第26話:あるべき答え
数日後、施療院の空気は、まるで長い嵐が過ぎ去ったあとの朝のように、澄んだ静けさを取り戻していた。院長が代わり、王宮からの指導の下、衛生環境の改善が始まっている。風が吹き抜ける廊下からは、もうあの粘つくような甘い匂いはしない。ただ、第三病棟の壁に残る黒い染みだけが、かつてこの場所で起きた出来事の記憶を、無言で留めていた。
リンネは、正式な調査報告を終え、最後にもう一度だけ、あの場所を訪れていた。自らの目で、変化を記録するためだ。 陽光が木々の葉を透かし、地面に揺れる光の斑点を作る中庭を歩いていると、ベンチに座って何かを熱心に見つめている、小さな人影が目に入った。エミールだった。
「…体の具合は、もうよろしいのですか」 リンネが声をかけると、エミールは顔を上げ、数日前とは比べ物にならないほど血色の良い顔で、太陽のように笑った。その声は、以前のか細いものではなく、快活に弾んでいる。 「うん! もう、胸も苦しくないよ」
彼は、そう言うと、秘密の宝物を見せるかのように、そっと手のひらを差し出した。その上にいたのは、若竹のような瑞々しい緑色に輝く、一匹のナナフシの幼虫だった。黒曜石の粒のような小さな瞳が、世界を映している。 「見て。木の枝の真似が、すごく上手なんだ」 エミールの言葉に応えるかのように、ナナフシは、風にそよぐ小枝のように、不意に動きを止め、また、そろり、と歩き出す。そのぎこちない、しかし計算されたような肢の運びを、二人は黙って見つめていた。その瞳には、あの時のような神罰への怯えは、もうどこにもない。ただ、目の前の小さな命の神秘に対する、純粋な好奇心の光だけが、きらきらと輝いていた。
リンネは、その隣に静かに腰を下ろした。ざらついた木の感触が、柔らかな日差しの中で心地よい。 「あなたは以前、わたくしに尋ねましたわね。『悪いことなんて、何もしていないのに、なぜ罰を受けるのか』と」
エミールは、不思議そうな顔でリンネを見つめる。
「あれは、罰などではありませんでした」 リンネは、ナナフシのいる彼の手のひらを、自らの指でそっと包み込むようにしながら、続けた。子供の手のひらの、確かな温もりが伝わってくる。 「ただの、不運な事故です。一つ一つは無害なものが、偶然、悪い形で混ざり合ってしまっただけ。あなたが、この虫に何の悪意も抱いていないのと同じように、あの部屋で起きていたことにも、誰かの悪意があったわけではないのです」
エミールは、難しい話はよく分からなかったかもしれない。だが、リンネの静かな声と、その言葉に込められた揺るぎない響きから、それが「真実」なのだと、素直に受け入れたようだった。彼は、こくりと頷くと、再び手のひらのナナフシに視線を落とし、そして、安心したように、ふわりと笑った。
やがて、エミールは「またね!」と元気よく言い残し、新たな発見を求めて中庭の草むらへと駆けていく。 リンネは、その小さな背中が見えなくなるまで、ただ、じっと見送っていた。
謎は、解き明かされた。悍ましい現象の裏にあった、単純で、美しい化学の法則。彼女の仮説は、証明された。 そして、その証明された「真実」が、あの少年の心から、非論理的な恐怖を取り除いた。 それは、彼女にとって、予期せぬ、しかし、実に興味深い観測結果だった。
リンネは、駆けて、遠ざかっていく、少年の背中を見続けた。 真実の探求。なるほど、その先に、こんな現象が待っていることもあるらしい。彼女の唇の片端が、ごく僅かに持ち上がっていたことは、彼女も知らないまた一つの真実であった。




