年か、あるいは非常な童顔かつ小柄な体格の青年のどちらかであることが推測できた。


 それにしても、積極的なお子さんだ。話題に全くもって子供らしさも可愛げもないという点を除けば、子供らしい可愛らしさを色濃く残した容貌であったし、これは好意的にとらえられた。


「ええ」


 わたしは警戒し、余計なことは言うまいと、努めて短く返事をした。


「やはりそうですか。ぼくも、古代の地母神の信仰について調べているんです。ほら、最近再販された『無名祭祀書』ってあるでしょう? あれの影響で、世界各地の古い信仰について調べ始めたんですよ」


 市販のオカルト本の影響で興味を持ったことから、今回の件は本業の学問ではなく、彼個人の趣味のようだった。確かに、講義の時間で見たことがないので、恐らく、本来はわたしと違って理系の学科を専攻しているのだろう。


 しかし、彼の発言は少々引っかかるところがあった。と言うのも、『無名祭祀書』の再販は、言うほど最近ではない。どの辺りの時点までを最近とするかは、その人物がどれだけの年月を生きてきた人間であるかによるものが大きいのだが、3年以上前のことを最近というのは、それなりの年齢の人物であることが予想できた。


 これは胡乱うろんな人物だ。警戒しなければならない相手である。


「はじめまして。ぼくは趙江といいます。中国から留学に来てます」

「こちらこそ、はじめまして。アリシア・S・グリーンウッドです」

「ああ、貴方がグリーンウッドさんでしたか。とてもお美しい日本人の方が居て、何故かイギリス風の名前を名乗っておられるという噂を聞きましたが……いや、実際に見るのとでは違いますね」


 幼い顔立ちに似合わないリップサービスだ。できれば、わたしの手持ちの資料ではなく、わたしの顔を見て言ってほしいものである。このデリカシーのなさが、彼がルースベン氏の同類であることを雄弁に物語っていた。多分、彼が言った噂の出所も、大方ルースベン氏であろうことは予想できた。


「これは――『イシュタルの血脈と山羊の印』、『聖母マリアとマグナ・マーテル』? 見たところ、日本語のようですけど」


 ミスカトニック大学は非常にレベルの高い大学だが、それでも日本語が読めるというのは珍しい。東洋史を研究する学科もあるし、言語学を選考する際にラテン語やアラビア語等と同様に学ぶことができるのだが、日本語の講義は不人気である。わたしは特別に認識したことはないが、聞く話によれば、何でも日本語はかなり難しいのだそうだ。単位習得にはあまり有利なものとは見なされていないことと、それが将来に役立つかという観点も加味すると、残念ながら敬遠される原因もわかる。


 わたしの貴重な友人であるルースベン氏はその例外だ。彼は日本語での日常会話は完璧にこなせるが、特異で文学的な表現や詩的な表現を可能にするほど通じてはいないと嘆いていた。だからこそ、日本語をあらためて勉強しようと一念発起したのだろう。


「良かったら、資料を交換し合いませんか? ぼくが借りていて読めない本もあるでしょうから」


 初対面の人間にはなかなか頼めないことを、すっぱり頼んでのけるのは、大したものだ。彼はきっと大物になるだろう。誰か目上の人間の目に触るようなことをしなければだが。


「ごめんなさい」


 しかし、いくらなんでも初対面の人間に母の資料は貸せない。それに貴方は怪しいから、という言葉を飲み込み、わたしは努めて丁寧に断ることにした。


 そう、なにしろ怪しいのだ。見た目は子供で頭脳は大人、それもオカルトに興味津々で、市販の本では飽き足らず、よりにもよって『ネクロノミコン』にまで手を出そうとする少年なのだ。たとえ無実であっても、怪しい人物という評価は不可避のものであろう。


 また、バーロウ博士の人物評も見逃せない。あのルースベン氏には「悪いと思っている」と言ったが、彼にはそういった言葉が向けられなかった。些細なことだが、わたしにはこれが何か意味があるように思えてならない。


「この本は、親切な知人が特別に取り寄せてくださった貴重な本で、元々、借り物ですから……」


 わたしはそう言って断る。借り物であること以外は概ね真実だ。母に返せば本当に借り物だったことになる。


 また、これらの資料は本当は母が自ら記したものなのだが、それを敢えて言う必要もあるまい。ここは警戒しなければならない。わざわざわたしの母親が奇人変人の類であることを初対面の相手に述べる必要はないし、そうすることによって母に邪悪なカルティストの追求が及ぶのも、実に愉快ならざることだからだ。よもやこの少年が邪悪なカルティストとは思えまいが、警戒に越したことはない。


 それに、初対面の相手に、ある意味『ネクロノミコン』よりも珍しい本を貸すなど、わたしにはできない。そうでなくとも、これらの資料は部分的には『無名祭祀書』の無削除版と一致する内容を扱っているのだから、悪しき意図を持ったオカルティストに見せられない。


「そうでしたか。残念です……」


 バーロウ博士のときのように癇癪を起こすようなことこそなかったが、その無念を隠そうともしない。この辺りは少年らしい、感情の動きの制御に関して未熟な様が見てとれた。丁度、捨てられた子犬がこんな感じの雰囲気を漂わせていた。


「……直接お貸しすることはできませんけれど、コピーをとりましょうか?」


 その様子があまりに哀愁の漂うものであったため、わたしはつい心を動かされ、こうした妥協案を出した。この書物の内容のことを考えると、相当危険な選択なのだが、そんな目をされると、こちらも心を動かされてしまうではないか。結局、わたしが折れる形になったが、これで彼が母の資料をも悪用するような輩であれば、いよいよわたしも年貢の納め時だろう。


「やったー!」


 わたしがこう言うと、彼の表情がぱっと明るくなった。しめたとばかりの会心の笑みである。彼は自分の特性をよく理解しており、小悪魔的な狡猾さを併せ持っていることが確信できた。これは迂闊なことをしたかもしれない。


「でも、結構お時間かかりそうですから、また今度お会いしたときに、お願いしてもよろしいでしょうか?」


「……ええ、構いませんわ。今くらいの時間なら、大抵図書館に居ますから、またいつかお会いしましょう」


 それにしても奇妙な少年だった。初対面の人間に厚かましくも資料の交換を要求するような強引さを持つ一方で、物腰の一つ一つは育ちの良さが伺える。


 バーロウ博士の疲労の原因には、彼のこうした言動や性格も影響しているのではないかと思う。確かに、こんな賑やかな人に言い寄られたら、自分がどう対応したのであれ、疲れることは間違いない。


 かく言うわたしも、充実した疲れを覚えた。時計を見ると、もうそろそろ帰って夕食の用意をしなければならないことがわかったので、今日の作業はここで切り上げることにする。いつもなら、帰路でディナーは何にしようか考えるのだが、今日は中国人の知り合いができたので、創作中華にしようと思い立った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ