第7話:虫の墓標と囁き
決意を固めたリンネは、再び冷静な観察者に戻っていた。
彼女はシスターたちの目を盗み、雑役婦の仕事に徹する。その意識は、ただひたすらに、この施療院に隠された物理的な法則性――すなわち、事件の真相へと繋がる「しるし」の発見にのみ向けられていた。
その日、彼女は第三病棟の床を、箒で静かに掃き清めていた。患者たちの苦しそうな寝息と、薬草の匂いが満ちる中、窓から差し込む午後の光が、床の埃をきらきらと照らし出す。
リンネは、その光の筋の中に、不自然なものを発見した。
窓のすぐ下の床にだけ、他の場所では見られない、極めて小さな黒い点が、おびただしく散らばっているのだ。
彼女は、何気ない仕草でその場に膝をつくと、塵を集めるふりをしながら、その正体を検分した。
それは、特定の種類の、小さな甲虫の死骸だった 。
(この甲虫は…)
昆虫学者としてのリンネの知識が、即座に警鐘を鳴らす。この甲虫は、特定の化学物質に対して極めて脆弱な生態を持つことで知られていた 。このような閉鎖された環境で、これほど大量に死んでいるのは、明らかに異常だ。まるで、目に見えない毒が撒かれたことを示す、無数の墓標のように。
彼女は、誰にも気づかれぬよう、その中の一匹を指先でつまみ上げると、証拠として髪飾りの空洞部分に密かに隠した 。
物理的な証拠だけではない。リンネは、人々の恐怖心が生み出す雑音の中から、意味のある囁きを拾い集めることにも注力していた。
「あそこの部屋はなんだか空気が甘ったるい気がするんだよ」
ベッドのシーツを交換していた時、隣の寝台の老人がぽつりと漏らした言葉。
「亡くなった人たちは、みんなゼーゼーと胸を苦しそうにしていたねぇ」
洗濯場で、同僚の雑役婦が、神罰への恐怖を語る中で、何気なく口にした過去の犠牲者たちの共通点。
人々が神の怒りとして恐れる現象。その輪郭が、リンネの頭脳の中では、徐々に科学的な言葉で再構築されていく。
(特有の甘い匂い、そして、呼吸器系の異常…)
壁の染み、爪の変色、そして、虫の大量死。
そこに、これらの証言が加わる。
点と点が繋がり、一つの悍ましい仮説が、確信へと変わりつつあった。
この第三病棟は、緩やかに、そして確実に、人の命を蝕む巨大な毒の実験室と化しているのだ、と。
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