フォンとエルヴィンの出会い
二話 フォンとエルヴィンの出会い
列強では度重なる戦争のため、常に多数の兵を保持しておくことが必要となり、そのために二十年前に徴兵制が敷かれた。フォンもかっては士官ではなく、徴兵されてきた兵士だった。
「祖国のために戦おう」「わが軍は君を求めている」という美しいキャッチコピーと裏腹に、待っていたのは下士官による初年兵いじめと理不尽なシゴキの毎日だった。
初年兵時代のフォンは、できの悪い兵だった。
「歯をくいしばれ、フォン!」
下士官の鉄拳制裁がフォンの頬を容赦なく襲う。
目の前に星がちらつき、口の中に血の味が広がる。
殺してやりたいほど憎く思ったが、顔には出さない。そんなことをすれば二発、三発と殴られるからだ。
「大丈夫、フォン?」
兵舎に帰った後、フォンは同年兵から氷を貰って頬を冷やしていた。
「上官もひどいよねー、ちょっと銃が汚れてたくらいで女の子の顔を殴るなんて」
部屋のベッドに仰向けに寝転がった同年兵のルームメイト、アデ―レがぶつぶつと愚痴る。仰向けになったためフォンよりかなり大きめの乳房がシャツの下から自己主張し、突起の形がわかってしまう。
「私は今二重に傷ついたわよ……」
フォンはベッドのそばの椅子に腰かけ、自慢の銀髪に櫛を入れながら答える。訓練後は大分傷んでしまうので手入れが大変だった。特に屋外で演習する時は三日風呂に入れないこともザラなので、痛みがひどい。
この髪だけはアデ―レに負けない自信があるが、胸だけは圧倒的火力差である。
「なんで徴兵検査なんて受かったんだろう…… 私、背も低いし体力もそんなにないのに」
「戦争が始まって兵の数が足りなくなったから、徴兵の基準を緩くしたんだってさ」
迷惑な話だ。
「そーいえば、明日新任の小隊長が来るってさ」
「そう」
「そうって、男だよ? 興味ないの?」
「ない」
フォンはそっけなく答えた。上官の顔も名前も興味はない。
ただいじめないでくれればいいと、それだけを思っていた。
ベッドに横になり、趣味の高等数学の式を考える。
徴兵される前は数学者になるのが夢だった。
とろくて鈍い自分でも、数学だけは学校で一番だった。
それなのに今は走って銃を撃って、装備品の手入れをするだけの毎日だ。
「名前は、確か…… エルヴィンとか言ってた」
アデ―レが何か言ったが、もはや耳に入らなった。
翌日、営庭に小隊四十名全てが集められた。四列横隊で整列し、その前に小隊長であるエルヴィンが兵士に向かい合う形で立っている。
士官なので兵と違い軍刀を腰から下げ、将校用の軍服を身にまとっている。
「意外…… 優男だ」
「結構イケてない?」
女性兵たちから口々に言葉が漏れる。
だがフォンは無関心だった。
「どーでもいい……」
入隊してからのシゴキと肉体的疲労が心をむしばみつつあった。
それから小隊長の見る中、訓練が始まった。
フォンは駆け足、匍蔔前進、魔法銃の射撃、装備の手入れ、など全てにおいてビリだったが、数学が得意なせいか地図の見方や距離の計算などはトップだった。
その点もまた他の下士官、先輩の兵士の妬みを買う原因となっていた。
「……?」
訓練場で地形を見ながら距離の計算をしていたフォンは、ふと小隊長とかいう男が自分をじっと見ているのを感じていた。名前など興味がなかった。
フォンは視線の方向へ眼を向ける。フォンと視線が合うと彼は視線をそらしてしまった。
「なに……? 気持ち悪い」
自分に執着しているような視線だ。
だがこんな小声が先輩や下士官の耳に入れば即座にビンタか、下手をすれば営倉行きだ。 だが、小声が聞こえる範囲には誰もいない。それくらいは確認済みだ。
訓練後、軍靴を脱ぎ手入れをしていると頭上から女のくせに野太い声が聞こえてきた。
「フォン! エルヴィン小隊長がお呼びだ」
急に胸倉を掴まれて無理やり立ち上がらされる。
適当な理由をつけてはいつも自分に嫌がらせをしてくる、嫌な下士官だ。名前はエッバといった。
「今日も貴様はできが悪かったからね。小隊長自ら説教じゃない? それとも」
エッバはフォンの身体を舐めまわすように見つめる。
「成績が悪いから、『特別』に訓練を施そうって考えかもね。小隊長、あんたにねっとりとした視線を投げかけてたもんねえ」
それを聞いてフォンは身震いし、気持ち悪さに吐き気を覚える。
(まだ誰にも触らせたことがない身体なのに、こんなところで? 女性ばかりの隊だから、どんなにいじめられてもそれだけはないと思ってたのに)
だが小隊長の命令を無視したとあってはエッバからどんな目にあわされるかわからない。
(あんな優男なのに、性根はゲスなの? まあいいわ。もし穢されそうになったら舌を噛みちぎって死んでやる)
シゴキで疲れ切った心が、極端な思考を生み出していた。
木製の机と本棚があるだけの部屋で、エルヴィンは報告書のようなものを作成していた。黒革を表紙にし、紐でとじた報告書の束に万年筆でせっせと何かを書きこんでいる。フォンに気がつくと手を止めた。
「第十五小隊所属二等兵、フォン・マルモールです」
フォンは敬礼しながら挨拶する。声にやや不愉快な響きが混じっているのが自分でもわかった。
「エルヴィン・クラウセヴィッツだ」
エルヴィンも返礼した。
「待ってたよ」
エルヴィンは人の良さそうな笑顔をフォンに向けてくる。フォンは初めてエルヴィンの顔をじっくりと見た。なんだか将校というより若手の教師か介護士みたいな感じだ。子供か老人の世話でもしてたら、さぞお似合いだろう。
だがそこそこの顔立ちで、他の兵が色めきたつのもわからなくはない。
だが、騙されてはいけない。自分に執着する視線。二人っきりの部屋。
何を要求するのか? そう思い、フォンは身構えてしまう。
「わざわざ呼んだのはね……」
なぜかエルヴィンは言葉を途中で止めてしまった。
フォンから露骨に目線を反らし、顔を真っ赤にしている。
突然の様子の変化にフォンが戸惑い、彼からの視線を追ってみると……
「っ……!」
今度はフォンが真っ赤になる番だった。
軍服の第二釦が取れて、服の隙間から下着と胸のふくらみが見えている。先ほど胸倉を掴まれたときに、釦が飛んでしまったのだろう。
「す、すみません! 軍服を取り替えて参ります!」
「いや、いいよ。時間が勿体ない。これを羽織ってて」
側に立てかけてあった外套を手に取ると、片手で顔を覆いながらフォンに差し出した。
(なに、この人…… まるっきりうぶじゃない)
彼があまりにも恥ずかしがるので、フォンまで余計に恥ずかしくなる。
だが少なくとも、自分を弄ぶ気ではないらしい。フォンは胸をなでおろした。
「これを解いてみてほしいんだ」
エルヴィンは引き出しの中から一枚の用紙と、鉛筆を取りだした。
「これは?」
何やら微積分をはじめとする高等数学の問題がびっしりだ。
「君の訓練風景を見ていたよ。どう見ても歩兵向きじゃない。足は遅いし、銃の扱いもうまくない。でも君には……」
心が傷ついていく。兵士になってからさらに増したコンプレックスを更にえぐり取られ、乱暴な言葉が口をつく。
「……それじゃあ、小隊長はどうしてくれるんですか。お前なんか兵士の資格はない、この出来そこない、といって私をクビにするんですか」
上官に対し使う言葉ではない。下手をすれば軍法会議ものだ。やめなさいフォン、と頭で誰かが警告するが止められない。
それに兵士をやめれば楽になれる、それも何度か考えたがどの面下げて故郷に戻れるのか。友人知人からもっとバカにされるのは目に見えている。徴兵されたみんな必死に頑張っているのに、お前は何をやっているんだと。
だが目の前の小隊長、とかいう名前も覚えていない人物の反応は違っていた。
暴言に怒るのでもなければ不快を露わにするのでもない。
フォンに期待しているような感じだった。
「あはは…… 言い方が悪かったね。ごめん」
そう言って小隊長は深々と頭を下げた。
フォンは驚愕する。
部下に対して謝罪する上官など初めて見た。
「実はね……」
その後、フォンは歩兵から砲兵になった。
訓練ぶりを見てエルヴィンが砲兵になるように勧めてくれ、砲兵の試験を受けたが高等数学の問題が多く、フォンはほぼ満点で合格した。
その試験の成績を見た軍の教育総監部が、フォンを士官候補生に推薦し、フォンは見事それに受かって士官への道を歩み始めた。
兵舎を出る時、自分を散々バカにしていた先輩たちが自分に敬礼した時の、あの爽快感は忘れられない。
砲兵の士官候補生の訓練は、歩兵に比べずっと楽しかった。
肉体的なきつさはあったけど、皆難関をくぐりぬけてきたエリートなのでバカな虐めやシゴキなどはなく、数学が得意な者同士ウマもあって話しが盛り上がった。
それに魔砲撃を放つのが楽しかった。
銃撃とは比較にならない発射時の衝撃と風圧で体が芯から揺さぶられ、着弾時に大地が振動するのがたまらなく爽快だった。
それに方角や距離、風速と魔法弾の空気抵抗を計算しつつ射角を計算する時、頭の中には数十もの高等数学の式が組み立てられ、それらを計算して解を導くのが楽しい。
昔から自分には苦手なことばかりだったけれど、数字の中でだけは無敵だった。
それがやっと活かせた。
自分を活かしてくれたエルヴィンには感謝してもしきれなかった。時折様子を見に来ることがあり、色々と相談に乗ってもらったり士官学校の話を聞かせてくれ、その度に彼の人となりを知っていった。
そうしているうちに、彼に対しての感情がふくれあがっていった。
気付いた時には、もう好きになっていた。
ただ、常に上官としての態度で接してくるので自分をどう思っているのか掴めず、想いを打ち明ける決心がつかなかったし、失敗したことを考えるとしり込みしてしまった。
彼は任務一直線で浮いた話がまったくなかったし、焦ることもないって自分に言い聞かせていた。
でも彼と同じ小隊に配属になった時は飛び上がるほど嬉しかった。
彼の側にいられる。そう思うだけで胸が熱くなって、おなかの奥がキュンとした。