第6話:あるべき場所へ
エミールとの束の間の交流を終え、リンネは自室で一人、深く内省していた。
少年の純粋さに触れたことで、彼女の心は普段よりもずっと静かになり、思考は予期せぬ場所を彷徨い始める。
(悪いことなんて、何もしていないのに…)
エミールの問いが、棘のように胸に残ったままだ。
あの少年が虫に向けるような、無垢で、ただひたむきな好意。自分は、誰かにそのような感情を向けられたことがあっただろうか。
思考は、自然と故郷へと向かう。父や、兄姉との間に、自ら築き上げた冷たい壁。彼らの期待を裏切り、ただ己の知的好奇心だけを追い求めて故郷を飛び出してきた過去。
そして、思考は、今の自分の隣にいる男へと行き着く。
アレクシス・フォン・クライスト。
彼は、自分を「切り札」という、どこまでも合理的で、道具として扱う言葉で王都へ招いた。ヴァルハイム家で起きた悍ましい事件の後、崩壊した家族を前に、思考の澱に沈みかけていた自分に、彼は手を差し伸べた。
あの行動は、彼にとって、有能な「道具」を確保するための、極めて合理的な判断だったのだろう。だが、結果として、彼は自分をあの場所から連れ出してくれた。それは、紛れもない事実だった。
人の想いは、かくも複雑で、非論理的だ。
「…」
リンネは、自らを戒めるように、静かに息を吐いた。
あの施療院で起きている、悍ましい法則性。善意の祈りが、死を招いているかのような、忌まわしい現実。仮に、この世界の人間が言う「神罰」が、本当に存在するのだとしても。
だから、何だというのか。
彼女は懐から、甲虫の死骸が入った小瓶を取り出し、じっと見つめる。
硬質な外骨格、機能的な肢体。そこには、人の想いも、神の気まぐれも介在しない、ただ物理法則だけが支配する、静かで美しい世界があった。
「わたくしのすべきことは、変わらない」
たとえ、この世に神罰という不条理が存在するとしても、わたくしは、わたくしの流儀で、目の前の事象を観察し、分析し、真実を求めるだけだ。
あの少年の問いに、答えを出すために。そして、あの騎士殿との契約を、果たすために。
彼女のあるべき場所は、感傷や、答えの出ない形而上の問いの中ではない。
事実と論理が支配する、この研究室と、事件の現場だ。
複雑に絡み合いそうになった思考を振り払うように、彼女は再び、冷静な探求者へと戻っていく。
紫水晶の瞳から、束の間の迷いが消え、硬質で、冷たい光が再び宿った。
ご覧いただきありがとうございました。感想や評価、ブックマークで応援いただけますと幸いです。また、他にも作品を連載しているので、ご興味ある方はぜひご覧ください。HTMLリンクも掲載しています。
次回は基本的に20時過ぎ、または不定期で公開予定です
活動報告やX(旧Twitter)でも制作裏話等更新しています。
作者マイページ:https://mypage.syosetu.com/1166591/
Xアカウント:@tukimatirefrain




