第4話:禁じられた知の探求
塔の研究室に戻ったリンネの頭からは、すでに冷え切った食卓の光景も、家族の顔も消え失せていた。彼女の世界は、常に目の前の謎と、それを解き明かすための論理だけで構成されている。
リンネは壁際に立つ、一際大きな標本棚に近づくと、蝶の標本が収められた木箱の一つを、決められた手順でわずかにスライドさせた。重い石がこすれる音がして、標本棚そのものが静かに横に動き、壁に隠された小さな入口が現れる。
その奥は、彼女だけの聖域。秘密の書庫だった。
そこには、父の書斎にすらない貴重な書物が、埃をかぶって静かに出番を待っていた。そのほとんどが、ルミナ統一教会によって禁書に指定されたものだ。肉体を神聖な器とし、解剖を最大の禁忌とする教義 に逆らうように、『系統解剖学図譜』、『毒物及び薬物大鑑』、『外科学的創傷の判別法』といった背表紙が、蝋燭の灯りに浮かび上がる。これらは、彼女が密かに商人から買い集め、あるいは父の蔵書から抜き取った、禁じられた知の結晶だった。
リンネは慣れた手つきで、その中から一冊の解剖学の書物を引き抜くと、研究室の中央にある大きな作業机に戻った。
広げた羊皮紙の上に、彼女は羽ペンで思考を整理していく。
【既知情報】
公式発表: 商人の死。原因は森での獣害。ルミナ教会の神託により「神罰」と断定 。
観察結果①: 現場に、冷涼な閉鎖環境を好むニクバエの痕跡 。これは開けた森の獣害という状況と矛盾する。
観察結果②: 神託が下されたタイミングが、儀式として不自然なほど早い 。これは、結論が最初から用意されていた可能性を示唆する。
「獣害にしては、状況がおかしい…」
リンネは羊皮紙に描かれた人体の骨格図を指でなぞる。もし本当に大型の獣に襲われたのなら、骨には深い咬傷や、場合によっては粉砕骨折の痕が残るはずだ。だが、遠眼鏡で見た限り、遺体の損傷は激しいものの、どこか不自然な印象を受けた。まるで、獣の仕業に見せかけるために、死後、意図的に損壊されたような…。
彼女は書物のページをめくる。そこには、様々な刃物による創傷と、動物の牙や爪による創傷の違いが、精密なスケッチで描かれていた。
(ああ、この目で直接、遺体を見ることができたなら)
皮膚の切断痕、筋肉の損傷具合、骨に残る条痕。それらすべてが、凶器の種類を特定するための雄弁な証拠となる。だが、解剖が禁忌とされるこの世界で 、それは叶わぬ望みだった。
ならば、と彼女は思考を切り替える。
直接的な証拠がないのなら、状況証拠を積み上げるまで。
彼女の頭の中で、バラバラだった情報が一つの線で結ばれていく。
「犯人は、被害者を別の場所で殺害した。おそらく、私が例のニクバエを採取した、あの古びた狩猟小屋のような閉鎖空間で」
「死因は獣害ではない。だが、それを偽装するために、死体を森へ運び、遺体を損壊した」
「そして、犯人は知っていたのだ。この領地では、神託が下されれば、それ以上の捜査は行われないということを。神罰という結論は、完全犯罪を成立させるための、最後の蓋だった」
完璧な仮説だった。混沌として見えた事象が、一本の美しい論理の糸で貫かれる。リンネは、その思考の完成に、ぞくりとするほどの知的興奮を覚えた。
あのニクバエは、犯人が残した唯一のミス。第一の犯行現場を指し示す、道標に他ならない。
だが――。
リンネは広げた羊皮紙を見下ろし、小さくため息をついた。
仮説は完成した。しかし、それを証明するための手段がない。塔から出ることは許されず、協力してくれる者もいない。彼女はあまりに無力だった。
「…駒が、足りないわね」
盤面を動かすための、強力な駒が。
リンネは蝋燭の炎を見つめながら、挑戦的に口の端を吊り上げた。この退屈な盤面をひっくり返す、一手はどこにあるのか。彼女の探求は、まだ始まったばかりだった。
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