目覚めと情報の再整理
幸か不幸か、そこでわたしの意識が夢から現実へと引き戻された。その後眼前で起こったであろう、より恐るべき出来事を直視せずに済んだことは、神がわたしに与えた恩寵にほかならなかった。
目覚めはあまり良くない。夢はあれほど明晰に見られたというのに、今この場における意識は混濁しており、頭がぼんやりとした感じがする。マヤ先生が淹れてくれたミードティーのアルコールによるものだろうか。軽い頭痛を覚えると同時に、目蓋が重い感じがする。身体全体にも疲労が残っており、自分の身体がずっしりと重く感じる。
「おはよう、アリシア。夕べはよく眠れたかしら?」
「ん……っ」
目蓋を開けると、すぐ横にマヤ先生の顔があった。少しびっくりした。近い! どんなものであれ、目が覚めたらすぐ目の前に顔があるというのは、なかなか心臓によろしくない。
わたしの身体が汗でじっとりと濡れていた。強烈な悪夢にうなされていたためだろう。やっと克服しかけていたトラウマが再発するような、最悪の夢だった。
「シャワーを浴びてきたら? 随分汗をかいているみたいだし、そのままだと身体に良くないわ」
「……そうさせていただきます」
確かに身体が重く、まとわりつく汗の感覚が実に不快だ。それに、わたしだって、曲がりなりにも女の子の端くれであるから、汗などの自分の臭いは人一倍気になる。なので、マヤ先生の勧めに従い、朝のシャワーを浴びることにする。
時刻は午前七時。随分と寝坊した。シャワーを済ませて朝食まで用意するとなると、少しばかり時間が押しているが、しかし大学の講義には間に合うだろう。
シャワーを浴びている間、わたしは夢の内容について分析することにした。
あの夢の内容を信じるのなら、一つの謎――あの死体がどうやって作り出されたかが解決した。夢で見た、あの全裸の魔術師と同様の死因だろう。なにしろ、彼は吸われ、萎びていた――出来上がった死体は本当にそっくりだった。
こうして昨日寝る前に遭遇した怪異の正体は理解できたが、もっと重大な疑問――幼少の頃のわたしが、どのようにしてあの場を生き残ったのか、という疑問が生まれた。なにしろ腹部をナイフで裂かれ、あわや死を待つばかりの深手を負い、しかも助けも望めない状況であったのだ。あの事件が実際に起こっていなかったのでなければ、到底説明がつかない。
しかし、あの事件が起こっていないとなると、やはり自分の人生においての矛盾がいくつか生じることになる。わたしの男性恐怖症の由来はあの事件以外にはないし、それに妖精から貰った石笛は確かに実家にあり、今でも宝物にしている。
こうして、別の謎がわたしにとっての課題として立ちはだかったのだが、今はこれに対処することをやめ、思考を即座に切り替えねばならない。何故、わたしが魔道の知識を求めたのか。どこに潜んでいるかわからない化け物や魔術師から身を守るためではなかったか。何故自分が生きているのかなどを考えて立ち止まるよりも、今は生存のための力を蓄えることが重要なのだ。よって、この謎への挑戦は後回しにせざるをえない。
シャワーを済ませると、意識が大分明瞭になってきた。大学の講義も含め、これから脳を活性化させないといけないので、
今日は珍しく、マヤ先生はわたしが何か用意するまでもなく、トーストと紅茶で簡単な朝食をとっていた。わたしの体の調子が優れないことに気遣ってくれていたのだろう。
こうした行いは十分に人間的なのに、どうにも彼女が人間ではないように思える。最初は魔法を使うことのできる人間だと思っていたが、実はそうではなくて、もっと恐ろしい事実を隠しているのではないかと疑うようになった。
しかし、考えても仕方のないことだ。結局のところ、何が真実で、何がまやかしであるのかを断定できるだけの判断材料を持っていないのだ。せめて仮説を立てられる段階にまで知識を蓄えなければならない。
「蜂蜜酒の分量を間違えちゃったみたいね。気分はどう?」
「ええ、シャワーを浴びてから大分楽になりました。ごめんなさい、朝食が用意できなくて」
蜂蜜酒――わたしは飲酒の経験は無いが、二日酔いに見られる頭痛と吐き気はない。わたしはあの蜂蜜酒が、単なる蜂蜜酒ではないと推測している。どの本だったか忘れたが、黄金の蜂蜜酒なる美酒についての言及があったから、今では蜂蜜酒と聞く度にそれを思い出す。
マヤ先生のことだ。本当にあの蜂蜜酒の作り方を知っていてもおかしくはない。なにしろ、自分の蔵書のうちの一つに作り方が書いてあるのだから。
「いいえ、こちらこそ、慣れないものを飲ませてしまったから。今後は気をつけるわ」
そう言って、わたしの分の紅茶とトーストをお出ししてくれた。甘味のないストレート・ティーである。本当はガムシロップの分量とか、ストレートよりもレモンティーが良いとか、わたしのそういった好みについてあれこれ語るのは、また次の機会にしよう。
「ありがとうございます。そういえば、マヤ先生はコーヒーは飲まれないのですか?」
「小さい頃、養父に薦められてブラック・コーヒーを飲んだわ。それ以来、コーヒー自体が苦手なのよね」
ブラックマン氏も、マヤ先生に対しては若干悪戯好きなところがあるらしい。小さい頃というのが、具体的にどれくらいの年齢のことかはわからないが、確かに子供にはブラック・コーヒーは早いだろう。これは偏見だろうか?
それはさておき、朝食を終え、大学へ行く前にまずしたことは、昨晩見た死体の確認だった。正直なところ、死体がそのまま野晒しにされている方がずっと困る。食前食後に死体を見ることは避けたい。食欲減退や嘔吐等の影響がただちに出るためだ。
しかし、それらは杞憂に終わった。予想の範囲内だったが、昨日見た見るも無惨な死骸は、やはり翌日の朝には痕跡さえも消え失せていたのだ。まるで夢であったかのように。
死体と証拠の処理という課題をどのようにして解決したのかは、想像するだに恐ろしいことだ。マヤ先生に尋ねたところで、きっと「夢でも見ているのでしょう」という返答以外は帰ってこないはずで、そうでないことを証明することは困難である。結局、アルバート・フィッシュらしき死体だって、未だに見つかったという話は聞いていない。
こんな恐怖の体験と、その直後の失神を繰り返していると、段々と現実と夢の境界が曖昧になり、不安な気持ちになる。悪夢による最悪の目覚めとあれば尚更だ。結局、夢も現実も大して変わらないのだから。
結局のところ、意識を保っている状態で見たものはすべて現実であると仮定するしかない。
他の変わったことは――こちらの方が重大な問題なのだが、ブラックマン氏の邸宅の庭に植えられていた木もまた、昨日の死体と共に忽然と姿を消していたことだ。夢の内容と照らし合わせてみれば、さほど驚くには値しない――ただし、恐怖と驚愕は別種の感情である。
わたしの恐怖は、決して故なきことではない。木々の精霊と触れ合う夢を見たことと、夢に現れた『ハンノキの王』のシルエットが、風に揺らめく木に似ていたことから、わたしの恐怖の原因はわかっていただけただろう。もしかして、あの木に足が生えてどこかへ去っていったのではないか――いや、とりとめもない妄想はよそう。
たとえ『ハンノキの王』の存在が実在のものであれ、あれは森の木々の精霊であって、アーカムの街中に居るはずがないのだ。
「……っ!?」
いや、駄目だ。現実はわたしの心を打ちのめすだけの残酷さを持っていた。やはり駄目だったのだ。わたしにはこの恐怖に耐えられそうにない。だって、それはあったのだから……明らかにヘラジカのものよりも大きな、蹄のある足跡が!