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白い姫君と黒い巫女  作者: 標準的な♂
復活の日
11/36

嫌な気配

 朝から早速恐怖に打ちのめされるはめになった。心拍数が良くない上がり方をしているのを感じる。


 わたしはまず、深呼吸をして呼吸を落ち着けるよう努めた。そう、脅威がすぐそこに差し迫っているからこそ、冷静さは重要である。


 もう一度見て、奇妙な足跡が夢でないことを確認した。夢ではなかった。大きさからして『ハンノキの王』か、それに匹敵する脅威であることは間違いない。


 さて、恐怖で精神を破綻させないためには、ある程度の希望的観測、悪く言うなら楽観が必要である。あの死体が盗人のもので、マヤ先生の持ち物に無断で触れたことによってああなったのであれば、少なくともすぐにわたしが犠牲になることはないはずだ――そう考えることにする。


 ただし、万が一マヤ先生や『ハンノキの王』が敵に回ったときのことを考えて、今進めている作業――銃以外の自衛手段の確保を急がなければならない。なにしろ、夢に現れた『ハンノキの王』に対して、個人携行できるような銃が通じるとは思えない。あれが本当に『ショゴス』あるいは『黒い仔山羊』ならば尚更だ。


 何より、マヤ先生がわたしにとって未知の動機で動いていることは忘れてはならない。わたしをグールから救ったかと思えば、わたしを捕食――そう、あれは多分、彼女にとっての食事なのだろう――したのだ。その行動の原理を、わたしのような凡人に理解できるようなものだと思うことは、きっと破滅を招くに違いないのだ。


 前向きな考えと深呼吸だけでは足りないので、その辺の自販機で缶コーヒーでも買って飲むことにする。心を落ち着けるための手段は人それぞれだが、わたしにとってのそれは、読書かコーヒー、それに特に深い意味のない日常のことについて考えることだった。ただし、今は読書はやめよう。今手元にある本は『イシュタルの血脈と山羊の印』、『聖母マリアとマグナ・マーテル』、今わたしが最も恐れているものに関して詳細に記述してあることが想像されるものだったからだ。よって、もっと落ち着いてから読むことにする。


 それにしても、コーヒーは良い。マヤ先生には悪いのだが、わたしは紅茶よりもコーヒーが好きだ。適切に作れば、甘味と苦味のバランスの取れた、至上の味わいを享受することができるのだ。この味は是非、マヤ先生にもわかってほしい。


 コーヒーについて考えることは、今直面している問題と対比すると、ある種の現実逃避的な思考であったが、現実が相当に過酷なものである以上、ある程度現実から離れた場所に意識を置くことは、精神の均衡を保つために必要な行為である。


 落ち着いたところで、大学の講義を受けに行く。講義でシューベルトの魔王や、古代の大地母神の話題が出ないことを祈るばかりだ。


 ひととおりの講義を終えた後、わたしはいつも通り、大学の図書館で各種の資料を整理していた。母が送ってきた資料に改めて目を通す。『イシュタルの血脈と山羊の印』、『聖母マリアとマグナ・マーテル』。これらはある意味、かの『ネクロノミコン』よりも珍しい本だ。なにしろ母の手作りであり、最新の魔道書であるこれらは、世界にたった一冊しかないものなのだから。


 しかし、集中できない。今朝の恐怖の体験のためではない。騒音のためである。初老の男性――図書館長のエドガー・C・バーロウ博士と、一人の少年が言い争っていたのだ。わたし以外にも図書館で調べものをしている学生の姿は多く見られたが、彼らの視線もまた、その騒ぎの中心に集まっていた。


 バーロウ博士は前任者が重い病気にかかったとかで、臨時でミスカトニック大学の図書館を務めている人物である。睡眠と夢のメカニズムを研究している学者で、不眠症と夢遊病の治療法に関して功績のある人物らしい。文系のわたしにとっては、本来、あまり関わりの無い人物だったのだが、縁とは奇妙なもので、彼との関係は結構長く続くことになる。


 対する少年の方は見覚えのない人物だったが、かなり印象的な特徴を備えていた。随分と小柄な東洋人という時点で、ミスカトニック大学の他の学生達からは浮いた存在になっているだろう。身長はおよそ一五〇センチほどで、わたしよりも低い。マヤ先生のような絶世の美形というほどではないが、なかなか整った顔立ちをしている。目が興奮のあまり血走ってさえいなければ、見た目から受ける印象はさほど悪くはなかった。


「お願いです! ちょっとで良いんです!」


「駄目なものは駄目だ! 『ネクロノミコン』は見せられない!」


「そんなに言うなら、もう良いです! 他に読ませてくれそうな人を当たりますから!」


 少年はヒステリックに声を張り上げて、踵を返し、どすどすと大股で去っていった。当てが外れた、といったところだろう。ああいう手合いはよく見る。なにしろ、あれよりは穏やかとはいえ、わたしの友人も同じ事をしているのだから。


 少年には同情するが、わたしはバーロウ博士の判断が正しいと確信している。あんなものは興味本位で読んで良いものではないし、中身の知識を活用しようという者の目からは、尚更隠さねばならぬものだからだ。


「バーロウ博士、お疲れ様です」


「ああ、グリーンウッドくんか。最近、『ネクロノミコン』の閲覧希望者が増えてね」


「その話、結構、有名ですものね」


 読んだからこそ、ミスカトニック大学の図書館が、こうも『ネクノミコン』に厳しい閲覧制限を設けている理由を理解できる。単に珍しい本だからというだけでなく、途方もなく危険なのだ。そして恐らく、ミスカトニック大学の図書館長は、そうした危険性を熟知した人間が任されるものなのだろう。


 そうした事情が事情なだけに、実はもうジョン・ディー版を読みました、などと言えば、どんなお叱りを受けるかわかったものではない。表向きは、非常に貴重な古書だから閲覧制限があるということになっているが、そうではない。危険な内容であり、悪用すれば人類を破滅に追いやることもできるのだ。幸か不幸か、わたしが読んだジョン・ディーによる英語版は欠損が多く、天使ヤズラエルの名で覆い隠された究極の秘密を除き、世界規模の破滅をもたらすほどの致命的な知識は無かったと思う。


「『ネクロノミコン』のことは、聞き及んでおります。わたしの友人も読みたがっておりました」


「ルースベンくんだね。彼には気の毒なのだけれど、『ネクロノミコン』は駄目だ。他の珍しい魔道書もね。読む人間のためにならない。文学部の連中の中には、『ネクロノミコン』が作品のネタになるだろうとか考える奴も居るみたいだが、とんでもない! あれは、あれは……」


 バーロウ博士は、そう言って魔道に没頭することの危険性を説いた。


 幸いなことに、彼はどうやらマヤ先生の小説は読んでいないらしい。ヤズラエル・W・ウェイトリーの作品には、『ネクロノミコン』等の魔道書の影響を強く受けたものがある。各種メディアのインタビュー記事において、自分がラヴクラフティアンで、ラヴクラフト御大の影響を強く受けていることを主張していたが、それは半分しか正しくない。実際には『ネクロノミコン』や『無名祭祀書』等と直に触れ合った人間にしか書けないようなものを書いているのだ。


 こと彼女のペンネームの由来にもなった、ジョン・ディー版の『ネクロノミコン』は、現存するものが3冊しか知られていないものだ。これらはラテン語版やギリシャ語版と比べても数が少ない。これもダニッチのウェイトリー家からミスカトニック大学へと寄贈されたと聞くのだが、やはり原典に近いラテン語版と同様、厳しい閲覧制限が設けられていると見て間違いない。


 よく観察すると、バーロウ博士の表情には疲労の色が見える。それも、長期間に渡って蓄積された類のものだ。もう結構な高齢であることを鑑みても、彼はやつれ、枯れ果てていた。


 彼はあからさまに『ネクロノミコン』を恐れている。きっとその内容を知っているのだろう。精神にかかった負担がまだ残っているようすだったから、つい最近に読んだと考えて良い。


「大丈夫ですか? 大分、お疲れのようですけれど」


「……ああ、何でもない。実は、わたしの前任者のときに盗難騒ぎがあってね。そのときに図書館長が怪我を負ってしまったから、わたしが臨時で館長代理をしている。いや、正直、わたしには荷が重いよ」


 彼の疲労の原因のもう半分は、やはり仕事に関することのようだ。ミスカトニック大学の図書館長の職責は非常に重いものなのだろう。並々ならぬ苦労が伺える。


 ミスカトニック大学図書館での不法侵入騒動については、アーカム・アドヴァタイザー紙を通じて知ってはいた。だが、それは盗難事件であるとは報じられていなかった。とても報道できない、相当危険なもの――『ネクロノミコン』が盗まれたのではないかと不安になった。


「何が盗まれたのですか?」


「ダレット伯の『屍食教典儀』だな。『ネクロノミコン』でなくて、本当に良かったと思っている」


 わたしは眩暈を覚えた。残念ながら、それは貴方が思っているほどに良いことではないのだ。あるいは、わたしと同じで、今でも十分酷い状態であるにも関わらず、その現実から目を背け、より酷い結果でないことに安堵の溜め息を吐くことで、脆弱な精神を保護しようとしているのかもしれない。


 かの『屍食教典儀』は忘れもしない、あのアルバート・フィッシュがその一部を所持していた、人をグールに変える危険な魔道書である。これも相当な稀覯書だ。となると、ミスカトニック大学図書館から盗難されたという『屍食教典儀』との関連性には、嫌でも思い浮かぶ。多分、わたしの考えは当たっている。


 彼が所持していたのは『屍食教典儀』の頁を切り取ったものだった。必要な部分以外を廃棄したとは考えづらい。恐らく、あのグールには仲間が居て、それらページの断片を分かち合っているのだろうと推測される。


 ミスカトニック大学のセキュリティのことを考えると、図書館からものを盗むのであれば、警備員の買収等の手段を用いるのが上策である。今や一介のグールにまで堕ちたアルバート・フィッシュの単独の犯行とは考えづらい。恐らく、これらの魔道書を求める集団による組織的な犯行と見て良いだろう。そのうち滅びたのはアルバート・フィッシュだけであり、未だに忌まわしき食人カルトの生き残りが存在すると考えると、非常に恐ろしいことだ。


 何故、『屍食教典儀』をわざわざ破る必要があったのか、という点だ。コピーをとるだけでは駄目なのか?


 この疑問については、今のところ、考えられる回答は一つしかない。それはすなわち、『屍食教典儀』のタイトルを直訳した『グールのカルト』という言葉が全てを示している。何らかの邪悪な目的のために、グールの仲間を増やそうとしているのだ。これはわたしの推測に過ぎないことだが、コピー機では『屍食教典儀』そのものが持つ魔術的特性までは複製できないのではないだろうか。


「どうしたのかね?」


 わたしはどうも、何か考える際に、考えるような仕草を本当にしてしまっているらしい。バーロウ博士も、わたしが何か知っているのではないかと疑い始めている。


「いえ、何でもありません。『屍食教典儀』、見つかると良いですね」


 だが、わたしは真実に関して口をつむぐことにした。彼のためでは断じてない。わたし自身の身の安全のためだ。わたしが『屍食教典儀』の在り処を知っていることが、どこかから愉快ならざる隣人の耳に入れば、きっと酷いことになる。バーロウ博士が信頼できないわけではない。むしろ、図書館長代理として禁断の知識を守る立場にある以上、心強い味方となりうる人物だ。


 わたしはバーロウ博士に別れの挨拶を述べ、少し離れたところで自身の作業を再開することにした。


 今日も長い一日になりそうだった。

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